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河内経国

河内 経国(かわち つねくに)は平安時代後期から末期の武将。河内源氏第4代の源義忠の嫡男。父方の祖父は河内源氏第3代の源義家、母方の祖父は伊勢平氏棟梁の平正盛という源平両氏の血を引く。父が河内守(『河源記』では、領地の地名、『稻澤氏家譜系図』では河内権守)であったことに由来して、河内源太と称した。河内国石川郡壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)の香呂峰の館で、義忠の嫡男として康和5年(1103年)以前に誕生したものと思われる。鳥羽天皇の内舎人となったことから逆算すると、保安4年(1123年)以前に21歳以上となったと考えられるためである。また、康和3年(1101年)生まれとする史料(『河源記』、『稻澤氏家譜系図』)もある。祖父・源義家より源太の幼名を与えられ、世に「河内御曹司」と称され、5代目棟梁として嘱望された。ところが幼少期の天仁2年(1109年)2月3日に父が平成幹に暗殺されると、父の養子であった義兄(『殿暦』、『河源記』、『稻澤氏家譜系図』、『永享記』では叔父)の源為義が犯人とされた大叔父の源義綱を追討して家督を継ぎ(真犯人は義綱の弟源義光)、源太ら兄弟は為義に邸を追われ母方の叔父・平忠盛の邸(『河源記』では藤原経実の邸)で育った。矮躯ながら武技に優れ、内舎人となった。父方の叔父である源義国が上洛し、京都で活動を始めると邸に引き取られ、後に義国を烏帽子親として元服した。「経」は藤原経実、「国」は義国よりの偏諱とされる。その後藤原経実の家人となり、その息女(生母不詳)を正室とし、経実の信任厚く武技を認められ、その警護を務めた。後年、義国の家司となり、下野国足利へ移住した。天仁元年(1108年)の浅間山大規模噴火で壊滅した武蔵国北部の河内牧を再興し、その周辺を河内庄として領有し岳父である藤原経実に寄進し、自らは庄司となって治めた。また、子息の称した稲沢(埼玉県本庄市児玉町稲沢)はその河内庄(埼玉県本庄市児玉町河内)の中の地名で、河内庄の中心から山を越えて北へ移動したところにある。この荘園を設立できた背景には、近隣に勢力を振っていた舅であった児玉経行の影響力と隣国で武威を誇った叔父義国の支援があったこと、中央政界に大きな影響力があった岳父・藤原経実の後援もあったと考えられる。また、義国の武蔵への進出の足がかりとしての前線基地的な意味合いもあった。義国の長男で従弟の新田義重が上野国の新田荘に進出したこととあわせて考えると、下野国・上野国・武蔵国の三国に進出しやすい足利庄に拠点を定めた義国の戦略眼が優れていたことを証明している。そのうちの武蔵方面進出を担ったのが経国であった。また、下野那須郡には祖父、父から伝領した領地があったとされるが詳細は不明。後に子孫の稲沢氏が拠点を置いた稲沢氏館付近(栃木県那須郡那須町稲沢)と思われるがこちらも詳細は明らかでない。叔父為義の長男である従弟の義朝が都から関東の地に下向してくると、下野国の義国と相模国の義朝という源氏の2つの勢力が関東に存在するようになった。義朝は急激に近隣の源氏恩顧の武士団を糾合したため、義国の勢力と義朝の勢力が武蔵国などで接近し、両勢力の間で緊張感が高まった時、経国は叔父・義国と従弟・義朝の間を調停し、同盟関係を構築した。義国の没後は嫡男源義康と義朝に仕え、義朝の従兄・後見人として、その後も源氏の相克を防ぎ源氏の勢力の復興に尽力した。保元の乱の際も、自身は義朝が属した後白河天皇の陣営に身を置きながら、源氏相克の事態を防ぐべく、敵方となった為義に自重を求めるなど活動したが、果たせなかった。保元の乱では目立った活躍はなかったのか、『保元物語』には源義朝の随兵として「乳母の鎌田の次郎政清河内源太近江國佐々木三郎八嶋冠者」と列記されており、義朝の乳兄弟の鎌田正清と義弟の佐々木秀義の間に記載されており、その立場がわかるが、物語中では名前だけの登場で活躍の記載はない。また、一部の『保元物語』では「河内源太朝清」という記載がある。平治の乱の際は父方の従弟の義朝と母方の従弟の平清盛の狭間で苦しみ、遁世した。『河源記』によると、義朝が武蔵の知行国主であり経国が旧知の藤原信頼と提携したことを危惧し、を具申したが、義朝は取り合わず、清盛と従兄弟の関係にある経国を排斥したため、ついに袂を分かったとする。その後、経国は二条親政派で、二条天皇の母方の叔父にあたる藤原経宗の義兄(姉の夫)であることからその陣営に属すこととなり、反信西の軍事行動である三条殿襲撃には参加したが、経宗は信頼と義朝が提携している状況では信頼に国政が壟断されると考え、清盛との提携を模索し、経国は清盛の従兄弟という関係を重視され、提携の使者として清盛と会い、二条親政派と清盛の提携を取り纏めた。その情勢を経国は義朝に伝えるが、二条天皇、後白河上皇を擁していた藤原信頼、源義朝は一笑に付したが、その後、二条天皇が清盛のもとへ脱出し、後白河上皇も仁和寺に脱出すると、形勢は経国の危惧通り逆転し、義朝は賊軍となり討伐されることとなった。その時の経国の動静は『河源記』は伝えていない。その後、義朝の死が伝わると経宗、清盛に辞去の挨拶をし経国は遁世する。遁世後は鞍馬寺に住したと記載し『河源記』では没年を承安4年(1174年)としている。義忠の系統の嫡流は経国の死後、弟の源義高の子孫が継承したが、平家の没落などもあり、それを背景としていた義高の家系も没落した。その後は、義忠の子孫それぞれがその嫡流を称していたが、勢力も小さく、嫡流であることに意義はなく、それらの呼称も見られなくなった。

出典:wikipedia

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