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苫小牧港

苫小牧港(とまこまいこう)は、北海道苫小牧市から勇払郡厚真町にかけての港湾。港湾法上の「国際拠点港湾」、港則法上の「特定港」であり、全国に8箇所ある「中核国際港湾」の1つとしての指定も受けている。港湾管理者は北海道と苫小牧市が共同で設立した特別地方公共団体(一部事務組合)の苫小牧港管理組合である。苫小牧港は1963年に開港した世界初の内陸掘込港湾である西港区と、1980年に開港した苫小牧東部開発計画による東港区からなる港。太平洋岸の港としては札幌市を中心とした札幌都市圏から最も近い港湾であり、新千歳空港にも近接している。港湾取扱貨物量は全国4位(平成24年)、内航取扱貨物量は日本一の取扱量となっている。北海道内の港湾取扱貨物量のおよそ5割を占めており(平成25年)、製造品出荷額は北海道内第1位となっている。「外航定航船就航状況一覧」参照「内航定航船就航状況一覧」参照苫小牧周辺の漁業は「樽前浜」と呼ばれ、江戸時代末から明治時代当初、イワシの地引き網漁と金肥の魚粕(〆粕)づくりで賑わったが、明治時代末になると漁が衰え、沖合い漁を望む声が高まった。そこで、漁業権を持っていた今井寅之助は、1918年(大正7年)私財を投げ打って勇払川河口に漁港築港を試み、これが苫小牧の港造りの先駆けとなった。その後、苫小牧町や漁家の永井勇三郎が漁港造りを試みたが、いずれも打ち寄せる波と潮の流れで水路が砂に埋もれてしまった。1923年(大正12年)に苫小牧町は初めて政府・国会へ勇払原野の開発と苫小牧港開発を陳情。1924年(大正13年)に当時の留萌築港事務所長であった林千秋が北海道庁が発行していた『港湾持論』の中で「勇払築港論」を発表した。その後、1935年(昭和10年)に試験突堤を造り、1939年(昭和14年)には北海道庁も本格調査に乗り出すなど築港への動きが進んでいった。戦後、1949年(昭和24年)に衆議院議員に当選した篠田弘作が国会で勇払原野の開拓と工業港築設の必要性を訴え、岩倉巻次の支援もあり同年1935年に着工したまま波に洗われていた試験突堤が港湾調査規則上の「港湾」として認められた。1950年(昭和25年)には防波堤を築く試験工事が行われ、国の昭和26年度予算でついに苫小牧港築港のための予算が計上されるに至った。「苫小牧港の歴史」参照

出典:wikipedia

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