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隠岐汽船

隠岐汽船株式会社(おききせん、"Oki Kisen Co., Ltd.")は、島根県の海運会社。日本海にある隠岐諸島と本土の間にカーフェリーおよび高速船航路を運営している。本社は島根県隠岐郡隠岐の島町。隠岐と本土の間の往来は、明治中期まで帆掛け舟に頼っていたが、航海が天候に左右され荒天による遭難も後を絶たないことから、1883年4月、西ノ島町の焼火神社の神官で隠岐島議会の議員を務めていた松浦斌が蒸気船の購入を議会に提案した。しかし、同時期に航路開設を計画した個人企業が相次いで事業に失敗していたこともあり、高額な蒸気船の導入に他の議員は反対の姿勢を示し、事業が競合する廻船業者は猛烈に反対、イカ漁の邪魔になるとして漁師からも反発を受けた。島内で孤立無援となった松浦だったが、当時の郡長だった高島士駿の協力を得て、1884年4月、高島が代表となり蒸気船の購入を議会で発議した。他の議員からは、再び激しく反対されたが、松浦が購入費用の半額を拠出、議会と折半する条件を提示して合意を得た。松浦は先祖代々所有する焼火山の山林のスギおよびマツ約1万9,000本を伐採、売却して購入資金に当て、大阪商船からイギリス製の木造蒸気船速凌丸(132総トン)を1万6,000円で購入、隠岐丸と改名して、1884年末に隠岐へ回航した。1885年、菱浦 - 浦郷 - 境港間で運航を開始したが、当初は年間約30航海の運航に留まり、利用者は伸び悩み、低迷した。1890年1月に松浦は病没、隠岐島四郡連合会により運航は継続された。1895年、航路維持のため島民の出資により、隠岐汽船株式会社が設立された。最大の株主だった中ノ島海士村の渡辺新太郎が初代社長に就任、中ノ島菱浦に本社が置かれた。その後、舞鶴航路が開設され阪鶴鉄道と連絡したのを皮切りに新規航路の開設が順次進められ、最盛期には網代港、津居山港、敦賀港、温泉津港、浜田港、下関港へ就航した。1933年4月には松江港の築港に合わせて境港から松江港まで航路を延長、第一隠岐丸と第二隠岐丸が交互に毎日運航された。また、1910年から1917年まで短期間ながら、朝鮮半島への北韓航路が開設され国際航路を運航した。1949年、海上運送法の施行により、「一般旅客定期航路事業」の許可を受けた。1970年代には航路のフェリー化が進められた。1972年にフェリー化第一船となるくにがが就航、大型化した第二船フェリーおき (初代)、第三船フェリーおきじの就航により、1980年にはカーフェリー3隻による運航となった。また、高速船の就航による所要時間短縮も進められた。隠岐 - 本土間の航海時間は、1984年、初の高速旅客船「マリンスター」の就航により約100分、1993年、超高速旅客船「レインボー」の就航により約60分となり、大幅に短縮された。1995年、創立100周年を迎えたが、離島の人口減、観光客の減少により経営が悪化、2002年以降は赤字となり、燃料費高騰の影響も受け、2005年には実質的に債務超過となる危機的状況に陥った。2006年に経営再生計画を策定、経費削減および運賃の値上げ、減船と寄港地の集約など収支改善のための対策を行い、島根県および隠岐広域連合の支援を受けて経営再建に取り組んでいる。七類港 - 西郷港 - 別府港の間は国道485号の海上区間に指定されている。各船がそれぞれ本土と隠岐を1日1往復するダイヤが組まれている。現在運航中のフェリーは、いずれも三菱重工業下関造船所で建造された。

出典:wikipedia

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