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岩槻藩

岩槻藩(いわつきはん)は、武蔵国埼玉郡(現在の埼玉県さいたま市岩槻区大字太田)に存在した藩。居城は岩槻城。岩槻は戦国時代には後北条氏の領国で、本拠である相模国小田原城に次ぐ重要拠点のひとつと見なされていた。岩槻城は長禄元年(1457年)に扇谷上杉氏に仕えていた太田道真・太田道灌父子が敵対関係にあった古河公方・足利成氏に備えて築城したのが始まりと考えられてきたが、近年では古河公方方の成田正等による築城と見るのが主流となっている。その後、北条氏の台頭で扇谷上杉氏は滅び、その旧臣である太田資正は北条氏に対して抵抗を続けたものの、結局岩槻城は北条氏の支城となる。北条氏がこの岩槻を重要な城と見なしていたことが窺える史料に『北条氏岩槻城諸奉行詰番並掟書』がある。それによると、天正5年(1577年)岩槻城には、小旗120余本、槍600余本、鉄砲50余挺、弓40余張、歩兵250余人、馬上500余騎などの1580余名に、足軽を含めておよそ5000人の軍勢が常駐していたことがわかるのである。豊臣政権の時代となり、天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏が降伏、関東に新たに入部した徳川家康も岩槻を関東支配拠点のひとつと見なし、譜代中の譜代の家臣で家康三河時代の三奉行の一人である高力清長に2万石を与えて入部させている。これが岩槻藩の立藩である。清長の嫡男・高力正長は父親に先立って死去し、清長は慶長3年(1608年)に死去した。その後を嫡孫の高力忠房が継いだが、忠房は元和5年(1619年)9月に遠州浜松藩へ移され、ここに岩槻藩は廃藩となり幕府直轄領となった。翌年10月20日、下野国内から老中の青山忠俊が4万5000石で入ったが、元和9年(1623年)10月19日、忠俊は3代将軍・徳川家光の勘気を蒙って上総国大多喜藩へ2万石に減知の上で転封となった。その後を相模国小田原藩から阿部正次が5万5000石で入る。正次は寛永3年(1626年)4月6日、大坂定番に転出して知行を8万6000石に加増される。正次が大坂に出た後、岩槻の統治は嫡男の阿部政澄が3万石で担当した。しかし政澄が寛永5年(1628年)8月に早世したため、正次の次男で三浦氏を継いでいた阿部重次が復姓し、寛永15年(1638年)11月7日、岩槻に5万9000石で入った(重次は同年に老中になっている)。正保4年(1647年)11月14日に父の正次が大坂で死去すると、重次は正式に家督を相続し、父の遺領に加えさらに1万石を加増されて都合9万9000石の藩主となった。慶安4年(1651年)に徳川家光が薨じると、4月20日重次は殉死、後を子の阿部定高が継いだ。しかし定高は万治2年(1659年)1月23日に25歳で早世。定高には一子阿部正邦がいたが、まだ幼少だったため代つなぎとして三浦氏を継いでいた定高の弟・阿部正春が復姓して家督を継いだ。正春は父・重次の遺領の内1万6000石を相続していたので、これに兄の遺領を併せて11万5000石を知行することとなった。しかし藩内では正春の後継に不満を持つ者も少なくなく、寛文3年(1663年)12月に汀騒動と呼ばれる家臣殺害事件が起こった。このようなこともあって寛文11年(1671年)12月19日、正春は兄の遺領9万9000石と家督を正邦に譲って自身は上総国大多喜藩へ移った。天和元年(1681年)、正邦は丹後国宮津藩へ移封された。替わって同年2月、下野国烏山藩から板倉重種が6万石で入り、間もなく老中に就任したが、わずか3か月後には失脚して翌年には信濃国坂木藩へ移封された。替わって常陸国下館藩から老中の戸田忠昌が5万1000石で入る。忠昌は貞享元年(1684年)に領内の笹山村に幅七尺の山城堀を建造したのち、貞享3年(1686年)1月に1万石加増の上で下総国佐倉藩へ移封となった。替わって丹波亀山藩から松平忠周が4万8000石で入る。忠周は元禄10年(1697年)に但馬国出石藩へ移封となったが、その理由には生類憐れみの令との関係が取りざたされた。すなわち、この前年に領内で狼が子供を噛み殺すという事件が発生、忠周は事前に幕閣から許可を得てこの狼を撃ち殺したが、それでもこれで5代将軍・徳川綱吉の心証を損ない、これが辺鄙な出石への転封につながったというものだが、真偽のほどは詳かではない。替わって三河吉田藩から老中の小笠原長重が5万石で入る。長重は安永2年(1705年)に埼玉郡内で1万石を加増され、翌年には検地を実施して藩政基盤を固めようとしたが、病を得て安永7年(1710年)5月18日に隠居、後を次男の小笠原長煕が継いだ。翌年小笠原氏は遠州掛川藩へ移され、代わって信濃飯山藩から若年寄の永井直敬が3万3000石で入る。しかし直敬は同年6月3日に死去し、後を子の永井尚平が継いだがその尚平も正徳4年(1714年)8月29日に18歳で夭折。嗣子が無かったため、尚平の弟・永井直陳が家督を継いだ。直陳は宝暦6年(1756年)に、美濃国加納藩へ移された。このように、藩主家がめまぐるしく変わって藩の支配が定着しなかったが、その後に旗本の子息から若年寄に出世した大岡忠光が藩主として入る。忠光は9代将軍・徳川家重の御側御用人として幕政に影響力を持ち、宝暦元年(1751年)4月には代官支配で旧植村氏領の上総国勝浦藩を与えられていたが、宝暦6年(1756年)には2万石に加増され本拠を岩槻城に移したのである。これに伴い勝浦領は房総分領として岩槻藩の飛地となり、勝浦陣屋をはじめとする役所や番所を置くとともに、郡奉行が常駐して代官支配を行い、重要検案は江戸藩邸の指示を仰いでいた。夷隅郡南方には奥山御林があり、山林資源を産出した。岩槻藩は大岡氏の時代にやっと藩政が安定したものの、3代藩主・大岡忠要の時代に起きた天明の大飢饉で藩内は甚大な被害を受け、その後も天災が相次いで藩政は多難を極め、財政窮乏化が進んだ。このため忠要は有能な人材登用、厳しい倹約を柱とした藩政改革を実施する。5代藩主・大岡忠正の時代には藩校・「勤学所」と武芸稽古所が設置された。6代藩主・大岡忠固は奏者番・若年寄に栄進したが、この頃に起きた米価昂騰から領内で大規模な百姓一揆が起こった。アヘン戦争で清が敗れたとの報が幕閣を震撼させると、その余波で海防強化を命じられた岩槻藩は大砲鋳造などで財政が逼迫した。弘化2年(1845年)4月1日には前年炎上した江戸城本丸の普請奉行を務めた功により3000石が加増されたが、それも文字どおりの焼け石に水だった。忠固は嘉永5年(1852年)7月4日に死去、後を子の大岡忠恕が継いだ。忠恕の時代には幕末の動乱に天災が重なり、さらには岩槻城の本丸焼失などの不幸が相次いで、財政は破綻寸前となった。このような中で忠恕は慶応2年(1866年)3月29日に隠居して家督を長男の大岡忠貫に譲った。慶応3年12月(1868年1月)の江戸薩摩藩邸の焼討に庄内藩、上山藩、鯖江藩と共に加わる。しかし翌慶応4年に始まった戊辰戦争では一転して新政府に帰順し、幕府軍追討に功を挙げた。翌年の版籍奉還で忠貫は知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で岩槻藩は廃藩となる。大岡氏はその後、子爵に叙せられた。2万石 譜代5万5000石 譜代5万5000石→4万6000石→5万9000石→9万9000石→11万5000石→9万9000石 譜代6万石 譜代5万1000石 譜代4万8000石 譜代5万石 譜代3万3000石 譜代2万石→2万3000石 譜代明治維新後に埼玉郡1村(旧幕府領)が加わった。

出典:wikipedia

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