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昭和のいる・こいる

昭和のいる・こいる(しょうわ -)は漫才協会、落語協会所属の漫才コンビである。略称は「のいこい」。10代目鈴々舎馬風ファミリーである。昭和 のいる(1936年7月23日 - )は、突っ込み担当。石川県石川郡吉野谷村(現:白山市)出身。本名は、岡田 弘(おかだ ひろし)。立ち位置は右側。実家は大工の棟梁。国士舘大学国文科卒業(大学入学前は地元で代用教員をしていた)。眼鏡を掛けている。昭和 こいる(1944年1月26日 - )は、ボケ担当。群馬県伊勢崎市出身。本名は、庄田 太一(しょうだ たいち)。立ち位置は左側。実家は裕福な化粧品屋。幼少期の頃から歌が好きで小学生時代にNHKの「子供のど自慢」に出演歴あり。日本大学芸術学部音楽科中退(同期に井上大輔)。頭髪が少なくなったが、昔からリーゼント頭。漫才協会理事。以前は地元の伊勢崎市に「もしもし」という居酒屋を経営していたが面倒になって閉店。東京都北区王子3丁目で「スナックもしもし」を夫婦で経営していた。学生時代のアルバイト先であった神奈川県川崎市の歌声喫茶「エルサルバドル」で出会う。二人はその店で司会進行を務め、やりとりが面白いということで漫才師の道を勧められる。程なくして獅子てんや・瀬戸わんやを紹介され師事、1966年4月に「花園のいる・こいる」の名前でデビューを果たす。屋号の花園はアルバイトをしていた花園万頭に、のいる・こいるは「苦労を乗り越える」に由来。当時は演芸ブームの真っ只中で、Wけんじの全盛期で東京漫才も上方に負けない勢いがあった頃である(同期はコント55号、横山やすし・西川きよし等)。当初の芸名が「女性漫才によく間違われる」ということで、一時は師匠の名前をもらい「獅子のびる・瀬戸こえる」に改名。だが、のいるが急性肝炎となり「この名前は縁起が悪い」ということで、師匠たちと交友が厚かった三橋美智也の提案で現在の芸名に改名。1975年以降は賞レースにも参加し、ダークホースと注目される(当時は「三味線漫才」のさがみ三太・良太と「毒舌漫才」のツービートがライバルと見なされていた)。1984年真打昇進。昇進後、一部では評価はされつつもこれと言った人気も出ないままベテラン芸人となっていたが、2000年頃に突然幾つかのバラエティー番組で取り上げられ、ブレイクする。2013年後半より、のいるの病気により、こいるがピンで活動中(漫才協会においては、しばしば同じ境遇のあした順子と組んで活動する)。※こいるが「はいはいはいはい」と言いながら、頭を下げ、両手を顔の横に持っていき、上下に小刻みに振る、というお決まりのポーズを行う。※こいるがひとしきりボケまくった後で、のいるが機転の利いたことを言い、逆にこいるが呆気に取られてネタが終了する。

出典:wikipedia

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