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イースター島

イースター島(イースターとう)は、チリ領の太平洋上に位置する火山島。現地語名はラパ・ヌイ(ラパ・ヌイ語: Rapa Nui)。また正式名はパスクア島(パスクアとう、)と言い、"Pascua"はスペイン語で復活祭(イースター)を意味する(後節も参照)。日本では英称由来の「イースター島」と呼ばれることが多い。モアイの建つ島として有名である。ポリネシア・トライアングルの東端に当たる。最も近い有人島まで直線距離2000km余と、周囲には殆ど島らしい島が存在しない絶海の孤島となっている。「ラパ・ヌイ」とはポリネシア系の先住民の言葉で「広い大地」(大きな端とも)を意味する。かつては、テ・ピト・オ・ヘヌア(世界のへそ)、マタ・キ・テ・ランギ(天を見る眼)などと呼ばれた。これらの名前は、19世紀の後半に実際に島に辿り着けたポリネシア人が付けたものである。海底火山の噴火によって形成された島に、最初の移民が辿り着いた時期については諸説ある。文字記録が無いため発掘調査における炭素年代測定が有力な調査手段とされ、従来は4世紀〜5世紀頃とする説や西暦800年頃とする説が有力だったが、近年の研究では西暦1200年頃ともいう。この移民は、遥か昔に中国大陸からの人類集団(漢民族の祖先集団)の南下に伴って台湾から玉突き的に押し出された人びと(→オーストロネシア語族を参照)の一派、いわゆるポリネシア人である。ポリネシア人の社会は、酋長を中心とする部族社会であり、酋長の権力は絶対で、厳然たる階級制度によって成り立っている。部族社会を営むポリネシア人にとって、偉大なる祖先は崇拝の対象であり、神格化された王や勇者達の霊を部族の守り神として祀る習慣があった。タヒチでは、マラエと呼ばれる祭壇が作られ、木あるいは石を素材とするシンボルが置かれた。イースター島でも同様に行われていたと想像できる。化石や花粉の研究から、当時のラパ・ヌイは、世界でも有数の巨大椰子(の同種もしくは近縁種())が生い茂る、亜熱帯性雨林の島であったと考えられている。初期のヨーロッパ人来航者は、「ホトゥ・マトゥア」という首長が、一族とともに2艘の大きなカヌーでラパ・ヌイに入植したという伝説を採取している。上陸したポリネシア人は鶏とネズミを共に持ち込んで食用とした。7世紀〜8世紀頃に、プラットホーム状に作られた石の祭壇(アフ)作りが始まり、遅くとも10世紀頃にはモアイも作られるようになったとされる。他のポリネシアの地域と違っていたのは、島が完全に孤立していたため外敵の脅威が全くなく、加工し易い軟らかな凝灰岩が大量に存在していたことである。採石の中心は「ラノ・ララク」と呼ばれる直径約550mの噴火口跡で、現在でも完成前のあらゆる段階の石像が散乱する彫る道具とともに残されている。最初は1人の酋長の下、1つの部族として結束していたが、代を重ねるごとに有力者が分家し部族の数は増えて行った。島の至る所に、それぞれの部族の集落ができ、アフもモアイも作られていった。デザインも時代につれ変化する。第1期のモアイは人の姿に近いもので下半身も作られている。第2期のモアイは、下半身がなく細長い手をお腹の辺りで組んでいる。第3期のモアイは、頭上に赤色凝灰石で作られた、プカオ(ラパヌイ語で髭あるいは髪飾り)と呼ばれる飾りものが乗せてある。第4期のモアイが、いわゆる一般にモアイといって想像する形態(全体的に長い顔、狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩、伸びた耳、尖った顎、一文字の口など)を備えるようになる。モアイは比較的加工し易い素材である凝灰岩を玄武岩や黒曜石で作った石斧を用い製作されていったと考えられている。18世紀になって西欧人が訪れるまで、島には銅器や鉄器の存在は確認されていない。当時作られたモアイや墳墓、石碑といった、考古学的に極めて重要な遺跡が数多く残されているが、この時期までが先史社会と考えてよく、ラパヌイ社会はこのあと転換期をむかえる。モアイは「海を背に立っている」と言われているが、正確には集落を守るように立っており、海沿いに建てられたモアイは海を背に、内陸部に建てられたモアイには海を向いているのもある。祭壇の上に建てられたモアイの中で最大のものは、高さ7.8m、重さ80tにもなる。島最大の遺跡「アフ・トンガリキ」は島の東端にあり、アフの長さは100m、その上に高さ5mを超える15体のモアイが並んでいる。これは1994年にそこに倒れていた15体のモアイ像を、考古学者のクラウディオ・クリスティーノが55tの重量に耐えるクレーンを使って立て直したもの。現在島のアフに立っている全てのモアイ像は、近年になって倒れていた石像を立て直したものである。島民の入植から17世紀までの間モアイは作られ続けたが、18世紀以降は作られなくなり、その後は破壊されていった。平和の中でのモアイ作りは突然終息する。モアイを作り、運び、建てる為には大量の木材が必要で、伐採によって森が失われた。Jared Diamondらは、こうした人為的な自然破壊が究極的にイースター島文明の崩壊を呼んだとする説を述べている。それによれば、人口爆発(僅か数10年の間に4~5倍に膨れ上がり、1~2万人に達したという)と共に森林破壊が進んだ結果、肥えた土が海に流出し、土地が痩せ衰えて深刻な食糧不足に陥り、耕作地域や漁場を巡って部族間に武力闘争が生じた。モアイは目に霊力(マナ)が宿ると考えられていたため、相手の部族を攻撃する場合、守り神であるモアイをうつ伏せに倒し、目の部分を粉々に破壊した。その後もこの「モアイ倒し戦争」は50年ほど続き、森林伐採は結果として家屋やカヌーなどのインフラストラクチャー整備を不可能にし、ヨーロッパ人が到達したときは島民の生活は石器時代と殆ど変わらないものになっていた。森を破壊した要因の一つにネズミによる食害も挙げられている。天敵が居ない環境にネズミが持ち込まれると、その急激な繁殖に伴って森林が破壊され、これを駆除すると森林が再生する様子は太平洋の他の島々の歴史上でも見られて来た。イースター島でも発掘された植物の種子の多くにネズミに齧られた跡が見られた。1722年の復活祭(イースター)の夜、オランダ海軍提督のヤーコプ・ロッヘフェーンが、南太平洋上に浮かぶ小さな島を発見する。発見した日がイースターであったため、「イースター島」と呼ばれるようになったと言われている。この島に上陸したロッヘフェーンは、1000体を超えるモアイと、その前で火を焚き地に頭を着けて祈りを捧げる島人の姿を目の当たりにする。1774年には、イギリス人探検家のジェームズ・クックも上陸している。クックは倒れ壊されたモアイ像の数々を目にしたが、島のモアイの半数ほどがまだ直立していたと云う。そして山肌には作りかけのモアイ像が、まるで作業を急に止めてしまったかのように放置されていた。伝承では1840年頃に最後のモアイが倒されたとされる。18世紀〜19世紀にかけてペルー副王領政府(→ペルー)の依頼を受けたアイルランド人のジョセフ・バーンや、タヒチのフランス人の手によって、住民らが奴隷として連れ出された。1862年に襲ったペルー人による奴隷狩りでは、数ヶ月間の内に当時の住民の半数に当たる約1,500人が島外に拉致された。また外部から持ち込まれた天然痘や結核が猛威を振るった結果、人口は更に激減し先住民は絶滅寸前まで追い込まれ、1872年当時の島民数はわずか111人であった。この過程でロンゴロンゴ文字を初めとする文化伝承は断絶した。1888年にチリ領になり現在に至るが、1937年に軍艦建造の財源捻出目的で、サラ・イ・ゴメス島とともに売却が検討され、アメリカ合衆国、イギリス、日本に対して打診があった。日本は主に漁業基地としての有用性を認めたが、在チリ国公使三宅哲一郎からアメリカ合衆国との関係に配慮して静観すべきとの意見が出されている。チリの首都であるサンティアゴから西へ3,700km、タヒチから東へ4,000kmほどの太平洋上に位置し、ペルー海流が周辺海域は渦巻き、近海は海産資源豊富な漁場であり、とくにカタクチイワシが多く捕れる。全周は60km、面積は180kmほどであり、北海道利尻島とほぼ同じ大きさである。島全体が、ラパ・ヌイ国立公園としてチリ政府により国立公園に登録されている。また1995年に世界遺産に登録されている。最も近いサラ・イ・ゴメス島でも東北東に415km離れている絶海の孤島であり、人の住む最も近い島であるピトケアン島までは約2,000kmの距離がある。やや乾燥した気候で年間降雨量は1,250mmと少ないものの、バナナ、サトウキビなどの栽培には十分である。一方、河川がないため灌漑用水の確保はしにくく、タロイモ栽培などには適していない。マグマの噴出によって造られた小さな火山島であり、上空から見ると三角形をした島の各頂点には、カウ山、カティキ山、テレバカ山の3つの休火山がある。テレバカ山(海抜507m、海底からは約2,000mの高さがある)が島の大部分を占め、他の2つの他に多数の噴火口や火口湖がある。ガラパゴスやハワイと同じ玄武岩で鉄分が多く75万年前に形成され、最新の噴火は約10万年前とされるが、20世紀前半に水蒸気の噴出が記録されている。島の人口は約4000人。島内には、チリ海軍が駐留し、数ヶ月に1度は物資とともに海兵隊もやって来る。鉄道は敷設されていないが、主要道路については舗装されており、島内の主な交通手段としては、乗り合いバスもしくはタクシーが、主な公共交通手段として、島民や観光客に利用されている。観光客には、レンタカー、レンタルバイクも利用されることが多い。島内には、レストラン、ホテル、ディスコ、ガソリンスタンド、ビデオレンタルショップ、学校、病院、博物館、郵便局、放送局(テレビ局3局、ラジオ局1局)等の施設が整っており、島の暮らしは至って現代的である。ラン航空が、マタベリ国際空港とサンティアゴ、リマ、タヒチのパペーテとの間に定期便を運航している。近隣諸島との間には貨客船も運航されている。なお、マタベリ国際空港の滑走路は、島の規模には不釣合いな3,300mと長大なものであるが、これはかつてNASAがスペースシャトルをヴァンデンバーグ空軍基地から打ち上げる計画を持っていたため、その際の緊急着陸地 (TAL sites) のひとつとして整備されたものである。チャレンジャー号爆発事故によってこの計画も中止されたため、緊急着陸地のリストから外された。住民はロンゴロンゴと呼ばれる絵文字を持っていた。この絵文字は古代文字によく見られる牛耕式と呼ばれる方法で書かれ、1行目を読み終えると逆さにして2行目を読むというように、偶数行の絵文字が逆さになっている。板や石に書かれ、かつては木材に刻まれたものが多数存在したようである。この文字は伝統的に支配者家族や神官に伝えられていたが、1862年のペルー人の襲撃による奴隷化と後続した疫病を通じてこれらの識字層が全滅してしまい、内容を判読不能となった島民たちによって以後薪や釣り糸のリールなどにされて、多数の文字資料が失われたという。そのため僅か26点しか現存せず、それらは全て島外に持ち出されて各国の博物館などに収蔵されている。また、現在のラパ・ヌイ人は、フランス人の奴隷狩りによりタヒチに連れ去られ、戻ってきた人々の子孫であり、現行のラパ・ヌイ語はタヒチ語の影響を強く受けた言語である。古代ラパ・ヌイ語についてはヨーロッパ人による貧弱な記録をたどるほかは、現行のラパ・ヌイ語から復元する以外、知る手立ては存在しない。したがって、解読は難しいとされている。閉鎖された空間に存在した文明が、無計画な開発と環境破壊を続けた結果、資源を消費し尽くして最後にはほぼ消滅したというダイアモンドらによる説は、現代文明の未来への警鐘として言及されることが多い。ポリネシア人がラパヌイ島に着いたとされる時期の森林は島を覆い尽くすほど茂っていたが、16世紀末頃までにほぼ消滅した。花粉分析から1300年頃までに椰子を初めとする全樹木類の花粉が減少してイネ科やカヤツリグサ科などの草本の花粉が急増していき、場所によりばらつきはあるが1500年〜1600年頃までには椰子、ハケケ、トロミロ、灌木の花粉が消滅する。椰子の実の化石を放射性炭素年代測定で分析した結果でも1500年以後のものは皆無である。環境破壊をしたのは島民自身であるという説が有力である。マゼランによる最初の西洋人による太平洋横断は1521年の事であり、先に挙げた樹木花粉の消滅時期や椰子の実の化石の消滅時期より後である。

出典:wikipedia

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