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法勝寺

法勝寺(ほっしょうじ)は、平安時代から室町時代まで平安京の東郊、白河(現在の岡崎公園、京都市動物園周辺)にあった、六勝寺のひとつである。白河天皇が1076年(承保3年)に建立した。皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後は衰微廃絶した。法勝寺の地は藤原氏の別荘地(白河別業)だったが、藤原師実が白河天皇に献上した。天皇はこの地に寺院を造ることを決め、1075年(承保2年)に造営を始め、以後長期にわたって多数の建物を造った。1077年(承暦元年)に毘廬舎那仏を本尊とする金堂の落慶供養が執り行われた。1083年(永保3年)に高さ約80メートルとされる八角九重塔と愛染堂が完成した。高い九重の塔は京に東から出入りする人から良く見えたという。天皇は「神威を助くるものは仏法なり。皇図を守るものもまた仏法なり」との考えを披瀝し、仏教を保護して統治する伝説上の金輪聖王(転輪聖王)にならって法勝寺を建立した。代々の天皇の尊崇を受けた法勝寺を、後に慈円は「国王の氏寺」と呼んだ。「国王の氏寺」とは単なる「家」としての天皇家の氏寺という意味だけでなく、太政官機構の頂点に位置する"日本国の王"の寺院でもあった。白河には他にも次々と寺院が作られ、総称して六勝寺と呼ばれた。法勝寺は六勝寺のうち最初にして最大のものであった。1208年(承元2年)に塔が落雷で焼失したが、このときは栄西が大勧進になって再建した。1326年(嘉暦元年)、後醍醐天皇の命を受けた円観(恵鎮)が再び勧進職となり同寺の再興に務め、その功績によってそのまま住持となる。だが、南北朝時代の1342年4月25日(暦応5年/興国3年3月20日)に火災にあって寺の南半分が失われる。北朝は再度円観を勧進職とするが、7年後の1349年11月25日(貞和5年10月15日)に再度火災にあって残りの北半分も失われたため、翌年に円観は勧進職を辞するが引き続き住持の立場で再建に尽力した。だが、「国王の氏寺」と呼ばれた姿は全く失われて、以後恵鎮門流・あるいは黒谷流などと呼ばれた天台宗の一分派の拠点である小寺院に転落する。とはいえ、円観と法勝寺を継承した門人の惟賢の元で延暦寺と一線を画して独自の戒牒を発行するなどの活動を見せている。しかし、円観・惟賢死後には再び衰退を見せ始め、中原康富の『康富記』応永25年8月18日(1418年9月18日)条にはその荒廃の様子が描かれている。それに追い討ちをかけたのが、相次ぐ戦乱であった。応仁の乱最中の1468年8月21日(応仁2年8月4日)の西軍による岡崎攻撃によって青蓮院などとともに焼失、更にその再建がままならないままの1531年2月8日(享禄4年1月21日)には今度は管領の座を巡る細川高国と細川晴元の戦いに巻き込まれて再度焼失した。山科言継の『言継卿記』によれば、1535年(天文4年)の豊楽門院逝去の際には法勝寺において供養の読経が行われているが、その後の活動は殆ど知られず、1562年(永禄5年)を最後に法勝寺名義の戒牒が途絶え、1571年(元亀2年)に法勝寺領押領を禁じる綸旨が出されたのを最後に記録から姿を消す。そして天正18年(1590年)に勅命によって同じ円観門流に属していた近江国坂本西教寺に併合された。そのため、この間の19年間に事実上の廃寺になっていたと考えられている。1919年(大正8年)、法勝寺跡の一部の敷地に、庭師・植治こと7代目小川治兵衛の作庭による池泉廻遊式庭園と、建築家・武田五一の設計による洋館と和館が作られた。2014年現在、日本私立学校振興・共済事業団が運営する旅館、京都白河院として「白河」の名前を残している。庭園は1993年(平成5年)に京都市指定名勝に選ばれた。

出典:wikipedia

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