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開陽丸

開陽丸(かいようまる)は、幕末期に江戸幕府が所有していたオランダ製軍艦である。オランダでの愛称は"Voorlichter"(夜明け前)。木造シップ型帆船。排水量2,590t、長さ約72.8m、幅約13m、高さ約45m、マスト3本、補助蒸気機関410馬力、備砲は当時最新鋭のクルップ砲を含む26門。開陽丸は江戸大老井伊直弼の意思を継いだ安藤信正(信睦)によってオランダより導入された江戸幕府の軍艦である。オランダで造艦され、1867年(慶応3年)3月25日に横浜へ帰港した。最新鋭の主力艦として外国勢力に対する抑止力となることが期待されたが、徳川軍艦としてわずか1年数ヶ月、1868年(明治元年)11月15日、蝦夷・江差沖において暴風雨に遭い、座礁・沈没した。1975年(昭和50年)、江差町教育委員会によって世界初となる水中・産業考古学の対象として発掘・調査プロジェクトが発足した。大砲やシャフト等の遺構から古文書など3万点以上の遺留品の引揚げが行われている。1990年(平成2年)4月、北海道檜山郡江差町に史料館として開陽丸が復元された。黒船来航として知られる1853年(嘉永6年)6月に浦賀沖に現れたアメリカの軍艦は、日本に西欧諸国との文明の差を痛感させるには充分な威力を発揮した。この一件をきっかけとして、幕府は国の海防力の強化の必要性を悟り、海軍創設および強力な軍艦の保持を目指すこととなる。1855年(安政2年)、中古軍艦の買入れを始めると同時に、その軍艦を操船するための兵士の育成を開始するため、オランダへ協力を要請した。長崎出島に海軍伝習所を設ける運びとなり、当時のオランダ国王ウィレム3世は、蒸気軍艦スピング号を幕府へ贈呈し、ペルス・ライケン中佐らを海軍教官として長崎へ派遣した。この伝習所の第一期生としては勝麟太郎、矢田堀景蔵など150人。1856年(安政3年)には後に開陽丸に深く関わることになる榎本武揚ら2期生が入所した。しかし、幕府の開港政策に反対する攘夷派の動きや、天保の改革の失敗、貧困・飢饉に苦しむ庶民の一揆、さらには各国と通商条約を結び、海防力の強化を推し進めていた大老・井伊直弼が桜田門外の変で斃れるなど、国内の情勢も非常に不安定であった。国内外の対応に追われつつも、1862年(文久2年)までには諸外国から買い入れた中古の軍艦を取り揃え、なんとか海軍としての体を成すようになっていた。しかし、外国の不用艦のみでは外国の強力な艦隊にかなう筈も無く、国を守るための、より強力な主力艦が求められるようになった。江戸幕府は、外国船に劣らない新鋭艦の必要性を感じてアメリカ駐日公使であったタウンゼント・ハリスに打診する。しかし、ハリスは自国の南北戦争を理由として軍艦の新造を拒否した。このため、オランダへ軍艦の発注および、それに伴う留学生の派遣を依頼することとなった。1862年(文久2年)、久世広周は「オランダ海軍の持つ最新の設計・設備を施した、蒸気機関推進で大砲を20門以上装備した3000トン未満の軍艦一隻」という条件で注文書を出した。同時に、軍艦引き受けをかねて派遣する日本人留学生ら15名を選抜した。そして1863年(文久3年)3月にはロッテルダムの蒸気船会社にて設計が完成し、ドルトレヒトのヒップス・エン・ゾーネン造船所(Cornelis Gips & Zonen)に建造が指示された。オランダ側は当初、時流からみて鉄製艦を薦めたが、一刻も早く入手を望んだ幕府側は木造を選択する。こうして開陽丸は木造銅貼で造船されることとなり、1866年6月進水を目指し、作業が開始された。一方、選ばれた留学生達は、1862年(文久2年)9月11日長崎を出港、1863年(文久3年)4月16日にオランダのブローウエルスハーヘン港(Brouwershaven)に到着した。当地での留学生たちの世話は長崎海軍伝習所で教官を務めていたカッテンディーケ海軍大佐とメーデルフォールト軍医が見ることとなった。ドルトレヒトで作業が開始されて1年半ほど経過した1864年(元治元年)、艦体の竜骨が組みあがり、第一段階の作業が終了した。幕府より艦名付与の指示を受けた内田は、澤や榎本らと相談し、日本の国情を考慮し、榎本が提案した「夜明け前(蘭語:"Voorlichter")」を想起する開陽に決定され、10月20日、関係者らを集めた命名式が執り行われた。この名はオランダの庶民にも伝えられ、「日本軍艦フォールリヒター」として近隣住民の話題にものぼるようになった。開陽の工事は着々と進行し、1865年(慶応元年)9月14日、進水式が執り行われることとなった。3000トン級の船が造られることは海軍国家であったオランダでも珍しく、進水式には関係者の他、ドルトレヒトの市民が大勢集まり、地元紙にもその模様が詳細に掲載された。カッテンディーケ大佐によるロープカットが行われ、メルウェデの河口に無事着水し、成功裏に終わると、夜には盛大な晩餐会が開催された。その後、開陽はヘレフートスライス(Hellevoetsluis)の海軍工廠に曳航され、艤装工事が施され、次にビレムスドルプ()にて武装が行われる予定であった。当初幕府は開陽の搭載砲26門のうち、通常砲20門、クルップ施条砲6門にて依頼していたが、留学中にデンマーク戦争を観戦し、施条砲の威力を目の当たりにした榎本、澤、赤松らの尽力によりクルップ施条砲18門を導入するよう変更がなされた。武装が完了し、海軍当局による検査もパスした開陽は、オランダ海軍大尉ディノー(Jules Arthur Emile Dinaux)に引き渡され、15日間の航海試験を経て、1866年(慶応2年)10月、ようやく完成した。蒸気機関のみでの巡航速度18マイル、クルップ砲の海上試射距離3900メートルなどの高い試験結果を残し、ディノーは「オランダ海軍にも開陽に勝る軍艦は無い」と断言した。開陽は日本への引渡しのため、1866年(慶応2年)10月25日、フリシンゲンを出港した。この処女航海には、内田ら9人の留学生が同乗し、ディノーの指揮により、帰国の途についた。イギリス海峡から大西洋を抜けるまでの18日間、暴風雨に見舞われたが、開陽は平然と進み、出港52日目にリオデジャネイロに到着した。補給を済ませ、87日目にはインド洋に入り、1867年(慶応3年)2月20日、アンボイナへ到着した。再び補給を行い、3月6日、横浜を目指して出航、1867年(慶応3年)3月26日10時30分、無事入港した。入港後すぐ軍艦奉行勝海舟らに出迎えられ、榎本らは久々の再会を喜び合った。オランダと幕府の支払い交渉や手続きが行われている間、日本での乗組員の編成や訓練が行われた。勝は榎本は軍艦頭並、澤を軍艦役並に任命し、乗組員の採用と養成を指示した。残っていた手続きごとが全て完了した1867年(慶応3年)5月20日、開陽の引渡し式が行われ、オランダ公使ポルスブルックと海軍奉行織田対馬守が交換文書にサインし、正式に引き渡された。勝によって榎本は軍艦頭並に登用されると、榎本は先ず、オランダ海軍の例に倣い、階級によって服装を分けた海軍の軍服を制定し、各隊員へ支給した。大政奉還の時には、僚艦の回天丸、朝陽丸と共に江戸湾に在った。しかし、江戸で薩摩藩の討幕派が戦闘行為を誘発させるべく各所で扇動を行い、それに乗せられた幕臣は、12月25日に江戸の薩摩藩邸・佐土原藩邸を焼討するという事件を起こした。扇動した薩摩藩士は、薩摩藩船の翔鳳丸に乗って江戸脱出を図り、開陽丸は僚艦と共にこれを追跡砲撃したが、翔鳳丸は大坂に逃れた。これが、開陽丸の初の実戦であった。大坂湾に入った開陽丸は、富士山丸、蟠竜丸、翔鶴丸、順動丸と共に大坂の警備に就いた。12月28日、戦闘回避を望む徳川慶喜は、12月9日の小御所会議で決まった「徳川家の辞官・納地」の受諾を回答した。慶応4年(1868年)1月2日、開陽丸は、兵庫港を出港した薩摩藩の平運丸に対して空砲で停船を命じたが、平運丸が応じなかったため実弾で砲撃した。翌日薩摩側が抗議すると、榎本は一連の行動は万国公法に則ったものであるとしてこれを突っ撥ねた。このことが鳥羽・伏見の戦いの引き金ともなった。戊辰戦争が勃発すると、開陽丸は阿波沖で薩摩藩の春日丸、翔鳳丸を砲撃し、翔鳳丸を由岐浦に座礁させ圧倒的な勝利を得る。これが阿波沖海戦である。鳥羽・伏見の戦いに敗れたことを知った榎本は、将軍徳川慶喜へ謁見するため開陽丸を降船、その間に大坂城を脱出した慶喜が入れ違いに開陽丸に乗船して、副艦長澤太郎左衛門に命じて1月8日に大坂を出航、11日に江戸へ帰還してしまった。置き去りにされた榎本は、富士山丸に大坂城内の書類、重要什器、刀剣類、城内に有った金18万両を積み込み、フランスの軍事顧問団のブリュネ、カズヌーブらを乗せ、1月12日に大坂を出航。1月14日に江戸品川沖に入港した。その後榎本は、海軍副総裁に就任し、4月11日の江戸城無血開城に至って、開陽丸を新政府軍に譲渡する事を断固として拒否し続けた。そして同年8月19日、開陽丸を旗艦とした榎本艦隊(回天丸・蟠竜丸・千代田形丸)は、遊撃隊など陸軍兵を乗せた運送船4隻(咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸)を加えて品川沖を脱走。榎本は総司令官を務めたため、開陽丸艦長には澤太郎左衛門が任命された。途中暴風雨に遭い美賀保丸・咸臨丸を失うも、開陽丸は8月末に何とか仙台に到着。すぐさま修繕が行われ、奥羽越列藩同盟が崩壊して行き場を失っていた大鳥圭介や土方歳三などの旧幕府脱走兵を艦隊に収容、10月12日仙台折浜より蝦夷地へ渡航し、箱館戦争となる。10月20日に蝦夷地鷲ノ木沖に到着した開陽丸は、しばらく鷲ノ木沖に停泊。10月25日に旧幕府軍が箱館および五稜郭を占領すると、箱館港に入港して祝砲を撃った。旧幕府軍は松前城を奪取した後、江差へ進軍を開始。その援護のために開陽丸も11月11日に箱館を出港して江差沖へ向かった。11月14日に江差沖に到着、陸地に艦砲射撃を加えるも反撃がないので、斥候を出すと、松前兵はすでに撤退していた。榎本は最低限の乗組員を開陽丸に残して上陸し、江差を無血占領した。ところが翌15日夜、天候が急変する。開陽丸は、タバ風と呼ばれる土地特有の風浪に押されて座礁。江差沖の海底は岩盤が固く、錨が引っ掛かりにくいことも災いした。回天丸と神速丸が救助に向かったが、その神速丸も座礁・沈没する二次遭難に見舞われ、開陽丸は岩礁に挟まれていよいよ身動きが取れなくなる。留守を預かっていた機関長の中島三郎助は、艦内の大砲を一斉に陸に向けて撃ち、その反動で船を離礁させようと試みたがこれも失敗に終わり、乗組員は全員脱出して江差に上陸。数日後、榎本や土方が見守る中、開陽丸は完全に沈没し、海に姿を消した。主力戦艦たる開陽丸の喪失により新政府軍に対する海上戦力の優位が一挙に崩れ、その後の戦局に大きく影響を及ぼすことになる。歴史家の中には開陽丸の江差沖への出港を「不必要に開陽丸を投入し、その挙句に喪失せしめた事は榎本の愚策である」と酷評する見解もある。江差沖に沈没した開陽の引き揚げは箱館戦争直後から何度か行われていたが、本格的に行われたのは1873年(明治6年)で、大砲や弾丸、錨などが引き揚げられた。しかし、潜水具や専門の機材も持ち得ていなかった為、全てを引き揚げるには至らなかったが、座礁した神速の物も同時に集積されたため、「開陽丸は昔に引揚げが行われ、もう無い」という認識が一般化した。こうした認識に疑問を呈した江差町教育委員会教育長の石橋藤雄は、1974年(昭和49年)8月23日、文献から沈没位置を推定し、潜水調査を行い、開陽の遺留品を発見した。この発見は文化庁にも認められ、翌年より引揚げ作業が本格的に行われることとなった。大砲、弾丸、火薬缶、ロープ、帆布、サーベル、日本刀等3万2905点が引揚げ・脱塩処理されている。また、オランダに保管されていた設計図に従い開陽丸を復元するプロジェクトも開始され、復元軍艦内に引揚げ品を配置し、「開陽丸青少年センター」としてその歴史と共に開放された。開陽丸の船体および遺物は1975年(昭和50年)、日本初の海底遺跡として登録されている。

出典:wikipedia

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