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公孫竜

公孫竜は、古代中国の哲学者・論理学者・政治家。趙の人であり、生没年ははっきりしないが、おおよそ紀元前320年から紀元前250年の間に活躍した。名家(弁者、察者)の代表的人物で、「堅白論」、「白馬非馬説」が有名である。紀元前260年、長平の戦いで趙は秦に決定的な敗北を喫し、首都・邯鄲を包囲されるという危機に陥った。しかし、宰相の平原君が、楚の春申君や魏の信陵君に救援を求めて同意を得ることに成功し、ついに紀元前258年、合従軍によって秦は撤退した。『史記』「平原君・虞卿列伝」によれば、その後、趙の学者・政治家の虞卿は、平原君が信陵君を趙に招いて邯鄲を救ったことを理由として、平原君の領地を加増するよう王に進言しましょうと申し出た。その夜中、公孫竜は平原君の屋敷に車で駆けつけ、虞卿の意見に対し異議を唱えた。「わが君がこれまで、宰相になることができましたのも、領地を得ることができましたのも、趙でもっとも才能や功績がある人物だからというわけではありません。ただ、王の親戚だからというまでです。そのうえで(下々の者と同様に)才能や功績を理由に領地を受け取っては、かえって不利になりましょう。しかも、仮に成功したとしても、虞卿めはこれを恩に着せる魂胆でしょう」 平原君はこの意見を取り入れ、虞卿の申し出を断った。その後も公孫竜は平原君に厚遇されるが、陰陽家の鄒衍が趙に来て「至道」の説を唱えてからは、退けられるようになった。初めて名前が登場するのが、燕の昭王に対して非戦を説いたときで、さらに趙の平原君の客となり、恵文王に対しては兼愛を説いたという。この二つは一般的には墨家の思想的特長とされるものである。しかし、公孫竜が今日まで名を残しているのは、何といっても論理学の成果によるものである。代表的なものが「白馬非馬説」で、「白とは色の概念であり、馬とは動物の概念である。であるから、この二つが結びついた白馬という概念は馬という概念とは異なる」という論である。もう一つ有名なもの(時期的には白馬非馬説より前)が「白くて固い石は手で触っているときには白いということは解らず、目で見ているときには硬いということが解らない。すなわち、白いという概念と硬いという概念は両立しない」(堅白同異)という論である。この二つの論は明らかに詭弁である。実際に陰陽家の鄒衍に「詭弁だ」と非難され、平原君の寵愛を失い、最後は憂死したという。その後の時代でも公孫竜には詭弁家の印象が強く、あまり良い評価は得られていなかった。しかし、公孫竜を再評価する動きも次第に現れ始めている。公孫竜が生きていたのは諸子百家の議論が非常に活発な時代であり、それとともに論理学の重要性が認識され始めていた。そのなかで概念と概念とを明確に区別することの重要性を説明するために、白馬非馬説のような極端な話題を持ち出したと考えられる。ちなみに「白馬非馬説」は『韓非子』にも描かれている。兒説という人物が白馬に乗って関所を通る際、「白馬非馬説」を用いて馬の通行税を免れようとするものの、役人が頑として聞かず、結局は税を支払うという話である。著書として伝わるものに『公孫竜子』があり、『漢書』「芸文志」には全14巻と記述されているが、現存するのは6巻のみである。しかし、この『公孫竜子』が公孫竜本人の手によるものとは考えにくく、当時書かれたものかどうかさえも怪しまれる。

出典:wikipedia

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