吉良 義央(きら よしひさ/よしなか(名前の読みについては後述を参照。))は、江戸時代前期の高家旗本。高家肝煎。赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。吉良上野介と呼ばれることが多い。本姓は源氏(清和源氏)。家紋は丸に二つ引・五三桐。寛永18年(1641年)9月2日、高家旗本・吉良義冬(4,200石)と酒井忠勝の姪(忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれる。一説によれば、陣屋があった群馬県藤岡市白石の生まれともされる。義冬の母が高家今川家出身であるため、今川氏真の玄孫にあたる。継母は母の妹。弟に東条義叔(500石の旗本)、東条義孝(切米300俵の旗本)、東条冬貞(義叔養子)、東条冬重(義孝養子)、孝証(山城国石清水八幡宮の僧侶・豊蔵坊孝雄の弟子)の5人がいる。妹も2人おり、うち1人は安藤氏に嫁いだ。承応2年(1653年)3月16日、将軍・徳川家綱に拝謁。明暦3年(1657年)12月27日、従四位下侍従兼上野介に叙任(位階が高いにもかかわらず、上野守でなく上野介である事については、親王任国を参照)。万治元年(1658年)4月、出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)と結婚。この婚儀は美男子であった義央を、富子が見初めたとの逸話もあるが、確実な資料からは見出せない。『上杉年譜』は「万治元年3月5日、柳営において老中・酒井忠清、松平信綱、阿部忠秋列座のなか、保科正之から三姫を吉良上野介へ嫁がせるべき旨を命じられたことを千坂兵部が(綱勝に)言上した」と幕命による婚儀と記している。富子との間に二男四女(長男・三之助、次男・三郎、長女・鶴姫、次女・振姫、三女・阿久利姫、四女・菊姫)に恵まれた。ただし次男・三郎と次女・振姫は夭折。万治2年(1659年)から父とともに出仕する。部屋住みの身分ながら、家禄とは別に庇蔭料1,000俵が支給された。寛文2年(1662年)8月には、大内仙洞御所造営の御存問の使として初めて京都へ赴き、後西天皇の謁見を賜る。以降、生涯を通じて年賀使15回、幕府の使者9回の計24回上洛した。寛文3年(1663年)1月19日、後西上皇の院政の開始に対する賀使としての2度目の上洛の際、同年2月3日、22歳にして従四位上に昇叙している。24回もの上洛は高家の中でも群を抜いており、さらに部屋住みの身でありながら使者職を行っていた事は、高家としての技倆が卓越していた事を表している。優秀な技倆を綱吉が寵愛した為ともいわれている。寛文4年(1664年)閏5月、義兄・上杉綱勝が嗣子なきまま急死したために米沢藩が改易の危機に陥ったが、保科正之(上杉綱勝の岳父)の斡旋を受け、長男・三之助を上杉家の養子(上杉綱憲)とした結果、上杉家は改易を免れ、30万石から15万石への減知で危機を収束させた。綱勝急死は義央による毒殺説が存在するが、これは上杉家江戸家老・千坂高房らと対立して失脚した米沢藩士・福王子八弥の流言飛語で、綱勝自身も若いころから病弱で、何度か病に倒れ、危篤になったこともあり、毒殺説の信憑性は乏しいとされている。以後、義央は上杉家との関係を積極的に利用するようになり、たびたび財政支援をさせたほか、3人の娘達を綱憲の養女として縁組を有利に進めようとした。長女・鶴姫は薩摩藩主・島津綱貴の室、三女・阿久利姫は交代寄合旗本・津軽政兕の室、四女・菊姫も旗本・酒井忠平の室となっている(鶴姫は綱貴に離縁され、菊姫も死別するが、のちに公家・大炊御門経音の室となって1男1女を産む)。寛文8年(1668年)5月、父・義冬の死去により家督を相続する。時に28歳。延宝8年(1680年)8月29日、高家の極官である左近衛権少将に転任し、天和3年(1683年)3月には大沢基恒、畠山義里とともに高家肝煎に就任した。貞享3年(1686年)、西尾藩と折衝の後、領地のあった三河国幡豆郡に黄金堤を築く。また、長男・綱憲の上杉家入り以後、嫡男は次男・三郎だったが、貞享2年(1685年)9月1日に夭折。綱憲や幕府とも協議の末、綱憲次男の春千代を吉良左兵衛義周と改名させて養子とし、元禄3年(1690年)4月16日に江戸鍛冶橋の邸宅へ迎え入れた。元禄11年(1698年)9月6日、江戸の大火により鍛冶橋邸を焼失し、のち呉服橋にて再建する。この大火で消防の指揮をとっていたのは播磨赤穂藩主・浅野長矩であった。元禄14年(1701年)2月4日、赤穂藩主・浅野長矩と伊予吉田藩主・伊達村豊両名が、東山天皇の勅使である柳原資廉・高野保春、霊元上皇の院使である清閑寺熈定らの御馳走人を命じられた。義央は高家肝煎の筆頭だったが、義央は朝廷への年賀の使者として京都におり、江戸に帰着したのは2月29日だった。長矩は過去に1度、勅使御馳走人を経験していたのだが、以前とは変更になっていることもあって手違いを生じていた。ここに擦れ違いが生じた、と見る向きもある。3月14日午前10時過ぎ、松之大廊下において、義央は浅野長矩から背中と額を斬りつけられた。長矩は居合わせた留守居番・梶川頼照に取り押さえられ、義央は高家・品川伊氏、畠山義寧らによって別室へ運ばれた。外科医・栗崎道有の治療もあって命は助かったものの、額の傷は残った。その後、目付・大久保忠鎮らの取り調べを受けるが、長矩を取り調べた目付多門重共の『多門筆記』によると、義央は「"拙者何の恨うけ候覚えこれ無く、全く内匠頭乱心と相見へ申し候。且つ老体の事ゆえ何を恨み申し候や万々覚えこれ無き由"」と答えている(多門筆記は事件のだいぶ後に書かれたもので、他者の作も考えられる)。長矩は、即日切腹を命ぜられた。義央は3月26日、高家肝煎職の御役御免願いを提出。8月13日には松平信望(5000石の旗本)の本所の屋敷に屋敷替えを拝命。受領は9月3日であった。当時の本所は江戸の場末で発展途上の地であった。この屋敷替えに合わせるように、8月21日、大目付の庄田安利、高家肝煎の大友義孝、書院番士の東条冬重など、義央に近いと見られた人物が「勤めがよくない」として罷免されて小普請編入となっている。12月11日、義央は隠居願いを提出した。これは依願退職のようなもので、即座に受理された。養嗣子・義周が家督を相続した。元禄15年(1702年)7月に浅野長矩の弟・長広が浅野本家に預かりとなった。これと前後して茶人・山田宗偏は本所に茶室を構えていたので、義央から吉良家の茶会にしばしば招かれていた。12月14日に茶会があるとの情報が宗偏を通じて、宗偏の弟子・脇屋新兵衛(その正体は四十七士の一人大高忠雄)につかまれていた。元赤穂藩筆頭家老・大石良雄はこの日を討ち入り日に決定した。12月15日未明、大石を始めとする赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入った。当主・義周はじめ吉良家臣らは防戦にあたるも、義央自身は炭小屋に隠れた。赤穂浪士たちは義央の捜索にあたったものの、容易に見つけることはできなかった。吉田兼亮や間光興らが、台所横の炭小屋から話し声がしたため、中へ入ろうとするや、皿鉢や炭などが投げつけられ、2人の吉良家臣が斬りかかってきた。切り伏せたあと、奥で動くものがあったため、間光興が槍で突いた。義央は脇差で抵抗しようとするも、武林隆重に斬り捨てられ、首を討たれた。享年62(満61歳)。義央の首は泉岳寺の浅野長矩の墓前に捧げられたあと、箱に詰めて同寺に預けられた。寺では僧二人にこれを持たせて吉良家へ送り返し、家老の左右田孫兵衛と斎藤宮内がこれを受け取った。二人の連署の署名がある吉良の首の領収書(首一つ)を泉岳寺が残している。先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が首と胴体をつなぎ合わせたあと、菩提寺の万昌寺に葬られた。戒名は「霊性寺殿実山相公大居士」。この当時の万昌寺は市ヶ谷にあったが、大正期に万昌院と改めて中野への移転に伴って墓も移動し、現在は史跡に指定されている。刃傷事件があった元禄14年(1701年)、義央は高家肝煎の地位にあったが、当時の高家は彼を含めて9人いた。義久以外では畠山基玄(従四位上侍従)・大友義孝(従四位下侍従)・品川伊氏(従四位下侍従)・京極高規(従四位下侍従)・戸田氏興(従四位下侍従)・織田信門(従五位下侍従)・畠山義寧(従五位下侍従)・横瀬貞顕(従五位下侍従)である(元禄14年当時)。この内、吉良義央・畠山義寧・大友義孝の三人が高家肝煎職だが、なかでも義央は高家肝煎職の最古参であり、且つ唯一の左少将であった。高家筆頭と呼ばれているのはこのためである。義央が浅野長矩を「田舎大名」と愚弄した根拠はない。ただ、義央も三河国(愛知県)に領地を持つ旗本である。両者の違いは、旗本と大名の問題に起因している。旗本は自らの領地に入ることがほとんどなく、家臣を代官に任命して派遣し、すべてを任せている場合がほとんどである。義央も領地三河国幡豆郡吉良庄に入ったのは一度のみで、上野国緑野郡白石村と碓氷郡人見村に至っては一度も行ったことがない。そのため、旗本が領地にアイデンティティを持つことはほとんどない。一方、大名(特に外様大名)は参勤交代で隔年に領地に入るので、領地にアイデンティティを持つ傾向が強かった。旗本や譜代大名からは「田舎大名」と失笑を買うことがあった。吉良義央と大石良雄の二人は、近衛家諸大夫進藤家と斎藤家を通じる形で遠縁がある。義央から見れば、妻の母親の実家を継いだ者が大石家の血の流れる者だったということになる。しかし、事件前から面識があったかどうかは不明。義央の読みは従来「よしなか」とされていたが、愛知県西尾市の華蔵寺に収められる古文書の花押などから、現在では「よしひさ」と考えられている。吉良義央を演じた俳優に関しては赤穂事件を題材とした作品を参照。
出典:wikipedia
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