オクラホマ (USS Oklahoma, BB-37) はアメリカ海軍の戦艦。ネバダ級戦艦の2番艦。艦名はアメリカ合衆国46番目の州にちなむ。蒸気タービンの代わりにレシプロエンジンを主機に採用した最後のアメリカ軍艦艇であり、最後まで振動問題に悩まされた。オクラホマは1912年10月26日にニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工された。1914年3月23日にロレーナ・J・クルースによって進水され、1916年5月2日に初代艦長ロジャー・ウェルズ大佐の指揮下就役する。バージニア州ノーフォークを母港としたオクラホマは、大西洋艦隊に加わり東海岸で訓練航海を行い、その後1918年8月13日まで姉妹艦ネバダと共にヨーロッパ水域で連合軍の船団警護に従事した。12月にはウィルソン大統領のフランス訪問での警護艦の役割を果たし、12月14日にキューバ水域での艦隊演習参加のためニューヨークを出航した。翌年6月15日にブレストに戻り、ウィルソン大統領の二度目の欧州歴訪での警護艦として随行し、7月8日にニューヨークに帰港した。1927年9月から1929年7月にかけてフィラデルフィアで近代化改修が行われ、その後カリブ海で艦隊演習に参加した後1930年6月に西海岸に戻り、1936年の春まで作戦活動に従事した。1936年の夏は士官候補生を乗せヨーロッパへの訓練航海を行い、北部の港を訪問した。この航海はスペイン内戦の勃発で中断され、オクラホマはビルバオを7月24日に訪れると米国民及び他の避難民を救出してジブラルタル及びフランスの港へ向かった。ノーフォークに帰港したのは9月11日であり、その後10月24日に西海岸へ向かった。続く4年にわたってオクラホマは太平洋艦隊において陸軍との共同作戦及び予備役兵の訓練に従事した。オクラホマは1940年12月6日からハワイ真珠湾を母港としていたが、1941年12月7日(現地時間)、同湾内で日本軍の攻撃を受け、第1次攻撃隊の集中攻撃を受けたオクラホマには多数の魚雷が命中し、転覆沈没した。脱出した乗組員の多くは隣に停泊していたメリーランドに乗り込み対空機銃の射撃を続けた。この攻撃で20名の士官及び395名の兵士が死亡、行方不明となった。戦死者のうちの一人、アロイシウス・シュミット神父は第二次世界大戦で戦死した最初の従軍牧師であった。32名が負傷し、多くが転覆した船体内に閉じこめられた。フリオ・デキャステロを始めとする多くの港湾作業員達の英雄的な努力により32名の兵士が救助された。その後は最低限の処理が行われたのみで真珠湾内にて横転着底状態のまま放置されていたが、1943年3月にサルベージが行われて浮揚、12月28日に乾ドック入りする。修理の上大改装による戦列復帰が計画されたが、ドックでの調査の結果損傷が激しく、修理は断念された。1944年9月1日に退役扱いとなり、武装や上部構造を撤去した後、1946年12月5日にカリフォルニア州オークランドのムーア・ドライドック社に売却された。1947年5月17日、2隻のタグボートに曳航されてサンフランシスコに向かう途中、真珠湾から540マイルの海域で嵐にあい、浸水が始まって傾斜が始まった。連絡を受けた海軍本部は、真珠湾に引き返すように指令したが、程なくオクラホマは沈没してしまった。沈没場所は特定されていない。オクラホマは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章している。
出典:wikipedia
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