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遠井吾郎

遠井 吾郎(とおい ごろう、1939年12月4日 - 2005年6月27日)は、山口県熊毛郡平生町出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者。恰幅のいい体格や、温厚な人柄から「仏のゴローちゃん」として親しまれた。柳井高校時代は主に一塁手を務めていたが、時折投手も務めていた。3年時のに春の選抜へ出場し、2年生エースの友歳克彦(法大-日本石油)を擁して準々決勝に進むが、早稲田実業に敗れる。この時、遠井は投手として登板した王貞治に3三振を喫し、リリーフとして登板した時には王からタイムリーヒットを浴びる。同年夏は西中国大会準決勝で広陵高に敗退し、甲子園には届かなかった。在学中に八幡製鐵への就職が内定していたが、河西俊雄から誘いを受けてに大阪タイガースへ入団。当時の新聞記事では超高校級の打力と評価され、「ポスト藤村」として期待された。1年目に一軍戦で9試合の出場を果たし、2年目には天覧試合で代打として出場する。怪我の多い藤本勝巳と併用される形で出場し、からは4番打者を務めるなど長く中心打者としてチームを支えた。同年の日本シリーズでも4番打者を任されるが、期待通りの活躍はできなかった。には長嶋茂雄と首位打者争いを繰り広げるが、7月末に肉離れを起こしてタイトル争いから脱落し、シーズン終了時にはリーグ2位の打率.326を記録した。レギュラーを外れた晩年は代打としても活躍し、代打通算打点96は桧山進次郎、八木裕に次ぐ球団3位、プロ野球歴代でも6位の好記録である。からは一軍打撃コーチ補佐を兼任し、に球団史上3,000本目の記念ホームランを代打で放ち、同年に引退。阪神一筋で実働は20年に及び、これは2012年に桧山が21年に更新するまで長らく球団最長記録であった。引退後の翌は阪神の一軍打撃コーチに就任し、新監督の後藤次男と師弟コンビを組んだが、球団初の最下位に転落。同年オフに退団。その後は曽根崎新地と柳井市でスナック「ゴロー」を経営。退団後の一時期、日本短波放送「たんぱストレートナイター」解説者を務めたほか、しばしば草野球にも参加していた。6月27日、肺癌のため東京都内の病院で死去。享年65歳。遠井はバットコントロールの技術を高く評価されていた。バットの動きは柔らかく、ファウルライン際に沿って飛ぶ打球の美しさが印象に残る選手だった。左投げの投手との相性は悪く、特にサイドスローの投手を不得意にしていた。反面、守備と走力の評価は低い。一塁側に平凡なフライが上がっただけで観客席からざわめきが起こり、遠井が捕球に成功した時には拍手が起こるほどだった。60年代前半の阪神内野陣はセカンド鎌田実、ショート吉田義男、サード三宅秀史という鉄壁の布陣であったが、ファースト遠井の守備範囲は広くなかった。ベースカバーが遅い遠井をカバーするため、吉田は捕球後に一塁に直接送球せずにいったん二塁の鎌田に送球し、鎌田が一塁に入った遠井に送球して打者をアウトにしたエピソードが残る。遠井はベースカバーのスピードを上げるために一塁近くで守りに就くようになり、遠井の守備範囲はより狭くなったが、ファーストの守備範囲の打球はセカンドの鎌田がフォローしていた。「カメの足」と酷評されたように鈍足で知られた選手であったが、1970年のオールスター第3戦ではランニングホームランで全セの勝利に貢献してMVPを受賞している。両ひじを締めて体を揺すりながらの走塁をし、遠井が無理な進塁を試みてアウトになっても観客からは温かく迎えられた。4月29日の対大洋ホエールズ戦(阪神甲子園球場)で、カウント2ストライク2ボールからのボール球で一塁に歩き出したところ、審判からフォアボールを宣告されたが、試合は続行された。誰も気が付かなかったためにフォアボールが認められ、日本プロ野球史上2人目の「2ストライク3ボール」で四球を宣告された選手となった。プロ野球選手らしからぬ飄々とした風貌が印象的な人物であり、その穏やかな人柄もあって「仏のゴローちゃん」という愛称がつけられた。しかし、本人は「ホトケではプロ野球選手は務まらない」と、その愛称を快くは思っていなかった。当時随一の酒豪選手としても知られ、朝まで飲み続けた後、飲み屋から直接球場に通ったこともあった。後年入団した田淵幸一、江夏豊と合わせて、「阪神相撲部屋」「相撲部屋トリオ」とも呼ばれた。その江夏に言わせると、前日の飲み過ぎのためか翌日になっても顔が赤いまま試合に出場していた日があった。そこで、目を覚ましてもらいたい気持ちを込めて、一塁への牽制にカーブを投げた事があった。慌てて捕球した遠井だったが、後輩のトンデモ牽制に怒る事無く、「ゆたか~、こんなボール投げないでくれよぉ~」と返答したという。もう一人の田淵と遠井は親交があり、互いのバッティング技術を高く評価していた。川藤幸三ら当時の若手選手から慕われており、川藤は「野球も人生もワシの師匠や」と述べた。

出典:wikipedia

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