立花 鑑通(たちばな あきなお)は、筑後柳河藩の第7代藩主。第5代藩主・立花貞俶の三男。母は側室の柴田喜右衛門の姉で、第6代藩主・立花貞則の同母弟である。正室は黒田継高の娘、清子。子は鑑門(長男)、通厚(三男、一門家立花監物家祖)、鑑一(四男)、鑑寿(五男)ら五男八女。幼名は万寿丸、駒之丞、通称は左近。諱は初め俶香、後に鑑致、鑑通。享保14年12月2日(1730年1月20日)に生まれる。元文5年(1740年)に諱を俶香(よしか)と称する(「俶」は父・貞俶から1字取ったもの)。延享3年(1746年)、兄の貞則が暴漢のために死去した後、その養嗣子となって家督を継ぎ、鑑致(あきよし)と改名する。藩主となった後は藩政に尽力する。銀札を発行し、官制改革で奉行に代わって中老制を定め、藩兵の調練所を設置した。さらに領内の人口や戸籍を調べ上げたり、家中の統率のために取締りを厳しくしたり様々な法令を出したりした。また、宝暦3年(1753年)に中老の四ヶ所通久(藤左衛門)による水車(踏車)普及が行われる。宝暦5年(1755年)に諱を鑑通(あきなお)と改める。明和3年(1766年)に長男・鑑門を嗣子に定めていたが、寛政元年(1789年)に先立って死去した。次に四男・鑑一に定めたが、寛政5年(1793年)に鑑一も先立って死去したため、やむなく五男・鑑寿をもって嗣子としている。その後も文武方を設置して武芸を奨励し、倹約令を発するなど、藩政改革を行なっている。寛政8年(1797年)閏7月22日に老齢を理由に隠居して鑑寿に家督を譲り、寛政9年12月9日(1798年1月25日)に柳河にて死去した。享年69。『柳河藩立花家分限帳』掲載の、寛政4年3月晦日(1792年)の『番頭看板名前順』と番頭構成が一致するとする作成年不詳の、侍帳での主要家臣は以下のとおり。【両家】【大組組頭】【組外】先述のとおり、鑑通は延享3年の藩主就任から宝暦5年(1755年)までは諱は「鑑致」、それ以降は「鑑通」と改名している。鑑致時代(「致」(よし)の字)鑑通時代(「通」(なお)の字)
出典:wikipedia
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