ユリウス・シュトライヒャー(Julius Streicher、1885年2月12日 – 1946年10月16日)はドイツの政治家、ジャーナリスト。反ユダヤ主義新聞『シュテュルマー(Der Stürmer)』の発行人。1922年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党。ナチ党の初期の頃には主要幹部の一人であった。1923年から『シュテュルマー』紙を発行し、強烈な反ユダヤ主義報道を行った。1925年にニュルンベルクを管轄する大管区指導者となるが、第二次世界大戦中の1940年に空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥と対立を深めて解任された。戦後、ニュルンベルク裁判でユダヤ人虐殺を煽動した戦犯として起訴され、絞首刑判決を受けて刑死した。1885年、ドイツ帝国領邦バイエルン王国南部のに生まれる。父は教師のフリードリヒ・シュトライヒャー(Friedrich Streicher)。母はその妻アンナ(Anna)。一家はカトリック家庭で、シュトライヒャーは九子だった。父と同様に小学校の教師となり、1909年にニュルンベルク市に移住した。彼は第一次世界大戦前はドイツ社会民主党(SPD)の党員だった。1913年にはパン屋の娘のクニグンデ・ロート(Kunigunde Roth)と最初の結婚をし二人の息子をもうけているが、1943年に妻と死別した。一次大戦時は陸軍に従軍。危険な任務を自ら進んで引き受け、戦功をたてた。少尉まで昇進し、一級鉄十字章を授与された。戦後、フランケン地方で反ユダヤ主義政党を創設した。1922年10月にミュンヘンでアドルフ・ヒトラーの演説を聞いたシュトライヒャーはヒトラーの虜となった。シュトライヒャーはその場で聴衆をかき分けて進み、「自分の党に属する2000人の党員を贈り物として捧げたい」とヒトラーに申し出たといわれる。部下たちとともにナチ党に入党したシュトライヒャーは、ニュルンベルクに最初のナチ党支部を創設、同支部の支部長に就任した。さらにシュトライヒャーのイニシアチブの下にフランケン地方の町々に13のナチ党支部が創設されていった。ヒトラーへの強い忠誠心と北バイエルンの党建設の功績でヒトラーはシュトライヒャーに多大な信任を寄せていた。彼は北バイエルンにおけるヒトラーの総統代理に任じられていた。1920年代前半のシュトライヒャーはナチス中枢の幹部であったといえる。しかしシュトライヒャーは政敵と争いを起こす事が多く、よく裁判沙汰になり、党に厄介事をもたらす事が珍しくはなかった。ポルノグラフィーに夢中になったり、常に犬鞭を持ち歩くといった奇妙な習慣のために評判の悪い人物であった。1923年5月には悪名高い反ユダヤ主義新聞『シュテュルマー(Der Stürmer)』(突撃兵の意)を創刊している。『シュテュルマー』は著名な歴史学者であったハインリヒ・フォン・トライチュケの言葉「ユダヤ人は我々ドイツ人の災いである」を毎号各ページの下段に掲げるほか、読者の感情を逆なでするような過激な見出しを用いて、たとえば猟奇的な性的犯罪などをでっちあげて掲載し、ユダヤ人を誹謗中傷した。あまりに下品で俗悪な内容に他の党幹部や国防軍の将校達、ナチス支持者の財界人などからさえ批判の声が上がっていた。戦時中の連合国のプロパガンダにも『シュテュルマー』紙はナチの悪徳ぶりを示す証拠として盛んに利用された。『シュテュルマー』の発行部数は1923年には2500部だったが、1935年には6万5000部になり、1937年には50万部に達している。1923年11月のミュンヘン一揆に参加したが、一揆は失敗。シュトライヒャーも拘留され、ニュルンベルク市から教職の停職処分を受けた。しかしすぐに釈放され、政治活動を再開した。ヒトラーの代理アルフレート・ローゼンベルクによって設立されたナチ党の偽装組織「大ドイツ民族共同体」に参加。まもなくヘルマン・エッサーとともに同組織の指導者となった。更にかつての突撃隊員を集めて「帝国鷲民族同盟」を組織した。大ドイツ民族共同体は他のナチ残党が創設したグループより過激な集団で、より激しい反ユダヤ主義、議会政治反対思想、労働者寄りの政策を掲げていた。1924年8月にナチ残党勢力が集まって開いたヴァイマル大会でエーリヒ・ルーデンドルフがヒトラー不在の間の指導者である事が確認され、また選挙のための統一政党「国家社会主義自由運動」が創設されることとなった。しかし議会政治に反対するシュトライヒャーの大ドイツ民族共同体はこれと対立するところが多かった。大ドイツ民族共同体は労働者を中心に支持されていたため、一時ドイツ共産党と同盟を結ぼうともしているが、共産党が反ユダヤ主義思想に反対したため、決裂している。ヒトラーが出獄し、1925年2月にナチ党を再建すると直ちに参加して再びヒトラーの指揮に服した。1925年にヒトラーから「ニュルンベルク=フュルト」大管区指導者に任じられた。さらに1929年からはそれが拡張された「フランケン」大管区の指導者に就任した。また1929年にはバイエルン州議会議員選挙に当選している。ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスの指示の下、選挙戦でナチ党が政権を掌握できるようフランケン地方における宣伝に全力を尽くした。しかし彼が一番激しく行ったのはやはり反ユダヤ主義だった。『シュテュルマー』紙面やビラや演説で反ユダヤ主義・ユダヤ陰謀論を展開した。シュトライヒャーの党指導や扇動のせいでニュルンベルクのナチ党事務所はドイツでも有数の暴力的反ユダヤ主義の拠点と化した。1932年12月から1933年1月にかけてはフランケン突撃隊指導者が大管区指導者シュトライヒャーに対して反乱を起こしている。フランケン地方の突撃隊員の大部分がシュテークマンに従ったため、シュトライヒャーは一時危機に陥ったが、ヒトラーが介入してシュテークマンに自己批判させて収束させた。1933年1月30日には選挙で大勝したナチ党政権が誕生し、ヒトラー内閣が発足したが、シュトライヒャーには閣僚職は与えられず、党のフランケン大管区指導者職にとどまった。アメリカで起こったドイツ製品不買運動を受けて、ヒトラーはシュトライヒャーを「ユダヤ人の残虐行為・ボイコット扇動から防衛するための委員会」(以下ボイコット委員会)の委員長に任じた。1933年4月1日よりシュトライヒャーの総指揮のもとに全ドイツで突撃隊員がユダヤ人商店の前に立って客が入らないようにする不買運動が展開された。依然として経済危機の状況にあったドイツ経済の更なる悪化を防止するためボイコット運動そのものは一日だけに限定されたが、ボイコット委員会はその後も存続し、公務員やナチ党員にはボイコットが義務付けられ続けた。1934年には突撃隊の名誉隊員となり、突撃隊中将の階級を与えられた。1938年には子供向けの反ユダヤ本『』を発刊している。1930年代の終わり頃にはユダヤ人をフランス植民地マダガスカル島に移住させる政策に取り組んでいた。シュトライヒャーは、ヘルマン・ゲーリング夫人のエミー・ゲーリングがユダヤ人と交友関係がある事を知るや彼女を攻撃し、彼女がユダヤ人の店で商品を買った写真を『シュテュルマー』に掲載した。そればかりか1940年2月にはゲーリングは性的不能者であり、彼の娘エッダは人工授精で生まれたなどと『シュテュルマー』に書きたてた。ゲーリングは、以前から『シュテュルマー』の扇情的な反ユダヤ主義の論調に反感を抱いていたが、ここに至って大管区指導者6名からなる査問委員会を設置してシュトライヒャーを捜査させた。彼の関わっていた不正行為が次々と発覚し、査問委員会は「シュトライヒャーは人間の指導者として不適格」との結論を下した。ついにヒトラーにも見捨てられ、フランケン大管区指導者を罷免されたのであった。『シュテュルマー』はその後も民間新聞として続き、1945年2月1日まで発行された。しかし党の後援を失った『シュテュルマー』の発行部数は大きく落ちた。大管区職辞任以降にはニュルンベルクに近いプライカーショフの酪農場で暮らし、その経営にあたっていた。彼は20歳以上年下のアデーレ・タッペ( Adele Tappe)というブロンドの女性と再婚した。シュトライヒャーの妻アデーレによると、シュトライヒャーは1944年5月と7月にヒトラーからゲッベルスとライを介してもう一度「党の古参闘士」として戻ってほしいという要請が受けたが、断ったという。ドイツ敗戦後、連合軍は『シュテュルマー』によって国際的知名度が高いナチスだった彼を血眼になって捜していた。そして1945年5月23日、アメリカ軍空挺第101師団はザイラーと名乗って画家としてベルヒテスガーデン近くの村で潜伏生活をしていた彼を発見して逮捕した。シュトライヒャーがニュルンベルク裁判の際に弁護士に訴えたところによると、シュトライヒャーは拘禁中にユダヤ人将校とその部下の黒人兵士によって拷問されたというシュトライヒャーの拷問に関する証言は次の通り。「ユダヤ人将校は、"ついにシュトライヒャーを捕まえたぞ。この犬!豚!俺が十歳の頃、お前は『デア・シュテュルマー』で人種的不名誉の見本として俺を載せやがった!両手を出せ!"と言うと、私の手に手錠をかけた。その夜一晩中、ユダヤ人から嘲弄された。厳しい監視。食事もなかった。(略)二人の黒人が、私を裸にしてシャツを切り裂いた。私はパンツ一丁にされた。つながれていたのでパンツが下がっても上げられず、素っ裸になった。四日間も素っ裸にされた。四日目に私の体は冷え切って感覚がなくなった。もう耳も聞こえなかった。数時間おきにユダヤ人将校の命令を受けた黒人たちが拷問に現れた。私の乳首を火のついた煙草であぶったり、指で眼窩を押したり、眉毛や乳首から毛をむしり取ったり、革の鞭で性器を打たれたりした。さらに「口を開け」と言ってきて私の口に唾を吐きいれた。私が口を開けないでいると木の棒で無理やり口を開けさせ、唾を吐きいれた。『ユリウス・シュトライヒャー、ユダヤ人の王様』と書かれた看板を首から吊るされ、歩き回らされた。鞭で全身を殴打され、体中に血で膨れ上がった筋が走る。壁に投げつけられ、頭を拳固で殴打された。地面に投げつけられ、背中を鎖で打たれた。黒人の足にキスすることを拒否すると足で踏みつけられて鞭打ちされた。腐ったじゃがいもの皮を食うのを断ると再び殴打、つば、タバコの火。便所の小便を飲むことを拒否するとまた拷問。毎日ユダヤ人記者が来る。私の裸の写真を取る。彼は"あんた、後どれくらい生きてられると思ってる?"と言った。横になることは許されなかった。椅子もなかった。いつも両手を縛りあげられて地面にへたへたとひっくり返ったまま。四日間も休みなく縛られたまま。大小便もできない。私は痛みで声も出せなかった。たえずアデーレのことを考える」。他のニュルンベルク裁判被告人達と同様にまずルクセンブルクのバート・モンドルフに送られた。その後、1945年8月にニュルンベルク裁判にかけるためにニュルンベルク刑務所へ移送された。ナチスが政権を取る前、彼はユダヤ人に対する名誉棄損罪でここに収監されたことがあったため、他の被告たちに「ここには入ったことがあるぜ。何回もな」と自慢した。またその時にシュトライヒャーが入っていた独房の飾り板がなくなっていることに気づいて「飾り板があったはずなんだがなぁ」と訝しがった(その飾り板はナチス政権下の時にシュトライヒャーの反ユダヤ闘争を称えるために取り付けられた物で戦後に米兵が記念品として略奪していた)なおシュトライヒャーの農場はアメリカ政府により没収され、同政府の決定でユダヤ人難民たちに与えられた。ユダヤ難民たちはここをイスラエルの農業共同体に移る準備をするキブツとしている。ニュルンベルク裁判においてシュトライヒャーは第一訴因「侵略戦争の共同謀議」と第四訴因「人道に対する罪」で起訴された。刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバートから起訴状の感想を求められるとシュトライヒャーは「ユダヤ人の勝利」と述べた。さらに弁護人名簿を見せられた際には「ユダヤ人か。全部ユダヤ人の名前じゃないか。裁判官もユダヤ人なんだろう?わかっているぞ。」と言いだした。ニュルンベルク刑務所収監中も、全裸で手足をバタバタさせる怪しげな体操を日課にしたり、便器の水で顔を洗ったり、子供に向かってわいせつな言葉を吐いたり、奇怪な行動が目立った。また「アイゼンハワーはユダヤ人」だの「ジャクソンは通名でジェイコブソンが本名」だの「飛行船ヒンデンブルクの炎上はユダヤ人の陰謀」だのと性懲りもなくユダヤ陰謀論を唱え続け、看守のみならず他の被告人達からも忌み嫌われた。法廷でシュトライヒャーの隣に座っていたヴァルター・フンクは「私はもう十分に罰せられていますよ…。なにしろ毎日法廷でシュトライヒャーの隣に座らされるのですから…。」と嘆いた。一度シュトライヒャーは被告人の一人ハンス・フリッチェ(宣伝省ラジオ局長)と親しくなろうと「俺と君はお互いジャーナリストじゃないか」と声をかけたことがあったが、フリッチェはすぐさま嫌悪感を示して「シュトライヒャーさん、あんたの『デア・シュテュルマー』紙は、ナチ運動の評判を落とした唾棄すべき三文紙だったよな。あのなかの記事が外国の報道機関で引用されるたびに俺は身ぶるいしたものだよ」と拒絶した。これに激怒したシュトライヒャーはフリッチェの顔に唾を吐きかけ、さらに看守と取っ組み合いの喧嘩になった。シュトライヒャーは自分が他の被告からのけ者にされているのはゲーリングのせいだと思い込んでいた。シュトライヒャーの弁護人ハンス・マルクス博士は彼が精神障害者であるとして精神鑑定を依頼した。この鑑定の際に全裸にされ、女性通訳は背を向けたが、この時シュトライヒャーはいやらしい目つきで「どうしたんだい?いい物を見たくないのかい」と言いだした。精神鑑定の結果、精神分析医チームはシュトライヒャーをユダヤ人に対してのみ強迫観念を持つ偏執狂であると結論した。ただし精神そのものは正常と鑑定され、裁判から下りることは認められなかった。1946年4月の反対尋問でシュトライヒャーはイギリスの検事から追及された。グリフィス=ジョーンズ検事はかつてシュトライヒャーが「ユダヤ人は吸血鬼のように暴利を貪る高利貸民族」と書いたことを指摘し、「これは民族的憎悪を説きすすめているものではありませんか?」と質問したが、シュトライヒャーは平然と「いいえ。憎悪を勧めた物ではありません。事実を書いただけです」などと述べた。さらにシュトライヒャーは、「『デア・シュテュルマー』紙の記述は、ユダヤ人迫害を目的としているのではなく、ドイツ以外の場所にユダヤ人のための故国を作ってあげようという思いがあってのものでした」などと主張して、言い逃れを図った。グリフィス=ジョーンズ検事はシュトライヒャーが書いた記事を次々と引用することでこの主張を崩した。文章を引用し終えたグリフィス=ジョーンズ検事は、皮肉たっぷりに「このような言葉を我々は、ユダヤ人にユダヤ人国家を与えよ、という意味に理解せねばなりませんか?」とシュトライヒャーに問い質した。それに対してシュトライヒャーは「それらは具体的目的のない、単なる感情的文筆家としての意見にすぎない」「反ユダヤ主義の言葉遊びにすぎない。」「記事の上で書くのと実際に実行するのは大きな隔たりがある。」などと述べてなお言い逃れを図ったが、このような苦しい言い訳では判事の心証を変えることはできなかった。1946年10月1日、他の被告人達とともに裁判長サー・ジェフリー・ローレンス(後の初代オークシー男爵、第3代トレヴェシン男爵)もにより判決が言い渡された。まず被告人達が全員そろう中で一人ずつ判決文が読み上げられた。シュトライヒャーは携帯食をかじりながら判決を聞いていた。ローレンス裁判長により読み上げられたシュトライヒャーの判決文は「シュトライヒャーは平和に対する謀議には決定的に参加していないし、ヒトラーの相談役であったこともない」として第一訴因「侵略戦争の共同謀議」については無罪とした。しかし「ドイツ人の思想を反ユダヤ主義という病毒で汚染し、ドイツ人のユダヤ人に対する迫害を刺激した。」「東ヨーロッパでユダヤ人が最も苛烈な環境の中で殺戮されている時、その虐殺・抹殺を教唆扇動したことは、政治的および人種的迫害にあたる」として第4訴因「人道に対する罪」で有罪とした。さらにその後、個別に受ける量刑判決に移った。シュトライヒャーは早足で法廷に入って来て被告人席で両足を広げて立ち、顎を突き出した。受けた判決は絞首刑だった。彼は判決について、「ユダヤ人の勝利」とコメントし、さらにニュルンベルク裁判そのものを「プーリームの祭り(ユダヤ人の例祭)」と表現した。1946年10月16日に入ったばかりの深夜、他の死刑囚10人と共に彼の絞首刑が執行された。絞首台まで連れて行かれる際に服を着る事を拒否してパンツ一枚の姿で「ハイル・ヒトラー!」と叫びながら暴れまわって周囲のひんしゅくを買った。しかし最後は看守のアメリカ兵たちにより服を着せられて、絞首台の前に引きずり出された。絞首台でも名前を述べることを拒否して代わりに「ハイル・ヒトラー!」と叫んだ。最期の言葉は、「1946年プーリームの祭り!そして神の下へ!(死刑執行人のジョン・C・ウッズ軍曹に向かって)今にボリシェヴィキがお前等を殺しに来るぞ!私は神の下にある。神父様!(ウッズによって顔にマスクをかけられた後)アデーレ!愛しのアデーレ!」だった。シュトライヒャーの足元の落とし戸が開き、彼の体がその下へ消えた。しかし彼は即死せず、死刑執行後も長い事呻き苦しむ羽目となった。自殺したゲーリングを含めて、シュトライヒャーら死刑囚11人の遺体は、アメリカ軍のカメラマンによって撮影された。撮影後、木箱に入れられ、アメリカ軍の軍用トラックでミュンヘンへ運ばれ、そこで火葬された。遺灰はイーザル川の支流コンヴェンツ川に流された。米軍の拘留記録によれば身長は5フィート6インチ(約168センチ)である。ニュルンベルク刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバート大尉が、開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると、シュトライヒャーの知能指数は106で、全被告人中で一番低かった(またシュトライヒャーは高齢のために数値を水増し調整されており、素点のIQはこれより15から20低かった)。この試験の中で彼は「2ペニヒの切手を7枚買って50ペニヒ払ったら、お釣りはいくら?」という問題を解くのに1分もかかっている。これについてシュトライヒャーは「こんな子供向けの問題で俺を煩わせるなよ。微積分の問題をやらせてみろ。」などと語った。彼をインタビューした精神医学者レオン・ゴールデンソーンは「私の印象では、彼は標準的な知性に欠け、全体として無学な人間だ。病的なまでに反ユダヤ主義に取りつかれているが、それは彼のポルノへの執着が証明しているように、性的葛藤のはけ口になっているらしい」と精神分析した。『シュテュルマー』紙面で「ユダヤ人は自分たちにキリスト教徒の金を巻き上げる権利があると思っている」「ユダヤ人は3歳の非ユダヤ人少女を犯すことが道徳的に許されると思っている」など「ユダヤ人の非道徳性」を盛んに訴え、ユダヤ人に対する嫌悪感を煽った。大学教授たちを集めて自分が開発したユダヤ人と非ユダヤ人を見分ける占い棒について講演したこともあった。熱心な反ユダヤ主義者だったが、敬虔なキリスト教徒というわけではなく、むしろ無宗教者だった。洗礼はカトリックで受けているが、ニュルンベルク刑務所でカトリック信仰に戻ったハンス・フランクを「にわかキリスト教徒」と笑っていた。ゴールデンソーンのインタビューの中でも「キリストはユダヤ人だった。神は宇宙を創造されたというが、そんなのはこじつけだ。神がこの世を作ったというなら、誰が神を作ったのだ」と述べてキリスト教を含む宗教全般に懐疑的な思想を披露している。しかし絞首台での最後の言葉では牧師にむかって「神父様、私は神のもとにあります」と述べている。当人は反ユダヤ主義者になった理由について「その昔、ある晩にいきなり反ユダヤ主義に目覚め、夜が明けると自分の一生の仕事は反ユダヤ主義の権威になることだと悟った」と述べている。気にくわない人間に対してユダヤ認定をする癖があった。ゴールデンソーンのインタビューの中でシュトライヒャーは「ソ連とイギリスの検察官はほとんどユダヤ人であり、アメリカの検察も同じだ」と述べたが、それに対してゴールデンソーンが「アメリカ首席検事ロバート・ジャクソンもユダヤ人だと思うか」と尋ねると、シュトライヒャーは「ジェイコブソンのことか?」と聞き返した。ゴールデンソーンは彼が別の人間と勘違いしているのだと思い、「いや、アメリカ検事のジャクソンのことだが」と念を押すと、シュトライヒャーは次のように語り始めた。「つまりジェイコブソンのことだ。彼はジャクソンという通名を使用しているが、私に言わせれば、彼の本名はジェイコブソンであってユダヤ人だ。外見からしても、すぐにそれと分かる。他の被告たちが彼はユダヤ人ではないと断言するので、私もしばらくはそう思っていた。しかし、ここ何カ月かの間に、彼の歩き方や顔を観察して、ユダヤ人だと分かった。おそらく、ドイツ系ユダヤ人の家系だろう。」。大管区指導者だった頃にはローマ教皇を公然とユダヤ認定していたこともあった。ポルノの収集癖があったが、その理由について聞かれると「これはユダヤ人から買い入れたのだ。奴らがどんな如何わしい物を読んでいるかを示す目的で集めているのだ。」と答えていた。スケッチが好きでニュルンベルク裁判中も看守の顔や食器、便器などを描いてはその絵を床に投げていた。ギルバートもうまいと認めるほどの画力であり、ギルバートはこんな下品な男のどこに芸術家的感性が宿っているのだろうと訝しがったという。最初の妻クニグンデとの間に二人の息子をもうけているが、1943年に先妻と死別した。後妻アデーレはニュルンベルク裁判時に30代でシュトライヒャーより少なくとも20歳以上は年下だった。彼女はシュトライヒャーを心より慕っており、裁判にも弁護側証人として出席した。シュトライヒャーの妻になるのは一体どんな女だと法廷の人々は噂していたが、やってきたのは振る舞いも話し方も分別があるブロンド美女だったので人々は驚いた。彼女はシュトライヒャーが戦時中農夫として働いていただけであることを健気に証言した。その様子を見て、普段感情など滅多に口にしないヨードル将軍が「愛情とは不思議な働きをするものだな」と述べた。シュトライヒャーの農場は戦後アメリカに奪われ、アメリカはこれをユダヤ人難民に与えたため、アデーレは住居を失い、ニュルンベルク刑務所医師プフリュッカーの家に身を寄せていた。しかしその後、彼女はシュトライヒャーの志を継いで反ユダヤ論を唱えはじめたため、連合軍に逮捕されて刑務所へ送られている。シュトライヒャーは職業軍人ではなく、党幹部の中でも軍事的決定からは遠ざけられていたため、ポーランド侵攻・ソ連侵攻などを含めて一切の軍事行動の計画に関与してはいない。また、ユダヤ人に対するホロコーストを直接指示したり、その具体的計画の立案に関わったこともない。しかし、その後のニュルンベルク裁判においては、連合国側の検察官によって彼の反ユダヤ的扇動行為がドイツ政府によるホロコーストの計画、実施を誘導することとなったと厳しく断罪され、その主張が認められた結果、絞首刑の判決が下された。ただしこの判決に対しては、今もなおその種の扇動行為のみを具体的罪状として死刑判決を下すことが正当・妥当であったかどうかといった点に関する議論がなされている。また被告人の一人ハンス・フリッチェも「ユダヤ人差別の言論をラジオで流し、それがユダヤ人虐殺につながった」というシュトライヒャーと同じような罪状に問われているはずなのに、フリッチェは無罪であり、判決のバランスを欠いているとの批判もある。判決が出た時、記者たちは次のような会話を交わしていたという。「ところで、あのお粗末なおっさんシュトライヒャーはなんで死刑なのかね?」「殺人を扇動したからだろ。」「しかし、それならフリッチェも同じ事なのに彼は無罪じゃないか。」。
出典:wikipedia
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