パール・ジャム (Pearl Jam) とは、アメリカ ワシントン州 シアトル出身のロック・バンドである。グラミー賞受賞、アルバム4枚がビルボード誌に初登場1位(2013年時点)、CDセールス最速記録がギネスに認定されるなど、社会的・商業的成功をおさめている。1990年代前半、シアトルを中心として従来のMTVを中心とした商業主義ロックに反抗するオルタナティヴ・ロック・ムーブメントが若者を中心に大流行し、サウンドガーデンやニルヴァーナ等と共にグランジ・ロックと呼称されて世界的にも反響を及ぼした。その中でも、パール・ジャムは当時のジェネレーションXたちの苦悩の代弁者とまで評され、その世代の旗手として位置づけられていた。ローリングストーン誌が行った90年代を代表する曲というテーマの読者投票では、「Black」が選ばれており、2005年にUsa Today誌が行った最も偉大なアメリカのロック・バンドというテーマの読者投票では、イーグルスなどの大御所を抑えてパール・ジャムが選ばれるなど、アメリカの一般聴衆からの評価は高い。ストーン・ゴッサードとジェフ・アメンは1980年代中頃にグリーン・リヴァーというバンドで活動していて、ツアーやレコーディングも行っていたが、わずかな成功を残してバンドは1987年に解散してしまった。そして同1987年の後半にはゴッサードとアメンは Malfunkshun というバンドのボーカリストだったアンドリュー・ウッドと共にバンド「マザー・ラブ・ボーン」として活動を始め、1989年初頭にはポリグラム・レコードと契約し、制作費などの資本的なバックアップを得られるようになりレコーディングとツアーを行っていた。マザー・ラブ・ボーンでのデビュー・アルバム『Apple』が1990年7月に発売され、次世代トップ・ミュージシャンとしての将来が確実とされていたジェフ・アメンとストーン・ゴッサードであったが、デビューから4ヶ月後にアンドリュー・ウッドがヘロインの過剰摂取により他界してしまった。それから数ヶ月後にゴッサードは「シャドウ」というバンドのギターリストだったマイク・マクレディを招き入れ、アメンと3人でリハーサルを行ったり、シンガーとドラマーを募集するための音源として5曲のデモ・テープ制作を行う。その音源をレッド・ホット・チリ・ペッパーズ結成時のドラマー、ジャック・アイアンズが気に入り、彼らのバンドへ加入することとなった。1990年頃のエディ・ヴェダーはカリフォルニア州サンディエゴのバンド「バッド・レイディオ」のリード・ボーカリストとして活動していて、ライブ・ハウスの従業員でもあった。そのヴェダーのバスケット・ボール仲間だったジャックは、ヴェダーから「ボーカリストになりたい」という夢を聞かされており、彼にアメンらのボーカリスト募集用のデモ・テープを聴かせたところ、ヴェダーは歌詞を書き加え3曲 (後の「Alive」「Once」「Footsteps」) に対してボーカルをオーバー・ダブした。ジャックはそのテープをメンバー募集中のアメンらへ送付し、アメンとゴッサードはテープを聴いてから1週間ほどの内にヴェダーをボーカリストとしてバンドへ迎え入れることにした。新たなドラマーとしてデイヴ・クルーセンが加わり、バンド名は「ムーキー・ブレイロック」となったが、1990年の秋には エピック・レコーズと契約を交わす事となり、バンド名はこの時点で 「パール・ジャム」 となった。エディ・ヴェダーの人生にとって初の大物バンド参加がパール・ジャムで、参加から契約まで数ヶ月しか経なかったため、デビュー直前まで彼のステージングは素人以下とバンド内外から酷評を受けていた。ある夜のライブでヴェダーが興奮し、マイクスタンドの根元の鉄板を客に向かって投げつける暴挙に出た瞬間、今日のグランジ・バンド的とされるステージパフォーマンスが誕生した。幸運にもこの時に怪我人はいなかったが、鉄板が会場の壁に刺さって騒然となった。しかしこの日を境にヴェダーは、生まれ変わったが如く過激なステージ・パフォーマンスを展開し、グランジ・スタイルを完成させることになった。1991年3月にバンドはシアトルのロンドン・ブリッジ・スタジオでデビュー・アルバム用のレコーディング・セッションに入った。しかし、5月にはデイヴ・クルーセンが婚約者の出産を理由に出産日当日にバンドを脱退したため、新たなドラマーとして、Edie Brickell & New Bohemians で活動していたマット・チャンバーレインを見つけた。しかし彼はサタデー・ナイト・ライブ・バンドに参加してしまったため、チャンバーレインからの紹介でテキサスの無名ファンクバンドで活動していたデイヴ・アブラジーズを迎え入れることになった。そして同年8月27日にデビュー・アルバム『Ten』が発売された。アルバムのセールス初動はスロー・ペースだったが、1992年中頃にはブレークし始め、ビルボードのチャートでも2位を記録するなどしてゴールド・アルバムとして認定されることになった。アルバムからはメンバー募集時からの馴染み曲でもある「Alive」と、他に「Even Flow」「Jeremy」などがシングル・カットされヒットした。その後、アルバムは2年間近くビルボードにチャート・インし続けて、当時は最も売れたロック・レコードとして記録され、13x プラチナ・アルバムとしてRIAAから認定される結果となった。アルバム『Ten』の成功を経て、パール・ジャムはアリス・イン・チェインズ、ニルヴァーナ、サウンドガーデンらと共にシアトルのグランジ・ロック・シーンでは中心的存在になった。1992年には サタデー・ナイト・ライブ やMTV アンプラグドなどへ出演し、夏のロラパルーザツアーでは、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、サウンドガーデン、ミニストリーなどと競演していた。そしてマット・ディロン主演の映画「シングルズ」のサウンドトラック・アルバム用に「State of Love and Trust」と「Breath」の2曲を提供し、自らも出演するなど、徐々に活動の幅を拡げていった。アルバム・セールスのブレークと共に様々なメディアに書き立てられ、その事が原因となってカート・コバーンとの間に確執ができるなどの弊害もあったが、1993年にはプロデューサーにブレンダン・オブライエンを迎え、再びスタジオ入りしてニュー・アルバムのレコーディング・セッションを始める。10月19日にはセカンド・アルバムとなる『Vs.』をリリースし、アルバムは全米チャートで初登場1位を獲得してその後5週間に渡ってその位置を保ち続ける成功を収めた。アルバムはアメリカ国内での発売後1週間に95万枚を売り上げるが、この記録は2000年にリンプ・ビズキットに破られるまでは、ビルボード誌における歴代最高の数字だった。翌1994年12月22日にはサード・アルバムの『Vitalogy』をリリース。アメリカでのイニシャル・プレス枚数が350万枚で当時の史上最高を記録し、全米チャートでは堂々の初登場1位を獲得する。発売後1週間の売り上げ枚数は87万7000枚に達し、前作『Vs.』に続いて当時歴代2位の売り上げ枚数を記録した。アナログ・レコード盤はCDに先駆けて限定5万枚がプレスされ、全米アルバム・チャートでは55位を記録するという快挙も達成している。1996年にはこのアルバムに収録されている「Spin the Black Circle」がグラミーで「ベスト・ハード・ロック・パフォーマンス賞」を受賞した。1998年には、ファン・クラブ向けのクリスマス・ソング「Last Kiss」(J・フランク・ウィルソンのカバー曲)がビルボードのシングル・チャートで2位に入り、異例のスマッシュ・ヒットを記録した。また6作目『Binaural』では、バイノーラル録音にも挑んでいる。欧米での人気に比して、アジア地域では明白に人気が落ちる。『Ten』『Vs.』『Vitalogy』の初期3作品がグランジ・ロックを代表するアルバムといわれる。同時代の他のグランジ・ロック、オルタナティヴ・ロックに多いデカダンス的な表現は少なく、中期の作品を除いておおむね70年代型の王道なロック・サウンドを主流にしている。もっとも、3作目を中心にして「重々しさ」や「深刻さ」の表現に関して特徴がある。総じて、従来のロック・ミュージックのカテゴリーでは "ヘヴィ・ロック" に最も近いサウンドであり、「70年代型のリフヘヴィなスタジアム・ロックにポストパンクの怒りと反骨心が合わさった」ようなサウンドであると形容される。また、各アルバムにおいては静と動のコントラストを際立たせる構築になっている。ストーン・ゴッサードのリズムギターはファンクから影響を受けた強烈なグルーヴ感覚に定評がある。一方、マイク・マクレディのリードギターは強いブルース色が特徴で、「感覚指向」「ルーツ指向」であると評価されており、ジミ・ヘンドリクスやジョー・ペリーと比較される。エディ・ヴェダーの歌声はジム・モリスンとも比較されるバリトンボイスに特徴があり、抑揚に富んだボーカルが最大の特徴になっている。二人のギターリストを擁しボーカリストもギターを担当することもあるが、複雑なコード進行や難易度の高いギターソロを前面に押し出すのではなく、全体の一体感を保った上でほとんどの楽曲の中核にヴェダーの歌唱を据えている。また、当初はマイク・マクレディがリードギター、ストーン・ゴッサードがリズムギターと役割が明確に決められていたが、『Vitalogy』期からエディ・ヴェダーがリズムギターを弾くことが多くなり、それにつれてギターの担当パートの縛りは薄れていった。これについてマクレディは「ギターリストが三人になったが、今ではギターの担当パターンの余地がより増したと思う。(例えば)ストーンが後退してダブルノートのフレーズを弾き、エドがパワーコードを弾けば、俺はその二人に合わせるように音を出していればいい」と語った。歌詞の内容については、初期は物語的な歌詞、中期は哲学的な歌詞、近年は政治的な歌詞が多い。但し作詞を担当するエディ・ヴェダーは、政治的な思想の影響を多方面から受け過ぎる傾向があり時として左から右にコロコロと変わるので、メディアに批判されたことがあった。またヴェダー以外のメンバーの思想は全く異なる場合もあるため、他メンバーは敢えて発言を控え「ヴェダーの意思表示はバンドを代表するものではなく個人的なものである」という程度のコメントに留めている。頻繁にライブ活動を行う。観客席にダイブし、聴衆の中で歌うというパフォーマンスが初期の特徴であった。また、ツアー時にはファンによる大規模でカルト的な追っかけが発生することでも有名で、グレイトフル・デッドの「デッドヘッズ」に比較される。これについてローリングストーン誌は「パール・ジャムは途絶えることなくツアーを行い、かつてザ・フー、ブルース・スプリングスティーン、U2のツアーでも見られた、グレイトフル・デッドの信奉者のような、熱狂的で狂信的な長距離遠征を行う追っかけファンを惹き付けることにより偉大なアリーナ・ロック・バンドへと成長していった」と評価した。その活動ポリシーから1993年から1998年までビデオ・クリップを含めた映像作品は制作してこなかったため初期の公式映像は少ない。しかし、1998年以降は積極的に映像作品を制作している。ライブ・ビデオのリリースが多いのはブートレッグ版対策の意味合いが大きい。また、マット・ディロン主演映画『SINGLES』(1992)に当時のメンバー5人がカメオ出演している。CDにおいて、初めて紙ジャケットを導入した。以降、多くのロック・アーティストが同様の手法でアルバム・アートを製作した。公式のブートレグを安価で聴衆に提供した。これはバンド及び所属事務所側からの海賊盤対策のためである。パール・ジャムのブートレグは非常に多く、メンバーのジェフ・アメンもインタビューで「趣味はパール・ジャムのブートレグを集めること」とジョークにしたほどである。結果72枚のライブアルバムをリリースし、次いで当初の構想であったインターネット販売に切り替えられた。これは公演終了後24時間以内に音源をダウンロード販売し、後日CDも郵送するというサービスで、これにより200タイトル以上の公式ブートレグを販売している。ニール・ヤングを敬愛している。ニール・ヤングのアルバム『Mirror Ball』にメンバー全員がサポートとして参加したり、ライブでは彼の曲のカバーを何度も演奏するなどしている。また、他にもザ・フーやザ・クラッシュなど、ライブでは彼らが支持するバンドのカバー曲をたびたび演奏している。逆に、パティ・スミスやR.E.M.などにより曲をカバーされることもある。他に影響を受けたアーティストとして、ザ・ドアーズ、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド、キッス、エアロスミス、ラモーンズ等を挙げている。後輩ミュージシャンへは、シルヴァーチェアー、パドル・オブ・マッド等のポストグランジ勢だけではなく、ストロークス等もパール・ジャムからの影響を公言しており、90年代から00年代にかけてのガレージロック・リバイバルの勃興へも重要な役割を果たしたと言える。さらにエディ・ヴェダーの歌唱スタイルについては「ロック史上最もコピーされたヴォーカリストのひとり」であると言われており、その影響力をうかがい知ることができる。詳細はグランジ・ファッションの項目も参照。コンバースのスニーカーにショートパンツや汚れたジーンズ、それにフランネルのシャツやバスケットボールのユニフォーム的なタンクトップ、Tシャツをあわせるといった従来のいわゆるロック・スターとは異なるスタイルでステージにあがり、以後のグランジ・ファッションのモデルとなる。バンドをモデルにシングルス (マット・ディロン、ブリジット・フォンダ主演) という映画が作成される。メンバーもわずかだが出演している。チケット・マスターとの法廷闘争など、パール・ジャムは、ファン・サービスに力を入れるバンドとして有名である。人気絶頂期、ヴェダーはラジオの生放送番組出演中に対応した自殺志願のティーンエイジャーからの電話相談を真剣に受け止め、興奮の余り自宅の電話番号を放送中に相手に伝え、「いつでも辛い時には電話して来い!」と発言。その直後から数時間、シアトル市内の彼の自宅のエリア一帯の電話回線がパンクしたため、当局から厳重注意を受けた。その後、ヴェダーに生番組出演のオファーは皆無に近い状態が続いた。また、ヴェダーはデビューしてからしばらくは全てのファンレターに直筆で返事を書く努力をしていた。事実、移動中など空き時間の多くを返信のために費やしていた現場を多くの記者に目撃されており、当時は奇行と報道されていた。しかし3ヶ月分のレターの返信に1年以上掛かる事になり、2ndアルバム発表後にはレターへの返信を断念した。結成当初NBAのニュージャージー・ネッツで活躍していたバスケットボール選手の名前「ムーキー・ブレイロック」をそのままバンド名にして活動していた。メンバーの多くがバスケットボールを愛していたからである。ちなみに、1991年にリリースしたアルバム『Ten』はブレイロックの当時の背番号である。その後レコード契約の際に法的問題を指摘されたため、「パール・ジャム」にバンド名に変更。「パール・ジャム」については、エディ・ヴェダーの祖母パールの作るジャムが「美味」ゆえにバンド名の由来になったとするのが有力説であるが、アラン・ジョーンズ著 藤本智司 訳『パールジャム・イラストレイテッド・ストーリー』(シンコーミュージック刊)によると、バンド名の由来はヴェダーの祖母=パールの作るジャムが「おいしいから」ではなく、ペヨーテを用いた特殊な幻覚作用を催すジャムであったことに由来するとヴェダーが語っている下りがある。ジャムはアメリカ先住インディアン民族の伝統的レシピによるものらしい(ヴェダーの祖母はアメリカ先住民族の末裔)。ヴェダーはそれを小学生時代から朝食のトーストを通して口にする機会があり、小学校登校時にハイになった状態で登校する日があったとインタビューで語っており、その頃からそのジャムを祖母への愛情を込めて「パール・ジャム」と呼んでいた。『Vs.』以降, アルバムはデジパック仕様でリリースされている。また2000年に行われたワールド・ツアーの全72公演が、2003年に『オフィシャル・ブートレッグ』としてリリースされていて、全公演の中から任意の会場を自由に選択して購入できる仕組みが販売方法で採用されていた。グランジムーヴメント期に人気を二分したニルヴァーナと比較されることが多い。同郷で同時期に台頭したために同じグランジというカテゴリーに含まれることが多いが、パンク・ロック的側面を多分に含むニルヴァーナに対してパール・ジャムのバックボーンはハードロックによる部分が大きく、両者のスタンスは決定的に異なる。日本ではニルヴァーナの方が人気を獲得しているが、グランジ・ムーヴメント期におけるアメリカでのパール・ジャムの評価はニルヴァーナと同等かそれ以上であった。生前のカート・コバーンはプレスを通してことあるごとにヴェダー批判を展開して、しかしコバーンの訃報に親族以外で一番ショックを受けていた関係者はヴェダーであったと言われる。ヴェダーは悲しみの余り数ヶ月間は真剣に引退を考えてしまうほどの鬱に陥った。 ジェフ・アメンが中心となって活動しているスリー・フィッシュ、マイク・マクレディが中心となって活動しているザ・ロックフォーズ等、メンバーはサイド・プロジェクトとしての音楽活動も多数行っている。
出典:wikipedia
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