佐々木 主浩(ささき かづひろ、1968年2月22日 - )は、宮城県仙台市出生、泉市(現・仙台市泉区)出身の元プロ野球選手(投手)。日本プロ野球名球会理事、野球解説者・野球評論家、タレント、馬主。日本プロ野球(以下:NPB)、メジャーリーグベースボール(以下:MLB)で抑え投手として活躍。日本人選手として最多となるMLB通算129セーブ、NPB時代だけで歴代3位となる252セーブを記録するなどNPB/MLB通算で381セーブ(日本人史上初の通算300セーブ)を記録し、抑え投手として一時代を築いた。NPBでは「ハマの大魔神」、MLBでも "Daimajin" という異名で呼ばれた。また、NPBシーズン&通算最多セーブポイント記録保持者(現在は非公式)、日本プロ野球名球会初のセーブ数による入会者である。血液型はO型。宮城県仙台市に生まれ、小学2年の時に泉市(現在の仙台市泉区)へ転校する。小学4年の時に地元の少年野球チーム「将監アタックス」で野球を始めた。4番、ピッチャーを務め、のびのび野球を通じて野球の楽しさを体感した。泉市立将監中学校では野球部に所属し、エースピッチャーがいたため主に野手として試合に出場。竹田利秋監督のスカウトがきっかけとなり、反対する周囲を説得して東北高校に進学した。東北高校では2年の夏からエースとして3季連続甲子園大会に出場し、3年の春夏はベスト8に進出した。東北高校の同級生、チームメートに元阪神の葛西稔がいる(佐々木は葛西を「みーくん」と呼んでいたという)。また高校時代に親しかった同級生の2つ年下の弟は斎藤隆で、昔からの顔見知りであった。斎藤とは高校・大学・日本プロ野球で同じチームに属することとなった。高校卒業後は東京の大学へ進学することも考えたが、東京で遊びに走ることを憂慮した竹田監督の勧めで地元の東北福祉大学へ進学した。東北福祉大学時代は全日本大学野球選手権大会で2度準優勝(2年・3年)している。大学在学中には高校野球の指導者になるため に教員資格を取得している。のドラフト会議で横浜大洋ホエールズが1位指名で交渉権を獲得。大学時代は故障続きで腰の手術を受けたこともあって、「大塚君(同東北福祉大から西武ライオンズに3位指名の大塚孝二)はいいなあ。僕は欠陥商品ですから。」と発言し、プロ入りを拒否していたが、球団から説得され入団。契約金は6000万円、年俸は600万円(金額は推定)。背番号22は2月22日午後2時22分生まれに由来するといわれ、ルーキーイヤーの春季キャンプを扱ったスポーツニュースでは「平成2年2月22日に22歳の誕生日を迎えた背番号22の佐々木投手」という特集も組まれたこともある。また市外局番の「022…」が宮城県に割り振られていることにも言及し、「宮城県出身の私にとってもうれしい」と自著で触れている。以後日米のキャリアを通じて背番号22を付け続けた。入団当時の監督、須藤豊は「チームで最もいい投手が抑えを務めるべきである」という考えから、看板投手の遠藤一彦を抑えに起用していたため、1年目の1990年は16試合に登板したが、先発で7試合に登板した。同年は2勝4敗2セーブ、防御率5.85の成績で終わった。シーズン序盤までは先発で起用されることもあったが先発投手としては中盤に球威が落ちスタミナ面で課題が残る投手であったが、遠藤の故障離脱により抑えに抜擢された所、安定した成績を収め定着。速球と落差のあるフォークボールを武器に高い奪三振率を記録。8月28日の対広島戦の9回、見逃し5球、空振り4球、ファウルなしの「三者連続3球三振」を達成している。同年は58試合に登板、6勝9敗17セーブ、防御率2.00の好成績を残す活躍を見せた。には開幕から1年間ストッパーを努め初タイトルである最優秀救援投手に輝く。この年、中継ぎの盛田幸妃から佐々木への継投リレーが確立された。は夏場に故障するも及第点の成績を挙げる。はキャンプ時に肘を故障し手術前半戦を棒に振る、その間抑え投手の座を盛田に譲った。夏場に一軍復帰してからは再び抑えになり、9月18日の広島戦で7者連続三振を記録している。この当時、サンケイスポーツの巨人担当記者が佐々木を(敵チームから見て)「悪魔の守護神」を略した「魔神」と表現する。また、佐々木の風貌が大映の劇中のキャラクター、「大魔神」に似ていることも相まり、「ハマの大魔神」というあだ名が定着した。は抑え投手として完全復活を遂げ、自身初となる30セーブ越え、防御率1点台を記録し、3年ぶりに最優秀救援投手を獲得する。7月8日のヤクルト戦で史上最速となる500奪三振を達成。地元横浜開催となったオールスターにファン投票で選出され、先発登板。パ・リーグ先頭打者のイチローとの対決が話題となった。オフには横浜生え抜き投手として初の1億円プレイヤーとなる。はあまり調子はよくなかったものの2年連続となる最優秀救援投手を獲得する。この年のシーズンオフ、球団が有働勝次を解雇したことに怒り、メジャー・リーグ移籍を示唆する。またシーズンオフ、自主トレーニング先のサイパン島で不祥事を起こすといったこともあった。はシーズン前の雑音を封印するかのように奮起し、シーズン無敗、防御率0点台の活躍を見せ、チームの2位躍進に貢献。3年連続の最優秀救援を獲得。特にチームが急上昇した8月はプロ野球記録となる月間14セーブを挙げ、月間MVPを獲得している。シーズンオフには約1億5000万円アップの年俸3億3000万円で更改。は父親の一周忌でもある7月7日に(1996年8月31日以来の)675日ぶりの敗戦を記録するまでシーズン自責点0を続ける。結局敗戦はその1敗のみで、登板数51試合、30セーブ以上挙げた投手の中でも歴代トップの防御率0.64(自責点4)という安定感ある成績を残し、史上初の40セーブ越えであり当時プロ野球記録で、135試合制の記録としては歴代最多となる45セーブ(当時公式記録の46セーブポイントも日本記録)を挙げ、4年連続となる最優秀救援投手賞を獲得して横浜の優勝に大きく貢献した。10月8日のリーグ優勝を決めた試合にも抑えで登板し、新庄剛志から三振を奪って胴上げ投手となった。佐々木は後に自らこの試合を「ベストゲーム」としている。この年はシーズンのセーブ、セーブポイント数の日本記録に加え、6月4日の巨人戦で鹿取義隆を抜いて通算217セーブポイントの日本新記録(当時)、6月17日の阪神戦で17試合連続セーブの日本新記録、6月30日の広島戦で22試合連続セーブポイントの日本新記録、8月5日の阪神戦で江夏豊を抜いて通算194セーブの日本新記録(当時)、8月7日の広島戦でプロ野球史上初の2年連続30セーブを達成するなど、日本記録ラッシュが続いた。6月と9月の月間MVPも獲得している。9月19日には、横浜の優勝を祈願して横浜駅東口の地下街ポルタ内に、佐々木のフォークボールの握りを再現したブロンズ像を「ご神体」とした「ハマの大魔神社」が設置され、翌1月17日に撤去されるまでの間に約1,660万円のお賽銭が集まった。日本シリーズでも第6戦で金村義明を併殺打に打ち取って胴上げ投手となり、MVPをはじめ、正力松太郎賞、日本プロスポーツ大賞を受賞。シーズンオフにはイチローとともにプロ野球史上初めて年俸5億円に達した。また「ハマの大魔神」はこの年の新語・流行語大賞を受賞するなど、社会現象となるほどの活躍を見せた。にFA権を取得し、メジャー移籍が可能になる。シーズン中に故障し戦線を離脱するが、シーズン中にもかかわらず手術を受けたことに対して球団は不信感を持ち、佐々木も移籍を匂わせるような発言をした。1999年オフにトニー・アタナシオを代理人とし、FA権を行使してMLBのシアトル・マリナーズと総額1200万ドル+出来高の3年契約(4年目は年俸500万ドルの球団オプション)を結ぶ。当時のマリナーズ筆頭オーナーであった任天堂の山内溥は「メジャーリーグのピカチュウになってほしい」とコメントした。メジャー移籍後、横浜球団が背番号22を他の選手に渡したのは、佐々木の行動に対する失望や不信感からだとされている。佐々木は日本一になった年のオフ、球団に「メジャーに行きたい」と訴えたが、強引に引き留められた。はスプリングトレーニングでホセ・メサとクローザーの座を争い、開幕5日前の3月30日にクローザーに指名される。4月5日のボストン・レッドソックス戦でメジャー初登板。この時セーフコフィールドの電光掲示板には「ようこそマリナーズ 大魔神」という日本語の電光文字と共に“DIAMAJIN”と文字が逆に表示されるハプニングもあった。しかし5月10日のテキサス・レンジャーズ戦でデビッド・セギーに(1991年に落合博満に打たれて以来となる)サヨナラ本塁打を浴び、12日のオークランド・アスレチックス戦でもマット・ステアーズにサヨナラ本塁打を浴びて中継ぎに降格。しかしその後クローザーを務めたホセ・メサも23日のボルチモア・オリオールズ戦でサヨナラ本塁打を浴びたため、再びクローザーとして起用される。6月6日のコロラド・ロッキーズ戦では村上雅則と長谷川滋利に並ぶ日本人最多タイの9セーブ目を記録し、12日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で日本人最多の10セーブ目を挙げた。オールスターゲームに選出されることはなかったが、出場選手全員のサインがされた佐々木のユニフォームをアレックス・ロドリゲスから貰い、「一生の宝物です」とコメントした。ポストシーズンでは、4試合に登板し無失点の投球で3セーブを挙げたが、チームはニューヨーク・ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズで敗退した。レギュラーシーズンでは最終的にリリーフ投手中リーグ1位の奪三振率11.20、同6位のWHIP1.16の投球でメジャー新人記録の37セーブ(にネフタリ・フェリスが40セーブを挙げ更新)を挙げ、アメリカンリーグ新人王に選ばれた。は4月16日のアナハイム・エンゼルス戦では自己最速となる96mph(約154km/h)を記録するなど好調なスタートを切り、4月のメジャー最多記録となる月間13セーブを挙げる。5月29日のオリオールズ戦では1994年にリー・スミスが達成したチーム46試合目に次ぐ史上2位のチーム50試合目での20セーブ到達を達成し、5月終了時点で21セーブと最多セーブは確実と見られていた。しかし、7月2日に29セーブ目を挙げて以降はセーブ機会が減り、オールスターゲームに選出されセーブを記録した他、8月2日のデトロイト・タイガース戦でNPB/MLB通算300セーブを、翌日のクリーブランド・インディアンス戦でメジャー2年目でのアメリカンリーグ全チームからのセーブを、8月18日のニューヨーク・ヤンキース戦で当時の球団新記録となる38セーブをそれぞれ達成するも、終盤には右大腿を痛め調子を崩しマリアノ・リベラに5セーブ差のリーグ2位に終わった。レギュラーシーズン最終登板となった10月6日のレンジャーズ戦ではMLBタイ記録となるチーム116勝目を45セーブ目で飾り、「こんな試合を締めくくれたのは光栄です」と語った。ポストシーズンでは、4試合の登板で1セーブを上げ、奪三振率13.63の快投を見せるが、ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズ第4戦では自己最速タイとなる96mph(約154km/h)を記録するも、アルフォンソ・ソリアーノにサヨナラツーラン本塁打を打たれ、敗戦投手となり、チームは翌日の試合にも負けて敗退した。これが(その後低迷した)マリナーズがポストシーズンを戦った近年最後の試合で、結局、佐々木はワールドシリーズで登板する機会はなかった。オフにはシーズン終了報告で任天堂の本社を訪れ、メジャー移籍を目指していた谷繁元信の獲得を進言したが、入団には至らなかった。は夫人の病気により一時は日本に帰国したが、6月1日まで自責点0と好投を続けた。6月26日のアスレチックス戦で19セーブ目を挙げ、史上最速となるメジャー通算160試合目での通算100セーブ到達を達成。オールスターゲームにも前年に続き2年連続で選出され、メジャー自己ベストの防御率2.52を残す。しかし後半は右ひじを痛めてやや調子を崩し、自己ワーストとなる救援失敗8を記録。レギュラーシーズン終了後は「アメリカ(MLB)にいるとテレビ(プレーオフ)を見てしまい、ポストシーズンに出場できなかった悔しさが倍増してしまう」と、10月上旬に帰国。オフには日米野球の出場も辞退し、右ひじの遊離軟骨除去手術を受けた。この年はその他、自らがオーナーを務めるモータースポーツチーム「TEAM 22」でフォーミュラ・ニッポンに参戦し、伊藤大輔をドライバーに起用した(メンテナンスはムーンクラフトに委託)。はアスレチックスとの日本開幕戦の記者会見にイチローと共に出席。シーズンでは4月3日のアスレチックス戦で1イニング4三振の珍記録を達成するが、同月23日に右腰の張りのため、初の故障者リスト入り。5月には復帰し、投球にカットボールも交える余裕もできる程の好投を続けたが、6月8日、遠征から帰宅し自宅にスーツケースを運び入れた際の転倒で右脇腹を強打し、再び故障者リスト入りする。この故障についてはGMに「最もがっかりした」と苦言を呈され、自身も「恥ずかしい。ほんと馬鹿だね。こんなところで」と悔んだ。8月13日のトロント・ブルージェイズ戦で復帰して以降は好調を維持した長谷川滋利がクローザーを務めたため、セットアッパーに降格。シーズン終了後にはマリナーズとの残り1年契約を破棄して退団。退団理由については「日本で家族と一緒に暮らすため」と説明した。この年は前年に引き続きフォーミュラ・ニッポンにも参戦(メンテナンスはチームルマンに委託)。脇阪寿一をドライバーに起用し、2勝を挙げた。12月には名球会の規約変更に伴い、名球会入りを果たす。、日本プロ野球の日本人選手としては2015年現在歴代最高年俸となる6億5000万円の2年契約を結び、横浜に復帰。球威は衰えていたが、数種類に変化するフォークボールと絶妙なコントロールで安定した成績を挙げていた。ただし、山下大輔監督は佐々木をセーブ機会以外での起用をほとんどせず、チームにセーブ機会がないときは10試合以上登板がないこともあり、8月になっても35試合以上に登板していないというのはこうした起用がなされているからであった。8月4日の対中日戦、7日の対ヤクルト戦で連続して救援に失敗、翌8日のヤクルト戦では土橋勝征、岩村明憲、古田敦也に3連続本塁打を浴びて逆転負けを喫する。11日、引退の意向を球団に伝えるが慰留を受けて後に撤回。その後2軍落ちし、そのままシーズンを終えた。結局25試合の登板で1勝2敗19セーブ、防御率3.18とやや物足りない成績となった。は度重なる怪我の影響でサヨナラ負けを喫するなど打ち込まれ、8試合0勝3敗4セーブ防御率9.53の成績で2軍落ち。その後復帰を目指して調整を続けていたが調子は上がらず、またその間にマーク・クルーンが抑えに台頭したこともあり、チームの戦力構想から外され、8月7日に現役引退を表明。「お袋の前で投げたい」との希望により、2日後の9日、故郷・仙台のフルキャストスタジアム宮城で行われた対巨人戦で、高校時代からのライバルで親友でもある清原和博相手に、事実上の引退登板をした(結果は三振)。佐々木は球団との契約を盾に湘南シーレックスのユニフォームを着用せず、イースタン・リーグでの調整登板もしていない状態であることから、横浜の牛島和彦監督はゲームに影響が出ないよう、普段は救援投手である秦裕二を先発させ、清原の第1打席で佐々木を投入。清原の打席後、改めて本来の先発投手門倉健を登板させるという継投策を取った。この投手起用について牛島は試合前、巨人の堀内恒夫監督に「お騒がせして申し訳ない」と謝罪した。この引退登板については公式戦の私物化と批判する意見もあり、チーム内でもこの件に関し、野村弘樹コーチと福田功ヘッドコーチの間で対立が生じた。10月8日、本拠地横浜スタジアムでのヤクルト戦で最終登板する予定だったが、今日の試合での登板はチームに迷惑をかけるとして自ら辞退、セレモニーのみが行われた。この時の挨拶で「生涯野球人であることを誓います」と述べた。現役引退後は横浜の親会社であるTBSと日刊スポーツの野球解説者に就任し、野球評論家として活動。12月7日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載される。2月に韓国プロ野球・LGツインズの臨時インストラクターを務める。2006年5月16日、NARの馬主登録、2006年11月にはJRAの馬主登録を行っている。所有馬の約半数には「マジン」の冠名をつけている。2012年2月11日のクイーンカップで所有馬のヴィルシーナ(栗東:友道康夫厩舎)が1着となり馬主として初めて重賞競走を制覇すると、さらに翌々週には阪急杯でもマジンプロスパーが優勝している。2013年5月12日、ヴィクトリアマイルでヴィルシーナが優勝し、初のGI競走制覇を果たしている。2014年1月17日、野球殿堂博物館より平成26年度野球殿堂競技者表彰者として秋山幸二(元福岡ソフトバンクホークス監督)、野茂英雄(元近鉄バファローズ、ロサンゼルス・ドジャースなど)と共に選出されたことが発表された。最速96mph(約154km/h)の速球と数種類のフォークボールを武器とした他、120 km/h台のカーブも混ぜ、2003年にはカットボールも投げた。握力が非常に強く、佐々木の投げる落差の大きなフォークは、「2階からのフォーク」とも形容された。三振を奪うための速いタイプとカウントを取るための遅いタイプがあり、手首を固定せずフォーシームの握りで速球を投げるようにスナップを利かせて回転をかけることで投げる140km/h前後のフォークと、スナップを抑えてほぼ無回転のチェンジアップ気味のフォークを投げ、縫い目にかける指を調節することで軌道を左右に曲げる(今で言うフォッシュ)こともできた。ボールにはわずかな横回転のみが掛かり、縦回転がないため落差があり、回転しているので球種の判別がされ難い。また、握りで球種を見破られることを防ぐために横幅の広い特注のグラブを作った他、リリースの瞬間に速球の握りからフォークの握りに変えるなどの工夫も凝らした。カーブは、メジャー移籍前の横浜時代には遊び球として使用したが、捕手の谷繁元信が「怖くて実戦では使えない」として数球ほどしか披露されていない。一方、シアトル・マリナーズ移籍後は、ダン・ウィルソン捕手がこのカーブを高評価し、実戦でもフォークによく織り込んで投げていた。プロ入り当初はランナーがいない時はノーワインドアップで投球していたが、抑え投手に定着してからはランナーがいなくてもセットポジションで大きく足を挙げて投球していた。また、ランナーがいる際は足をあまり上げずにすり足気味で投球をしていた。佐々木を苦手としていたバッターは多く、特に巨人時代の松井秀喜は佐々木を大の苦手としていた一方、落合博満は打率.444(36打数16安打4本塁打)と佐々木をよく打っていた。巨人時代に落合は佐々木から2本塁打打っているが、2本とも松井が倒れた直後に打っている。小学校時代の自身の経験から「中学生までは厳しく叱責せず楽しく野球をやらせるべき」との考えを持つ。小学生からアドバイスを求められても技術的な指導はしないという。甘いもの(特にプリン)が好物である。また料理も小学生の頃からしていたため得意。父親が乳製品メーカーに勤めていたため、子供時代は乳飲料を水のように飲用した。商業用(いわゆるBBM系など)のトレカにはサインをしない主義であったが、「BBM2006 1st Version」の「引退選手」のコンテンツで初めて商業用の直筆サインを50枚書いた。1990年代後半によくゲストで登場していた『ショウアップナイタープレイボール』で横浜の先発オーダーを佐々木が発表する際、日本人選手では年上の駒田徳広には「5番ファースト駒田さん」と敬称を付けていた(中根仁ら他の年上の選手が先発の際も同様)。血液型はO型。父は1997年7月7日に53歳で亡くなった。1991年に元アイドルの清水香織と結婚。その後長女と長男が誕生したが、メジャーリーグに行った頃に起きたすれ違いや、榎本加奈子との不倫関係、榎本の妊娠により夫婦仲は修復不可能になり2005年3月18日に離婚。子供2人の親権は佐々木が持つことになった。翌月の4月29日に榎本との間に男児が生まれ、5月9日に再婚。2006年6月29日、再婚後2人目の子(男児)が誕生した。ほかほかほか
出典:wikipedia
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