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高橋氏

高橋氏(たかはしし)は、日本の氏族、苗字、大姓。高橋の名の由来については諸説あり、同姓には諸流ある。同音異姓に孝橋・鷹橋・高槁・高端・鷹啄・喬橋・鷹羽司がある。大蔵春実を祖とする大蔵党の子孫で、光種が筑後国御原郡高橋に住し高橋光種と名のったのがはじまりとされる。大蔵党の嫡流は筑前国御笠郡の原田氏で、同朝倉郡の秋月氏、筑後国山門郡の田尻氏、同三潴郡の江上氏などとは同族である。光種は足利尊氏から九州検断職に任じられている。統種の子高種は出奔して京都に上って室町将軍足利義尚に仕え、その後、伊豆に流れて、後北条氏に仕えた。その子の一人綱種は北条氏綱の猶子となり、北条氏を名乗るが、子孫は後に高橋氏に復している。大友氏十代の大友親世の頃にその支配下に属し、さらに光種の七代後の高橋長種に子がなかった。高橋氏旧臣たちの懇請により大友一族の一万田親泰(親敦)の子の鑑種が高橋氏の名跡を継ぎ、高橋氏は大蔵党氏族から大友一族の一万田系に変わり、以降、大友氏配下の家系となる。宝満城、岩屋城を治める。高橋鑑種は武勇にすぐれ、弘治3年(1557年)に秋月文種が大友氏に叛いた時、筑後の蒲池鑑盛、田尻鑑種、草野鎮永らが出陣したが、鑑種は大友軍の指揮官となって活躍した。この時の功により鑑種は筑前国御笠郡に2千町を与えられ、それまでの筑後国御原郡下高橋から移り、宝満山城を本拠地とし、大友氏の筑前守護代(城督)となる。永禄9年(1566年)、鑑種は、以前から筑前・豊前に侵出していた毛利元就に内通し、大友氏当主の大友義鎮(後の大友宗麟)に叛いた(この時、立花山城主立花鑑載も共に元就に内通し、義鎮に叛いている)。鑑種は、秋月種実をはじめ原田氏、筑紫氏、宗像氏などと共に毛利氏の九州派兵を要請した。戸次鑑連を指揮官とする大友氏の主力として最後まで奮戦したのは豊後の朽網氏、一万田氏、筑後の蒲池氏、田尻氏、溝口氏、三池氏、問註所氏であった。永禄12年(1569年)に尼子勝久の家臣山中幸盛が山陰に攻め込んだために、元就は九州から撤退し、そのため後ろ盾を失った鑑種は進退窮まり義鎮に降る。高橋氏は所領を没収され、再度断絶の危機を迎える。そのとき高橋氏の名跡の後継者として白羽の矢を立てられたのが、義鎮の家臣で、縁戚でもある吉弘鑑理の次男である。高橋氏の名跡を継ぎ、名を高橋鎮種と改め、剃髪後は高橋紹運と称した。一方、鑑種を滅ぼした大友氏を快く思わない旧臣は、鎮種を後継者と認めず、先祖を同じとする大蔵流秋月氏より養子を迎えて、系譜上の正当な後継者であると主張した。これが鑑種の同盟者秋月種実の子、高橋元種である。ここに九州の名族高橋氏は2流に分裂することとなった。紹運の長男・統虎は、立花道雪(戸次鑑連)の強い要請により養子とされたため、高橋氏は次男・統増が後を嗣いだ。しかし関ヶ原の戦いで兄弟は西軍について共に改易。徳川秀忠に兄が召し抱えられた後、弟にも拝謁を許されて任官を認められたが、その際に本多正信の薦めで、兄の家号に従って立花姓に改姓した。一説によると、岩屋城落城の際、紹運の三男(統重)が糸島に匿われて糸島高橋氏となり存続したという伝承があり、この系統の高橋氏にも続く系譜がある。他方、元種は九州征伐で島津氏側について敗北し、延岡に転封された。関ヶ原の戦いでも西軍に付いて敗れたものの、兄秋月種長と東軍の水野勝成の工作で内応していたために、その事前の寝返りが奏功して所領は安堵された。しかし、慶長18年(1613年)に突如改易となり、大名としての高橋氏は滅亡してしまった。原因として複数の説があるが、大久保長安事件に巻き込まれた物と思われる。その後、元種の長男は父の預かり元となった宗茂が治める棚倉藩へ同行し、宗茂の柳河藩移封後にその藩主となった丹羽氏に仕官して二本松藩士となった。次男は旧縁のある島津氏を頼り鹿児島藩に仕えた。紀氏の流れを汲む武士で、駿河国高橋を領した縁で高橋姓を称す。高橋光国の代に備中に移封され、さらに高橋師光の代には高氏とつながりがあった関係で、観応の擾乱のあおりを受け石見へ転封を余儀なくされる。戦国期、高橋久光・高橋元光が当主の時代に最盛期を迎えたものの、その後は相次ぐ当主の戦死や一族の内紛などでその勢力は衰退し、高橋興光の代に安芸の国人毛利元就に滅ぼされた。なお、高橋氏の流れを汲む石見の国人としては本城常光がいるが、彼もまた元就によって滅ぼされている。 太線は実子。細線は養子。※系図に諸説あり。近江佐々木源氏を祖とし、大江広元の長子大江親広が承久3年(1221年)承久の乱で敗れると、共に出羽国寒河江荘に下向したという。高橋氏は寒河江氏譜代の臣として活動し、応安元年/正平23年(1368年)9代信綱のとき斯波兼頼との漆川の戦いにおいて息子運信と共に討死、また大永元年(1521年)18代正行の時伊達氏との対陣に出動している。天正12年(1584年)寒河江氏は最上氏の侵攻により滅ぶが、高橋氏は最上氏に下り存続した。

出典:wikipedia

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