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森恒夫

森 恒夫(もり つねお、1944年12月6日 - 1973年1月1日)は、日本の新左翼活動家。連合赤軍中央委員会委員長。高校は大阪府立北野高校出身。高校時代は剣道部に所属した。父は大阪市交通局に勤務していた路面電車(大阪市電)の運転士。幼少より、在日韓国・朝鮮人の問題に関心があったという。大阪市立大学中国語学科在学中に学生運動に飛び込む。当初は構造改革派のフロントに所属していたが、後に共産主義者同盟関西派の田宮高麿と出会い、以降田宮の忠臣になった。1965年11月、日韓条約批准阻止デモに参加し逮捕され、刑事に自供。1969年6月、内ゲバで監禁されて自己批判を迫られたときは相手に従って自己批判し、「リンチにかけないでくれ」と懇願した。1969年の7月6日の明大和泉校舎での関東派襲撃事件では直前で敵前逃亡し大阪に戻る。そのあとしばらくして森はすべての任務を放り出して仲間の前に姿を見せなくなっている。以上のような行動が問題視され、大菩薩峠事件で壊滅状態になった赤軍派で森の復帰話が出た際には田宮からは「森は度胸がない」と酷評されるも、議長であった塩見孝也の強い意向もあったことで復帰を許され、赤軍派に参加。1969年から1970年にかけて、赤軍派幹部を含む活動家が逮捕、あるいは海外の「国際根拠地」に移動すると、三里塚闘争で黙々と拠点作りをしていた森の名を挙げられ、塩見により森は政治局員に昇進。その後、塩見や高原浩之が逮捕されると国内赤軍派の獄外メンバーの事実上のリーダーとなり、M作戦(金融機関強盗)などを指揮したが、1971年3月に捜査当局から銀行強盗を指揮した罪で指名手配された、その後、京浜安保共闘との連携を指導し、やがて統一組織連合赤軍を結成した。山岳アジトの軍事訓練に永田洋子率いる革命左派出身のメンバーたちが水筒を持参しなかったことを批判。赤軍派が主導権を握ることに成功し、連合赤軍最高幹部となる。その後も山岳ベースを転々とする中で、「総括」と称する暴力行為によって、永田洋子と二人で独裁体制を固め、12人の同志を殺害する山岳ベース事件を指揮した。1972年2月17日、永田とともに一度下山した後、活動資金を持ってキャンプに戻ろうとしたところを警察に発見され、ヤスリで作った鎧通しとナイフを振りかざして警官隊の群れの中に突入し、警官を刺したが制圧され、揃って逮捕された。1973年元日、初公判を前に東京拘置所の独房で首吊り自殺しているところを発見された。発見時まだ心臓はかすかに動いており、ただちに蘇生措置が講じられたが間もなく心停止し、死亡した。28歳没。塩見と坂東國男宛に遺書が残されており、発見された遺書には「自己の責任の重さに絶望…自らに死刑を下す」と綴られていた。逮捕されてからは、キリスト教に関心を示していたという。葬儀は三日後に駒込のキリスト教会で行なわれた。葬儀には赤軍派関係者、救援運動家などが参加したが、赤軍派創設時の指導者らが生前に拘置所へ面会に行かなかったことなどに対し、救援関係者が彼等に抗議する場面などもあり、森と連合赤軍への評価をめぐる混乱が浮き彫りにされた。2001年公開の映画『光の雨』では森をモデルにした最高幹部、倉重鉄太郎を山本太郎が演じている(厳密には劇中劇の扱い)。一方、関係者の大半を実名で描いた2008年公開の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』では地曵豪が森の役を演じている。

出典:wikipedia

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