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インターナショナル (歌)

「インターナショナル」(、、、)は、社会主義・共産主義を代表する曲である。ソビエト連邦では十月革命(1917年)から第二次世界大戦(1944年)まで国歌になっていたほか、日本でも労働歌として歌われていた。「インターナショナル」は19世紀末フランスのパリ・コミューン(1871年)の直後に「"L'Internationale"」として誕生した。作詞者はパリ・コミューンに参加していたウジェーヌ・ポティエ(;1816 - 1887)である。パリ・コミューンは1871年5月末に多数の犠牲者を出して鎮圧されると、直後の6月にポティエは詩「インターナショナル」を発表した。この詩はラ・マルセイエーズの曲にあわせて歌われるようになった。パリ・コミューンの「闘士」だったポティエには犯罪者として死刑宣告がなされ、国外に逃亡した。1887年にフランスに帰国したが、間もなく困窮して死んだ。葬儀には赤旗を掲げた参列者が集まったが、警官によって排除された。ポティエは共産主義運動の「殉教者」の1人とみなされるようになり、その命日は共産主義者にとって記念日の一つとされるようになった。翌1888年に「La Lyre des Travailleurs(労働者合唱団)」が結成されると、その団員だったピエール・ドジェーテル(; 1848 - 1932)が「"L'Internationale"」に曲をつけた。ピエールはリールの音楽院で音楽を学んだ人物で、作曲のほか演奏も担当した。ピエールの曲にのせた「"L'Internationale"」の初演奏は1888年7月とされている。作曲者がピエール・ドジェーテルである(つまり、彼が共産主義者である)と知れると社会生活に悪影響が及ぶため、作曲者は単に「ドジェーテル」と姓だけがクレジットされ、個人が特定できないように名は伏せられていた。このため、のちに権利者をめぐって争いが起きることになった。労働者合唱団の創設者のひとりで、リール市長やフランスの国会議員を歴任したギュスターヴ・デュロリ()という人物が、「"L'Internationale"」の詩・曲の権利を有すると主張するようになった。「詩」の権利はもともとポティエの未亡人にあったが、これを別の人物に売り渡し、これをさらにデュロリが買収した。「曲」は、ピエール・ドジェーテルの兄弟のアドルフ・ドジェーテル()が作曲したとし、デュロリがアドルフから権利を譲り受けたと主張した。デュロリの主張は認められ、のちにデュロリとフランス社会党が権利を分け合うようになった。その頃ピエールはリールを不在にしており、一連の出来事を知らないままでいた。リールに戻って曲の権利が失われていることを知ると、ピエールは自分が作曲者であり、曲の権利を有するとして訴え出た。この訴えが退けられると、ピエールは1904年に本格的な法廷闘争を始めた。裁判では双方が作曲者であると主張した。ドジェーテル家の家族が証人として出廷したが、家族のあいだでも意見が分かれた。10年の係争の末に、ピエールは敗訴した。1914年の夏に第一次世界大戦が始まり、大きな国難に接したアドルフは、実は嘘をついていたという「告白文」を認めて1915年に送付した。この告白に拠れば、当時の市長だったデュロリに逆らっては町で生きてゆくことができなくなると恐れ、デュロリに言われるがままになっていたということだった。この告白文によって、戦後の1922年に、ピエールが正当な作曲者と認められた。ピエールは共産主義活動のシンボルになり、共産党大会ではピエールの指揮で「"L'Internationale"」が演奏された。一方、この頃共産主義者と社会主義者は仲違いをするようになっており、社会主義者の出版物では引き続き「"L'Internationale"」の作曲者はアドルフ・ドジェーテルと宣伝された。「"L'Internationale"」が広く注目をあつめるようになったのは1896年にリールで行われた労働者の大会で演奏されたときである。この大会には国外からも参加者があり、彼らを通じて広がっていった。1902年にはロシア語に翻訳された。1910年にはコペンハーゲン(デンマーク)で社会主義者の象徴として歌われたという記録がある。オリジナルのフランス語版は6番までの歌詞があったが、他言語に翻訳される際にはいくつか割愛され、2番か3番あたりまでになっている場合がある。1900年の英訳版は5番までであり、アメリカやカナダではこれが有名である。イギリス、アイルランド、オーストラリアなどでは6番までの英訳歌詞が知られている。1917年にはロシアで社会主義革命(ロシア革命)が成功してソビエト連邦が誕生すると、1918年に国歌に採用された。ソビエト連邦では第二次世界大戦中の1944年にスターリンが新しい国歌を定めるまで、「インターナショナル(Интернационал)」が国歌として歌われた。1922年にはロシア革命5周年を記念して、「インターナショナル」が初めて日本に紹介された。掲載したのは当時の雑誌『種蒔く人』で、このとき和訳歌詞ともに紹介された。歌としての分類は革命歌に属する。労働組合運動の団結意識を高める際にも歌われる。インターナショナルの歌詞は労働歌であるという性質上、労働者の権利や団結及び闘争についての内容である。オリジナルの歌詞はフランス語で作成された一つであるが、世界に伝わるにつれ、複数の言語や複数の作者による様々なバージョンが作詞された。具体的な歌詞は、ウィキソースならびに下記の外部リンクを参照。※ 日本語詞は作詞者の著作権管理が不明で、小牧近江・佐々木孝丸・佐野碩の死後50年が経過せず、日本の著作権法による保護期間内であるため、ウィキペディア日本語版では掲載しない(下記の外部リンクを参照)。日本国内で日本語により作詞された歌詞は3つ存在する。1921年に岡本けにちによって作詞された歌詞が初であるが、これは一般には普及しなかった。続いて1922年に、小牧近江がフランスで入手したジョルジュ・ソレル編の『社会主義辞典』に楽譜とともに載っていたオリジナル歌詞をもとに佐々木孝丸によって作詞された歌詞があり、これはオリジナルに近い内容である。この歌詞は同年11月に東京神楽坂の牛込会館で開催されたロシア革命記念日集会で初めて披露された(集会自体は講演会に偽装して行われたが、壇上で歌いだした小牧近江は、直ちに検束された。なお、1922年版は小牧による作詞という説がある。)。現在、主に歌われているのは1929年頃に佐々木と佐野碩が改訳したものである。党派によって採用している歌詞に微妙な差異が存在する場合がある。題名は「インター」と略称で呼ばれる場合がある。第二次世界大戦後、うたごえ運動で歌声喫茶にて盛んに歌われた。ソビエト連邦では、1944年までソビエト連邦と、その構成国であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の国歌とされた。1944年以降は国歌ではなくなりながらも、ソ連共産党の党歌とされ、共産党の党大会などで歌われた。しかし、1991年にソビエト連邦が崩壊すると、この歌を公式な場で歌う機会は少なくなっている。中華人民共和国では、中国共産党全国代表大会および中国共産党地方各級代表大会閉会の際に演奏される。また、中国語版インターナショナルには、翻訳の違いにより、四つの歌詞が存在する。朝鮮民主主義人民共和国でも、朝鮮人民軍功勲国家合唱団が朝鮮語でカバーしている。1981年のアメリカ映画『レッズ』はロシア革命を描いており、「インターナショナル」が劇中で使用されている。2000年にアメリカでインターナショナルの歌そのものの歴史を主題としたドキュメンタリー映画"The Internationale"が製作・公開された。

出典:wikipedia

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