フアン・ラモン・フランシスコ・ゴンザレス(Juan Ramón Francisco González, 1987年6月24日 - )は、ドミニカ共和国・モンセニョール・ノウエル州ボナオ出身のプロ野球選手(内野手)。右投左打。日本球界ではホアン・フランシスコと表記される。5月6日にシンシナティ・レッズと契約。9月14日のヒューストン・アストロズ戦でメジャーデビューを果たした。オフに参加した母国ドミニカのウィンターリーグでは46試合の出場で打率.302、11本塁打、OPS.918の成績とポストシーズンでの活躍が評価されMVPを受賞。オフのドミニカ・ウィンターリーグでは39試合の出場で打率.322、8本塁打、OPS.939の成績で2年連続のMVPを受賞。9月2日にはグレート・アメリカン・ボール・パーク史上2番目の飛距離となる502フィート(約153.0m)の本塁打を放った。ドミニカ・ウィンターリーグに参加していた11月には、食堂で拳銃を持った強盗に襲われ4万ペソを奪われる事件があった。はオフに傷めた右ふくらはぎのリハビリを怠り、体重過多の状態でスプリングトレーニングに現れた。2012年4月1日にJ.J.フーバーとの1対1のトレードでアトランタ・ブレーブスへ移籍した。5月21日の古巣レッズ戦では本塁打を放ったが、打った後の態度が挑発的だとして監督のフレディ・ゴンザレスから注意を受けた。6月3日にトーマス・キーリングとのトレードでミルウォーキー・ブルワーズへ移籍した。ブレーブスの分と合わせ、自身初の3ケタ試合出場となる124試合に出場。18本塁打を放ち、パワーを発揮した。3月24日に解雇された。2014年4月1日にトロント・ブルージェイズとマイナー契約を結び、4月19日にブルージェイズとメジャー契約を結んだ。2年連続での100試合以上となる106試合に出場し、アーチを16本放った。打率は前年より低下したが、OPS0.747は2010年以降で最高の数値となった。守備面では、三塁74試合で9失策(守備率.933)、一塁20試合で2失策(守備率.985)という成績を記録。オフの11月19日にウェーバーでボストン・レッドソックスへ移籍したが、11月25日にDFAとなり、12月2日にノンテンダーFAとなった。1月10日にタンパベイ・レイズとマイナー契約を結んだが、4月5日に放出された。2015年4月21日に日本プロ野球の読売ジャイアンツと契約したことが発表され、4月23日に入団会見を行った。背番号は「21」。長年左投手のエースナンバー(高橋一三など)として扱われたためか、打者がこの番号を着けるのは1951年の久保木清外野手以来である。初出場となった5月2日の阪神タイガース戦こそ、初安打・初打点をあげてお立ち台に立ったものの、その後は三振と拙守の連発により、同7日には早くも2軍降格となった。5月末に背中の張りを訴えた後は別メニュー調整すらしない日も見られ、7月15日には腰痛の治療を受けるため一時帰国した。再来日後、2軍戦には出場したものの、1軍には呼ばれることなくレギュラーシーズンを終了。オフの12月2日に自由契約選手として公示された。グレート・アメリカン・ボール・パーク史上2番目の飛距離となる502フィート(約153.0m)の本塁打を記録した並外れた長打力を持ち味とする。逆方向への本塁打も多いが、大ぶりの傾向も強いフリースインガーで三振が多い。左投手を極端に苦手とし、対左投手の成績は、メジャー通算で打率.159、1本塁打、OPS.423を喫している。守備では主に三塁手として起用され、強肩には定評があるが送球の正確さに欠ける。捕球に難があり、三塁守備ではメジャー通算のDRS-10、同UZR-5.1を喫している。2013年からは一塁手として起用されることも増えたが、一塁守備でもメジャー通算のDRS-2、UZR-8.7と平均を下回る数値を喫している。太りやすい体質で、ブレーブス時代にはブライアン・マッキャンに「フアン・フランクフルトフィンガー・フランシスコ」と呼ばれ指の太さをからかわれていた。憧れの選手はデビッド・オルティーズ。
出典:wikipedia
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