歯舞群島(はぼまいぐんとう)、あるいは歯舞諸島は、北海道根室市の東端である根室半島の納沙布岬の沖合3.7kmから北東に点在する島々である。ロシア連邦の実効支配下にあり、ロシアと日本の双方が領有権を主張している。「歯舞」の由来は、先住民族アイヌの母語であるアイヌ語の「ハ・アプ・オマ・イ(覆っている氷が退く・小島・そこにある・所→流氷が退くと小島がそこにある所)」から。ロシア名はハボマイ諸島()、英語表記は 。第二次世界大戦前は水晶諸島(すいしょうしょとう)や珸瑤瑁諸島(ごようまいしょとう)、あるいは色丹島まで含めて色丹列島(しこたんれっとう)と呼んでいたこともあった。地質構造的には色丹島とともに根室半島の延長が部分的に陥没したものとされ、地形や植生なども根室半島に似ている。台地状の平坦な島々が多い。いわゆる北方領土の一つであり、いくつかの小さな島からなる。中央に位置する志発島が最も大きい。なお、諸島であるが北方四島のうちの1島として扱われる。歯舞は四島全体の2%の面積を占める。歯舞群島に含まれる島は、北東から水道ごとに挟んでまとめると順に次の通り。当該地域の領有権に関する詳細は千島列島及び北方領土問題の項目を、現状に関してはサハリン州の項目を参照のこと。国土地理院は、以前「歯舞諸島」と表記していたが、根室市から「北方領土返還要求運動の現場や教育現場で、歯舞群島や歯舞諸島が使われ混乱が生じている」と歯舞群島への地名変更の要望が国土地理院に寄せられたため、国土地理院と海上保安庁海洋情報部で構成する「地名等の統一に関する連絡協議会」において、決定地名の歯舞諸島(はぼまいしょとう)を歯舞群島(はぼまいぐんとう)へ変更した。18世紀末に江戸幕府の蝦夷地調査隊によって比較的に正確な地図が描かれ、岩礁も含む島名が明示されてから、日本国内で存在が広く知られるようになった。当時の記録によれば、歯舞群島は無人島であった。文化4年(1807年)に幕府が東蝦夷地を直轄地としてから色丹島とともに出稼ぎ労働者によるコンブの採取が始まった。定住が始まったのは明治10年(1877年)以後で、函館の広業商会が昆布採取のために貸し出した資金で生産者・漁師などが居住した。その後も島内の産業は昆布や海苔、ホタテ貝の採取を中心とし、タラなどの沖合漁業も行っていた。また勇留島や志発島、多楽島では約200頭ずつ馬を飼育していたという。明治時代は対岸の珸瑤瑁(ごようまい)村に属していたため、珸瑤瑁諸島と呼ばれていた。大正4年(1915年)、珸瑤瑁村は歯舞村と合併し、歯舞村となった。このため珸瑤瑁諸島は歯舞群島と呼ばれるようになったが、戦後になっても珸瑤瑁諸島と呼ばれることも有った。第二次世界大戦が終わった時の総人口は約4,500名で、漁業人口は95%であった。1945年9月2日、太平洋戦争が終結し一般命令第一号が発令された。この命令により、千島列島の日本軍はソ連極東軍に降伏することが定められると、ソ連軍が上陸して、占領下に入った。翌年1月29日、GHQの指令第677号により歯舞群島を含む日本の行政権が停止されると、ソ連は自国に編入。以来、ソビエト連邦・ロシア連邦の実効支配下にある。戦前は対岸の花咲郡歯舞村に属していたが、現在の日本も領有権を主張しており、1959年(昭和34年)に歯舞村が根室市と合併したため、現在は根室市に属している。しかし、2010年(平成22年)現在の時点においても日本の施政権は全く及んでいない。日本政府の見解としては同島のロシアによる占領は日ソ中立条約に反した違法行為であり、現在に至るまでロシアによる不法占拠下にあるものとしている。過去、国会答弁においてソ連による占拠が不法とは必ずしもいえないとの答弁がなされたことがあるが、これは答弁者によって時として表現の差異がありうるものと説明されている。いずれにせよ、北方領土は日本固有の領土であるとの見解が日本の一貫して主張するところであり、現在はロシアによる同島の占拠は不法占拠であると明確に表明されている。歯舞「諸島」という表記が歯舞群島と変更された。歯舞群島には、「国境警備隊員」以外に定住者はいない。
出典:wikipedia
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