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CIMA (プロレスラー)

CIMA(シーマ、1977年11月15日 - )は、日本の男性プロレスラー。DRAGON GATE所属。本名は大島 伸彦(おおしま のぶひこ)。大阪府堺市出身。血液型O型。闘龍門の旗揚げメンバーであり、一期生でもあるDRAGON GATEの中心選手。「心臓バクバクするプロレス」をテーマに掲げている。中学生のころ、兄と見に行ったウルティモ・ドラゴンのプロレスを見て感動し、プロレスラーを目指す。高校生の頃は部活にも入らず、トレーニングとアルバイトの日々を送り、時にはアルバイトのために学校を休むことさえあった。貯まりに貯まったアルバイト代も、単身メキシコへ渡りドス・カラスから指導を受けたことによって、ほぼゼロになってしまう。電話で母の声を聞いてホームシックにかかり帰国するが、その後もプロレスのためのアルバイトとトレーニングを3年間続けた(この時非公認ではあるが、プロのリングでの試合も経験)。メキシコ修行と前後してアマチュアプロレス団体最大手のJWA関西の門を叩きアマチュアプロレスデビュー。覆面レスラー「ミッキー隼野Jr.」として当時から非凡な才能を発揮していた。ミッキー隼野はJWA関西にて一時代を築いたアマチュアプロレス界屈指の名選手で、Jrとして名を継いだことからも期待の逸材であったことが窺える。なお、現所属団体であるDRAGON GATEの意向により、吉野正人同様にアマチュアプロレスJWA関西時代のキャリアについて公式に公表はされていない。その後、ウルティモ・ドラゴンが立ち上げるというプロレススクール『闘龍門』の記事を見て一念発起。その一期生に応募。一期生の枠4人のうち、すでに旗揚げ以前からウルティモ・ドラゴンと面識のあった黒木克昌(マグナムTOKYO)、藤井達樹(ドン・フジイ)、諏訪高広(SUWA)の3名が決定しており、最後の1人を決める際に、ウルティモ・ドラゴンが知人である三遊亭楽太郎の妻に依頼して、選ばれたのがCIMAである。1997年5月11日、メキシコのアレナ・ナウカルパンにおける対黒木克昌戦で、大島伸彦の名でデビュー。その後、シーマ・ノブナガに改名。ユニットのC-MAXを一期生のSUWA、フジイとともに結成(その後TARUが加入し、4人体制に)、最年少ながらリーダーとなった。日本上陸後、しばらくしてCIMAへ改名する。2000年に開催された第3回スーパーJカップでは、決勝で獣神サンダー・ライガーに敗れて準優勝となったが、一躍日本のジュニア界にその名を知らしめた。その後、M2Kやイタリアン・コネクションと抗争を繰り返す。2004年、闘龍門から闘龍門ジャパンが独立しDRAGON GATEとなると、同団体でもエースとなった。闘龍門ジャパン時代に保有していたUDG王座は封印されることとなったが、代わりに新設されたオープン・ザ・ドリームゲート王座の初代王者に認定された。また、C-MAX解散後は後継軍団といえるブラッドジェネレーションを結成。ヒール集団として暴れまくるも、Gammaが加入してから徐々に確執が表面化し、ユニットは分裂。ROHのメンバーを加えて国際派BGを結成、その後BGを解消して、ドラゴン・キッド、横須賀享、斎藤了らとタイフーンを結成した。しかし2006年11月23日にGammaとの敗者髪切マッチに敗れ、丸坊主にされた。2007年7月、神戸ワールド記念ホールで獣神サンダー・ライガーを破りオープン・ザ・ドリームゲート王座を奪取。2007年10月8日、ツインメッセ静岡でストーカー市川を破り、オープン・ザ・お笑いゲート王座を奪取して2冠王となった。しかし9月22日・大田区大会のオープン・ザ・ドリームゲート戦(対土井成樹)で首を負傷し、救急車で運ばれる。しばらくはそれを感じさせないファイトを繰り広げていたが2008年4月頃から首が悪化し、5月5日の名古屋大会を最後に欠場。6月6日にリハビリマッチを行うも、半年以上欠場を余儀なくされた。6月29日の大阪府立体育会館第2競技場大会にて、鷹木信悟とB×Bハルクがオープン・ザ・ドリームゲート王座次期挑戦者決定戦にて60分時間切れドロー。これによりオープン・ザ・ドリームゲート王座返上を決意した。2008年12月28日の福岡国際センター大会で復帰。オープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座戦で獣神サンダー・ライガーと組んで王者組のYAMATO・サイバー・コング組に挑戦するもYAMATOのスリーパー・ホールドにより失神、TKO負けを喫した(同日所属ユニットTyphoonも解散)。2009年1月には音信不通となり、ヨーロッパで復帰に向けて極秘にトレーニングを積んでいたらしい。その間、ブログや週刊プロレスのコラム等も休止状態となっていた。また東京スポーツの一面では、失踪してるという記事が取り上げられていたが、現地2月10日にアメリカのWWEのトライアウトを受験し、シバのリングネームでSmackDown!のダーク・マッチで、ジェイミー・ノーブルと対戦したが敗れた。その後、当初から復帰予定であった3月1日DRAGON GATEの大阪府立体育会館第2競技場大会で、Gammaに呼び込まれリングに登場。新ユニットWARRIORS-5の結成と3月5日後楽園ホール大会からの完全復活を宣言。3月22日、両国国技館大会で吉野を破り、自身初のオープン・ザ・ブレイブゲート王座を獲得した。2010年6月18日、大阪プロレスとの全面対抗戦でビリーケン・キッドを破り、大阪プロレス王座を奪取した。この際獲ったベルトをゴミ袋などに入れるなどの暴挙にでる。シフトチェンジと称しWARRIORSと土井軍と合体。過去に存在したブラッドジェネレーションの名を使いBlood Warriorsを結成する。また「ノマドレスラー」と称し、2011年より2012年3月まで年間ではなく月単位契約となっていた(土井、戸澤も同様の形)。2011年12月25日福岡国際センターで望月成晃からオープン・ザ・ドリームゲート王座を奪取し第14代王者となった。しかし、2012年1月19日の敗者ユニット脱落マッチでクーデターを起こされ、Blood Warriorsを追放された。翌日から救出に入ったフジイと夫婦タッグを復活、その後Gamma、市川、望月と第二次ベテラン軍(後の帰ってきたベテラン軍)を結成した。その後もドリームゲート王座の防衛を続け、ジミー・ススム、PAC、サイバー・コング、堀口元気H.A.Gee.Mee!!、戸澤陽、YAMATO、土井、吉野、B×Bハルク・鷹木信悟(3way)、斎藤“ジミー”了、ジミー・神田、吉野、K-ness.、戸澤、リコシェを相手に計15度の防衛に成功した。2013年7月21日神戸ワールド記念ホールで鷹木信悟に敗れ、1年8ヶ月保持していた王座から陥落したが、同王座の最多連続防衛記録(15回)、最長保持記録(574日)を樹立した2014年11月6日後楽園ホールの解散コントラ送還マッチでミレニアルズに敗れ、オレたちベテラン軍は解散となった。さらに同年4年12月3日の後楽園ホール大会でEita&T-hawk組にツインゲート王座を奪取され、土井ダーツによりMAD BLANKEY入りが決定した。2015年5月5日金網マッチ後にドン・フジイ、Gammaと共にMAD BLANKYを追放される。6月14日、共にMAD BLANKEYを追放されたドン・フジイ、Gammaとトライアングルゲートのベルトを奪取した。それから4度の防衛に成功したが、11月1日、4度目の防衛戦を終えた後、ベルトを返上。同じ日、11月1日、OVER GENERATION結成。12月27日、鷹木信悟の持つオープン・ザ・ドリームゲート王座に挑戦。Gammaの汚水攻撃、ドン・フジイのノド輪落とし、そして、望月成晃の三角蹴りを決め、自身のフィニッシュ・ホールドであるメテオラを何度も決めて、鷹木を追い詰めたが最後にメテオラを決めようとした所に鷹木が起き上がり、鷹木の雪崩式ブレーンバスターを受け、その後は、反撃が出きず鷹木のラストファルコンリーで敗北。2011年末にオープン・ザ・ドリームゲート王座を奪取した後、2012年内の王者・CIMAへの次期挑戦者はバトルロイヤル形式の「CIMAロワイヤル」で決められていた。CIMAが現在、過去に用いていたリングネームシーマ・SHIIMA・CIMAの名の由来は当時修行していたメキシコの人々がオオシマという発音がうまくできず、オッシーマとなってしまうことと、当時兄が乗っていた車、日産・シーマがかっこ良かったからという二つの理由からである。他の選手と同じ技を使いたくないという拘りを持ち、数多くの高度なオリジナル技を持っている。また、抗争相手の技にヒントを得て技を作ることもある。その際にも決してそのまま真似せず、オリジナリティを加えて自分の技にしている。

出典:wikipedia

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