日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年10月4日 - )は、日本の医師・医学博士。一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長、聖路加国際病院名誉院長、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長、公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長、一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所理事長などを務める。京都帝国大学医学部第三内科副手、大日本帝国海軍軍医少尉等を経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーヴァード大学客員教授、国際内科学会会長等を歴任した。日本循環器学会名誉会員となり、勲二等瑞宝章及び文化勲章を受章した。京都帝国大学医学博士、トマス・ジェファーソン大学名誉博士(人文科学)、マックマスター大学名誉博士。日野原は日本で最初に人間ドックを開設、早くから予防医学の重要性を説き終末期医療の普及にも尽くすなど、長年にわたって日本の医学の発展に貢献してきた功績が文化功労者と文化勲章の受章理由として挙げられている。従来は「成人病」と呼ばれていた一群の病気の名称を「生活習慣病」に改めたのも彼である。2001年(平成13年)12月に出版した著書『生きかた上手』は120万部以上を売り上げた。高齢者の希望の星的存在となっている。2012年現在は聖路加国際病院名誉院長であり、数多くの著書でも知られている。レオ・ブスカーリア作の絵本「葉っぱのフレディ〜いのちの旅〜」のミュージカル化に当たっては、日野原が企画・原案に携わっている。マスコミへの出演多数。また日野原は100歳を超えてなおスケジュールは2、3年先まで一杯という多忙な日々を送っている。乗り物でのわずかな移動時間も原稿執筆に使い、日々の睡眠時間は4時間半、週に1度は徹夜をするという生活だったが、96歳にして徹夜をやめ、睡眠を5時間に増やしたという(Be2008年1月5日)。日野原は少なくとも110歳まで現役を続けることを目標にしていると語っている。2009年7月6日にNHKのスタジオパークからこんにちはに出演、放送開始から10年以上経過しての初出演にスタジオ内でも好意的に紹介された。100歳を迎えて半年を経過した2012年5月31日に2回目の出演を果たしている。保守思想を持ち、皇室を崇敬。度々皇室行事に招かれている。新日本国憲法に勤皇奉仕義務を明記するよう求めている。一方で、朝日新聞で執筆中のコラム「95歳の私 あるがまま行く」において、君が代に代わる新国歌の制定も提案した。因みに勤め先の聖路加国際病院は聖公会系だが、自身は日本基督教団所属である。医療行為を医師のみに行わせることを主張する日本医師会の立場に対し、新米の医師よりも治療に精通した看護師もいるとして、医療行為を広く医療従事者に行わせることを認めるスタンスを取る。2005年に行った講演の中で「アメリカの大学教授選考では、最近は年齢は不問です。つまり、業績、仕事をやる人は、年齢に関係なく教授を続けられるようになった。それに引き替え日本では、大学に定年制が引かれ、アメリカとは逆ですよ。」と発言。以前、マスコミのインタビューを受けた際に、病院ではエレベーターを使わないと発言してしまったため、その後はどんなに疲れていても公衆の前ではエレベーターを使えなくなってしまったという。日野原は東京大空襲の際に満足な医療が出来なかった経験から、「過剰投資ではないか」という批判を抑えて、大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能出来る病棟として、広大なロビーや礼拝堂施設を備えた聖路加国際病院の新病棟を1992年(平成4年)に建設した。この備えは1995年(平成7年)の地下鉄サリン事件の際に遺憾なく発揮され、通常時の機能に対して広大すぎると非難されたロビー・礼拝堂施設は緊急応急処置場として機能した。院長であった日野原の判断により、事件後直ちに当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを無制限に実施し、同病院は被害者治療の拠点となり、朝のラッシュ時に起きたテロ事件でありながら、犠牲者を最少限に抑えることに繋がった。この時の顛末はNHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』などでも取り上げられている。小学生時代「金時さん」と同級生から渾名がつけられるほど、赤面恐怖症である。上記の関西学院中等部の弁論部以外に、演劇、ピアノ演奏、合唱の指揮などで人前に出る事で克服をしたと語っている。2015年10月末、左手の薬指と小指が曲がらなくなり、尺骨神経麻痺、等の異常かと思い、整形外科で診察した結果、指の筋肉に原因があり、軽くマッサージをすれば解決するものだった。この件で、自身が専門にしている、内科、循環器以外の病気に対して素人だったと語っている。座右の銘は、ウィリアム・オスラーの「医学は科学に基づくアートである」。戦時中、『聖路加』は政府に「大東亜中央病院」という名称に改名された。特高警察がやってきてスパイの嫌疑で自身や同僚が取り調べられたり、患者を装って病院に出入りし、監視をしていた。十字架の高い塔は宿直が出来る小部屋にあったが憲兵隊に押し入られた上に塔の十字架が切り取られた。「神の栄光と人類奉仕のため」という病院の理念が刻まれた石碑を御影石の板で覆い隠さなければならなかったという。その時の釘の跡が、今でも生々しく残っていると語っている。各地の高齢者に戦争を語り継ぐ活動の一環として、フォーラムの講演で「1人1人が持っている命を大切に」「その為にも平和な社会を築く努力を」と訴えかけている。『戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり』出版会見で「武器には武器、暴力には暴力で応じる悪循環を断ち切り、戦争ではなく話し合いで物事を解決する、寝強い精神が必要」「知性こそ人間の授かった宝である」と訴えている。10年以上行っている「いのちの授業」においては「虐めは暴力」という、不毛を訴えている上に、2015年発売した『戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり』の帯宣伝にも「戦争はいじめと同じです」と明記されている。95歳の時、書籍において子供達にも「争いの根っこにある苦しみの感情。それをコントロールできるのは自分だけである」「憎い相手を許す、その勇気で戦いを終わらす事が出来る」「『知る』と言う事をもっと大事にして下さい」という記述もあった。アドベントが始まった2015年11月29日、多数の聴衆に「いのちの器」について語りかけた。命は私に与えられた時間です。それを何の為に使うのか、もし助けを求めている者の為に有効に使うのなら、自分達の生き方は、これからの時代を生きる子供たちの手本になる事を訴えている。趣味の一つにピアノがある。日野原は結核を患い、闘病生活を送っていた当時、「ノクターン」を作曲した。この曲は、2008年2月17日放送の「N響アワー」(NHK教育テレビ)で日野原がゲスト出演した際、池辺晋一郎によってごく一部ではあるが披露された。2015年には全国学校音楽コンクール(小学校の部)課題曲『地球をつつむ歌声』の作詞を担当した。他に小学生の頃から同人誌などの物書きも嗜み、筆名は「日野原重秋」「日野原詩郷明」。箱根駅伝やサッカー観戦を好み、2015年のなでしこジャパンのイレブンでは海堀あゆみの大ファンでもある。御洒落は人前に出る前のお守りの役割で、ジャケットやネクタイを季節毎に合わせて選び、更に長嶋一茂が褒めてくれたと耳にした以降、ポケットチーフに力を入れ、出かける前に同居していた家内から数枚渡される中から1つ選択していたという。食事は夕食をメインにしたものである。朝食はジュースにオリーブオイルをかけて飲み、昼食は牛乳、胚芽クッキー、林檎だけで済ませる。夕食は週2回は肉、他は魚と少し多めに食べ、その日の体調に合わせて食べ物を変えるという。本人曰く「集中していれば空腹にならない」とのこと。反面、1951年のアメリカ留学時に1ドルが360円時に金銭面の規制が大きかった事により、現地で支給される1ヶ月60ドルで、全てを賄わければならなかった事が要因で、仕事仲間からの昼食を断り、1人でコーラ、フライドチキン、ハンバーガーを食していた。そのせいか現在でも無性に前述のファーストフードを食べたくなると言う。好物は、母親が作ってくれた、落花生と砂糖と味噌をすり合わせて出来た、ピーナッツバターを模した「ピーナッツ味噌」とアメリカ留学時に食したビーナッツバター付きのパン。内科部長時代の1970年3月31日、日野原は福岡で行われる日本内科学会総会へ出席のために搭乗した旅客機にてよど号ハイジャック事件に遭遇し、人質となった。日本初のハイジャック事件ということもあり、犯行グループが「この飛行機は我々がハイジャックした」という犯行声明に対し、「ハイジャック」の意味を知らなかった日本人乗客の為に自ら手を挙げ、「ハイジャックとは飛行機を乗っ取って乗客を人質にすることです」と機内で説明している。高齢のため福岡で下ろされた虎の門病院院長の沖中重雄とは異なり、韓国の金浦空港で下ろされ解放された。ハイジャック中に犯人グループから人質へ本が提供されたが、応じたのは日野原だけで、『カラマーゾフの兄弟』を借りたという。
出典:wikipedia
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