アッソチアツィオーネ・スポルティーバ・ローマ()は、イタリア・ローマを本拠地とするサッカークラブチームである。単にローマとも表記される。1927年にファシスト政権によって取り決められた合併によって設立され、1951-52シーズンを除いた全シーズンでイタリアのトップディビジョンに参加している。ローマはセリエAを3回(1941-42、1982-83、2000-01)、コッパ・イタリアを9回、スーペルコッパ・イタリアーナを3回制している。欧州の舞台では、1960-61インターシティーズ・フェアーズカップで優勝した。また、1983-84のヨーロピアンカップと1990-91のUEFAカップ決勝に進出したものの、それぞれリヴァプールとインテルに敗れ、準優勝に終わっている。2012年2月、『デロイト』が公表したデロイト・フットボール・マネー・リーグによると、2010-11シーズンのクラブ収入は1億4350万ユーロ(約160億円)であり、欧州第15位、イタリアではACミラン、インテルナツィオナーレ・ミラノ、ユヴェントスFCに次ぐ第4位である。エンブレムのオオカミのマークは古代ローマの建国神話におけるロムルスとレムスの兄弟の逸話から取られたものである。サポーターはロマニスタと呼ばれる。同じローマに本拠地を置くラツィオとはクラブ、サポーター共にライバル意識があり、2チームの対戦はローマ・ダービーと呼ばれるイタリアのダービーマッチとして知られている。1927年夏、ファシスト党のイタロ・フォッシによりイタリアサッカー選手権に参加していたローマを本拠地とするローマン、SSアルバ=アウダチェ、フォルティトゥード=プロ・ローマSGSの3クラブが合併し、ASローマが設立された。合併の目的は、当時強豪であった北イタリアのクラブのライバルとなる首都の強豪クラブを作ることだった。SSラツィオは、クラブの会員でイタリアサッカー連盟幹部のヴァカロ将軍の介入により、ローマの主要クラブとして唯一合併から免れた。1979-80シーズンにニルス・リードホルムが監督に就任し、コッパ・イタリアを制するとここから黄金期に突入する。ファルカン、ブルーノ・コンティらを擁したチームは1982-83シーズンにスクデットを獲得。翌シーズンのチャンピオンズカップでは決勝に進出するものの、決勝戦でリヴァプールにPK戦で敗退した。リードホルムの後任にスヴェン・ゴラン・エリクソンが就任。エリクソン体制の2年目に、当時は絶頂期だったユヴェントスFCとの優勝争いを演じて、一時は首位を守ったが終盤に敗戦(暗黒の日曜日とも呼ばれた)して最終的にユヴェントスに優勝をさらわれることとなった。それから再び優勝争いに加わるのは2000-01シーズンになるまで待たなければならなかった。それ以降は上位と中位をさまよい、監督交代も日常茶飯事であったが、1990-91シーズンはカップ戦が好調で、コッパ・イタリアを制し、UEFAカップでも決勝に進出したが、インテルに敗れタイトルを逃した。1992年にフランチェスコ・センシが買収し会長に就任(2008年まで)。フランチェスコ・トッティがデビューするなど明るい材料はあったが、この頃のセリエAは大きな変革期で、クラブはこの流れに乗り遅れた。センシが会長に就任して以降も負のサイクルは続き、タイトルとは無縁の日々が10年近くも続くことになった。1999-2000シーズンには、ファビオ・カペッロを監督に招聘。カペッロの招聘は見事的中し、1年目から優勝争いに加わった。シーズン後半には攻撃力の高いトッティをFWとして起用するため中田英寿を新司令塔として獲得したが、中田がチームにフィットしなかった事と選手層の薄さを露呈し、チャンピオンズリーグ出場圏外まで順位を落とした(この年ライバルのラツィオは国内2冠を達成した)。2000年にイタリア国内のクラブではラツィオに次いで株式を上場した。これにより補強資金を確保できたクラブは、2000-01シーズン開幕前にガブリエル・バティストゥータ、エメルソン、ワルテル・サムエルといった選手を補強した。バティストゥータ、マルコ・デルヴェッキオ、ヴィンチェンツォ・モンテッラらを再び司令塔のポジションに戻ったトッティが操る攻撃陣、エメルソン、カフー、アウダイール、サムエルの守備陣を擁したチームは序盤戦から首位を走り続け、失速することなく18シーズンぶり3回目のスクデットを獲得し、昨季の雪辱を見事に晴らした。以降のシーズンもアントニオ・カッサーノらを補強して優勝争いに加わり、2001-02シーズンと2003-04シーズンには2位に食い込みUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。2004-05シーズンは、カペッロがユヴェントスへ移籍し、監督交代も相次ぎ、更にはカルチョ・スキャンダルの影響を受けて低迷した。UEFAチャンピオンズリーグではホームでのディナモ・キエフ戦が没収試合となり、以降ホームでのレアル・マドリード戦とバイエル・レバークーゼン戦を無観客で行わなければならなかった。終盤にはブルーノ・コンティが監督に就任し、コッパ・イタリアでは2年ぶりに決勝に進出した(それ以降のコッパ・イタリアでは6年で5回決勝に進出している)。2005-06シーズンからルチアーノ・スパレッティが監督に就任すると、当時のリーグ新記録となる11連勝をローマ・ダービーにおいて達成したが、トッティの怪我が影響し中位に沈んだ。しかし、カルチョ・スキャンダルの影響を上位チームが受けたこともあり2位に浮上。2006-07シーズン、2007-08シーズンも2位となり、特に2007-08シーズンは最終節まで首位インテルを追い詰めた。また、この2シーズン連続でUEFAチャンピオンズリーグでベスト8に食い込むなど好成績を残した。更に、2006-07シーズンには16年ぶりにコッパ・イタリアを制し、翌年に連覇も達成した。そして本来CFタイプではないトッティをそのポジションに置く「ゼロトップ(トップレス)」はサッカー戦術の新潮流となった。2008-09シーズンはCLではベスト16だったが、リーグ戦では6位と、優勝争いはおろか、CL出場権まで逃してた。2008年にセンシ会長が死去し、娘のロゼッラが会長を務めた。2009-10シーズンは開幕から2連敗し、その責任を取ってスパレッティが監督を辞任。後任のクラウディオ・ラニエリによってチームは巻き返し、公式戦20戦無敗、リーグ24戦無敗のクラブレコードをローマ・ダービーにおいて更新。UEFAヨーロッパリーグでは決勝トーナメント1回戦で敗退したものの、セリエAではインテルと激しい優勝争いを繰り広げ、33節で最大14あった勝ち点差をひっくり返し首位に浮上した。しかし35節で再び2位に沈むと、最終節まで優勝の可能性を残しながらも2位に終わった。また、コッパ・イタリアでは2年ぶりに決勝に進出したが、インテルに敗れ準優勝となった。2010-11シーズンは不振に陥り、クラウディオ・ラニエリ監督は2011年2月に解任。シーズン終了までヴィンチェンツォ・モンテッラが指揮を執った。ローマのオーナーであるセンシ家は長年資金難に悩まされており、2010年7月には経営権がイタリア最大の銀行グループウニクレーディトの管理下におかれるほどであった。2011年3月、米国大リーグ、ボストン・レッドソックスのパートナーであるイタリア系アメリカ人、がオーナーの地位に就いた。パレルモでディレクターを務めたワルテル・サバティーニをスポーツディレクターとして招聘し、FCバルセロナB監督であったルイス・エンリケを招聘した。そして、2011年の夏の市場では大量補強を行い、ボージャン・クルキッチやミラレム・ピアニッチ、ホセ・アンヘル、フェルナンド・ガゴ、エリク・ラメラ、パブロ・オズヴァルドといった若手選手を中心としつつ、マールテン・ステケレンブルフやガブリエル・エインセといった選手を獲得した。しかし、結果は7位という欧州カップ戦に出られない成績に終わり、2012年5月、ルイス・エンリケ監督、オーナーのディベネデト氏は辞意を表明した。後任にオーナーは前任者と同じイタリア系アメリカ人のジェームズ・パロッタに、監督はズデネク・ゼーマンの就任を発表。しかしリーグ戦での不振が要因でゼーマンは2013年2月2日に解任された。後任には長くローマでテクニカルスタッフを担当しているアウレリオ・アンドレアッツォーリが暫定的に指揮を執ることになった。2013年6月12日、リールからリュディ・ガルシアの招聘。2013-14シーズンは、セリエA記録となる開幕10連勝を達成、その後もインテルなどのライバルチームに勝利を収め、17節カターニャ戦まで無敗を維持した。ローマはユヴェントス、インテル、ミラン、ナポリに次いでイタリアで5番目にファンの多いサッカークラブであり、イタリアのサッカーファンの約7%がローマを応援している(2006年4月の調査)。歴史的に、ローマ市のローマサポーターの大部分はインナーシティ、特にテスタッチョから来ている。クラブの伝統的なウルトラス集団は"Commando Ultrà Curva Sud"(CUCSの略称で知られる)であった。CUCSは多くの小さなグループの合併によって設立され、欧州サッカーの歴史において最も歴史あるグループの一つであると見なされていた。しかしながら、1990年代中頃までに、CUCSはライバル派閥に取って代わられ、最後には解散した。この時以来、スタディオ・オリンピコのクルヴァ・スッド(南スタンド)はより右翼的な集団であるASローマ・ウルトラスやボーイズ、ジョヴィネッツァなどによって管理されている。しかしながら、最も古いグループである"Fedayn"は政治に無関心であり、政治はローマの主要なアイデンティティではなく、全体のアイデンティティの単なる一部分である。最も知られているクラブアンセムは、アントネッロ・ベンディッティが歌った「Roma (non si discute, si ama)」("Roma Roma"としても知られている)である。曲の題名は「ローマは議論の余地は無く、愛されるべき」といった意味であり、毎試合前に歌われる。同じ歌手による「"Grazie Roma"」はホームゲームで勝利した後に流れる。最近は、ザ・ホワイト・ストライプスの楽曲「セヴン・ネイション・アーミー」のリフも試合で広く親しまれるようになってきている。イタリアサッカーにおいて、ローマには多くのライバルがいる。最初のライバルは、共にスタディオ・オリンピコを本拠地とするラツィオである。この2チームのダービーマッチは「デルビー・デッラ・カピターレ」(首都ダービー)呼ばれる。過去には、1979-80シーズンの試合のおいてクルヴァ・スッドから発射された緊急照明弾が原因で起こったラツィオファンVincenzo Paparelliの死亡事故や、死亡者が出たという根拠のないうわさに端を発したスタジアム外での暴力を受けて試合放棄となった2004年3月の事例など、時折暴力沙汰が起こっている。近年では、ローマファンはユヴェントス(1980年代にライバル関係が生まれた)やミラン、インテル(近年上昇している)といったセリエAの強豪も(リーグタイトルを争うことから)ライバルと考えている。SSCナポリとも、「デルビー・デル・ソーレ」(太陽のダービー)を闘うライバル関係にある。近年一部のローマサポーターとイングランドのクラブのファンとの間で数多くの衝突事例やその後のスタジアム外での暴力が起こっており、多くのリヴァプールファンが刺される事件も起こった(ヘイゼルの悲劇も参照)。それ以来、一部のイングランド人サポーターがローマにおいて暴力を受けたり刺される事件がさらに起こっている。2001年にリヴァプールがローマを訪ずれた際や、2006年のミドルスブラファンとの衝突、2007年のマンチェスターユナイテッドファンとの衝突などである。2009年3月、アーセナルサポーターを乗せた長距離バスがスタディオ・オリンピコのすぐ外でローマの「ウルトラス」の集団によって攻撃された。バスの窓ガラスは割られ、少なくとも一人が車両に乗り込み、火を放ち、サポーターの膝を刺した。 () ()★★★括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。
出典:wikipedia
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