日本万国博覧会(にっぽんばんこくはくらんかい、英:Japan World Exposition)は、1970年3月14日から9月13日までの183日間、大阪府吹田市の千里丘陵で開催された国際博覧会。アジア初かつ日本で最初の国際博覧会(General category:一般博、現・登録博)であり、当時史上最大の規模を誇った。略称は開催地の名から大阪万博、一般的な英語表記としてはEXPO'70が用いられた。また、日本国内において単に万博あるいは万国博とも略される(本項の記述にも用いる)。主催は、財団法人日本万国博覧会協会。博覧会の名誉総裁は当時の皇太子明仁親王、名誉会長は当時の内閣総理大臣、佐藤栄作。「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、77ヵ国が参加し、戦後、高度経済成長を成し遂げアメリカに次ぐ経済大国となった日本の象徴的な意義を持つイベントとして開催された。日本においては1964年の東京オリンピック以来の国家プロジェクトであり、多くの企業・研究者・建築家・芸術家らがパビリオン建設や映像・音響などのイベント制作・展示物制作に起用された。大阪市など会場周辺市街地では万博開催への整備がなされ、道路や鉄道・地下鉄建設など大規模開発が進められた。一方、第二次世界大戦以来の規模となる芸術家らの国家イベントへの動員は文化・芸術界内部で批判があったほか、同じく1970年に予定されていた日米安保条約改定に関する議論や反対運動(70年安保闘争)を大イベントで国民の目からそらすものだとして、大学生らによる反対運動も行われた。テーマ館の太陽の塔やアメリカ館・ソ連館などの、人気パビリオンでは数時間待ちの行列ができるなどして大変混雑した。特にアポロ12号が持ち帰った「月の石」を展示したアメリカ館の行列は延々と続き、途中であきらめて他の館へ行く人も多かった。その異常な混雑ぶりから、テーマをもじって「人類の辛抱と長蛇」や「残酷博」と揶揄されたことがある。また、国際博覧会史上初めて黒字となった。大阪万博の最終的な総入場者数は約6,421万人で、2010年中国・上海で開かれた上海万博に抜かれるまでは万博史上最多であった(上海万博は約7,308万人)。また、愛称の「万博(バンパク)」は、この博覧会の正式名称の「万国博覧会」を略したものだが、その後の博覧会の愛称にも引き継がれている(科学万博(つくば博)、花の万博(大阪花博)、愛知万博(愛・地球博))。なお、1940年3月15日から8月31日にかけて東京で開催される予定で、日中戦争の激化などを受けて開催延期された「紀元2600年記念日本万国博覧会」の前売り券が本博覧会で代替として使用できたため、約3000枚が実際に使用された。財団法人日本万国博覧会協会の会長理事は石坂泰三、事務総長理事は初代が新井真一(元通産省官僚、後に実業家)。新井はテーマの画策、テーマ館の総合プロデューサーを岡本太郎に依頼、説得するなど奔走したが志半ばで更迭された。理由は定かではないが、何らかの政治的な力学が働いたのではとメディアは伝えている。2代目が鈴木俊一(後の東京都知事)。万博会場の総合設計を行ったのは建築家の丹下健三であった。会場やパビリオンには随所にメタボリズムの意匠が見て取れる。黒川紀章や菊竹清訓等メタボリスト達は、広大な敷地に会期の間だけ「都市」を出現させ、終わったら全てを無に帰すという博覧会の特徴が上手くメタボリズムと適応したためか、大阪万博以降の博覧会(沖縄海洋博など)にも関与した。大阪万博の公式なシンボルマークは、日本の国花である桜をかたどったもので、デザインは大高猛。当初は西島伊三雄デザインの、鉄アレイ状の上に丸を描いた形で、東西世界の融合などを表しているとの説明だったが、シンボルマーク発表の記者会見の直前に万博協会会長の石坂泰三が「これでは日本が世界の上にあぐらをかいている」と激怒し、一蹴した(その日の会見は中止)。その後改めてデザインが行われ、桜をイメージしたマークとなった。「五つの花びらは五大州すなわち世界を、中央の丸は日本のシンボル日の丸を、周囲の白い部分は発展への余裕と伸びようとする意図を表している」と説明された。なお、日本館はこのシンボルマークを模って建設された。国際博覧会史上アジアで初めて開催される大阪万博に、できるだけ多数の国の参加を得て充実した意義あるものとするため、在外公館を通じて未参加国に対して参加勧奨に努めるとともに、総理大臣または万博担当大臣の特使および万博日本政府代表のほか博覧会協会幹部職員等を派遣して折衝を行なった。その結果同年中に新たに中央アフリカ共和国ほか25ヵ国が参加を決定し、参加決定国は合計81ヵ国に上ったが、他面、財政事情その他の理由により5ヵ国(ポーランド、イスラエル、ガイアナ、ハイチ、コンゴ(当時の旧国名ザイール))が参加を取り消した。最終的には、77ヵ国(日本を含む)、4国際機関、1政庁、9州市が参加した。1970年3月13日、天皇・皇后・皇太子・同妃と特別招待客・一般招待12000名が出席してお祭り広場で開会式が行われ、博覧会国際事務局副議長オタカール・カウッキーから同年に制定されたBIE旗が日本万国博覧会協会会長石坂に手渡され、参加各国の入場行進、石坂、内閣総理大臣佐藤、衆院議長船田、参院議長重宗、知事左藤、天皇らがことばを述べた。皇太子により開幕のスイッチが押され、会場は紙吹雪に包まれた。その後子供たちによるみこしで会場を沸かした。9月13日、皇太子同妃両殿下が臨場の下、特別招待客・一般招待6000名が出席してお祭り広場で閉会式が行われ、参加各国の入場行進、石坂会長、皇太子らがことばを述べた。BIE旗が返還され、参加国・国際機関旗が一斉に降ろされ、コンパニオンにメダルが贈られた。詳細は大阪万博の交通の項目を参照。会期中は多くのテレビ・ラジオが万博を取り上げ、NHK総合テレビでは毎日、会場から中継を行なう帯番組を編成した。開会式はNHKは特別番組を放送。民放はこれに対抗するため、在阪テレビ局を中心に日本民間放送連盟に加盟するテレビ全局が協力して『幕開く日本万国博』を製作した。全民放テレビ局が一致協力して1番組を放送したのはこれが初めてのことだった。会場跡地はビジネス副都心・研究都市など様々な開発案があったがどれも明確な計画ではなく、最終的には公園として再整備され1972年に万博記念公園として開園している。多くの自然文化施設、文化施設、スポーツ施設、レジャー施設が所在し、今も多くの市民に親しまれている。また、開催中から営業していたアミューズメントエリアのエキスポランドは、2009年に閉園となった。博覧会を主催した日本万国博覧会協会は、1971年9月に設立された日本万国博覧会記念協会(大蔵省主管)にその業務が移管され、その後2003年に特殊法人の整理合理化計画に伴い、独立行政法人日本万国博覧会記念機構となった。しかし、2013年に記念機構を廃止する法律が成立し、2014年4月1日付で記念機構は解散、万博記念公園の運営は大阪府に、また基金事業は関西・大阪21世紀協会にそれぞれ引き継がれている。
出典:wikipedia
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