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遠山友政

遠山 友政(とおやま ともまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。美濃国苗木城の城主、苗木藩の初代藩主。遠山友忠の三男(嫡男)。母は織田信長の姪で、通称は初めは三郎兵衛と言ったが、後に父と同じ久兵衛に改めた。弘治2年(1556年)、飯羽間城で生まれる。元亀3年(1573年)、父に従って明照城に移り、祖父友勝の死で、同じく苗木城に移った。天正2年(1574年)、武田勝頼が東美濃に侵攻した際に、長兄友信は武田方に内応し、次兄友重は明照城の落城で討ち死にした。このため友政が家督を継ぐことになった。天正11年(1583年)、東美濃の覇権を巡って森長可と争い、その降誘を蹴って戦って敗れた。友政は父や家臣をつれて、浜松の徳川家康を頼って落ち延び、菅沼定利に属した。天正18年(1590年)の小田原征伐後、徳川氏が関東転封となると、榊原康政(あるいは井伊直政)に属して、その領地である上野国館林に移住した。慶長5年(1600年)、上杉景勝が命令に従わないとして家康が会津征伐を始めると、石田三成が決起して関ヶ原の役が始まった。この時、東美濃では岩村城主の田丸直昌、苗木城主の河尻秀長、犬地城主の遠藤胤直、また犬山城主で木曽代官であった石川貞清など尽く西軍に属した。徳川秀忠を大将とする東軍が中山道に進んで来ると知ると、彼らはこれを封鎖しようとしたので、家康は木曾義利の家臣山村良勝・千村良重を木曽へ、友政を苗木へ、(明知遠山氏の)利景を明知へ、小里光親を小里へ派遣するなどして、故郷に戻って兵を集めて城を攻略するように命じた。河尻秀長は伏見城の戦い等に参加して苗木城には不在で、友政は勝手知ったる旧領に戻ると中津川・駒場に放火。領民を諭して味方につけて城に攻めかけて、混乱のうちに城を奪還して入城した。各々も各城を落として田丸勢を岩村城に包囲したところで、関ヶ原は勝敗が決し、田丸勢も投降した。結局は秀忠軍は遅参となったが、東美濃衆のこれらの働きは家康からも賞賛され、友政は河尻が厳封された1万石をそのまま与えられて、苗木城と恵那郡・加茂郡、1万500石の知行を回復した。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では伊勢国桑名城を守備し、翌年の大坂夏の陣では松平忠明の隊に属して、首級2つの武功を挙げた。元和5年(1620年)、苗木城で死去した。享年65。法名は雲林寺殿心月宗伝居士。家督は嫡男の秀友が継いだ。

出典:wikipedia

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