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回天丸

回天丸(かいてんまる)は、幕末期の江戸幕府が所有していた軍艦の一つ。木造外輪式の蒸気船で、マスト3本のコルベットである。排水量710トン、400馬力。全長69m、全幅10.6m。大砲は左右に40斤ライフル砲を5門ずつ、前面に50斤ライフルカノン砲1門の合計11門。プロイセンで製造され、イギリスで改装。機関と汽罐、武装はイギリス製だった。ダンツィヒ(Danzig)号、イーグル(Eagle)号、回天丸と名前が変わった。宮古湾海戦における活躍で知られている。元は、安政2年(1855年)建造のプロシア(後のドイツ)の軍艦ダンツィヒ(Danzig)号である。プロシア海軍創設期において建造された木造外輪式蒸気コルベットだった。設計および蒸気機関の製造はイギリスに依頼されたが、プロシアのダンツィヒ造船所で最初に建造された軍艦である。それまでプロシアでは、商船しか造ったことがなかったので、優秀な商船職工を集め、国内産の最上のオーク材を使って、船体を造ったという。当時の木造軍艦の寿命はおよそ8年で、文久2年(1863年)ころには軍籍をはずれ、武器がはずされた。これには、ちょうど蒸気軍艦が、外輪式から内輪式(スクリュー)へと移行した時期だったことも関係すると考えられる。つまり外輪式は旧式になりつつあり、プロシア海軍の主力艦としてはふさわしくない、とされたようである。公売された結果、イギリス商人が手に入れ、ロンドンにおいて修理。新たに武装が施され、大砲は左右にイギリス製の40斤ライフル砲を5門ずつ、銅製のホイッスル砲を1門ずつ、前面に50斤ライフルカノン砲1門を備えた。また船首を飾っていたダンチヒ市(現在はポーランド領グダニスク)の象徴である女神像は鷲に変えられ、イーグル号と名付けられた。外輪式は内輪式にくらべて、馬力のわりに速力が出ない。そのため(当初からか改装時かは不明であるが)、コルベットとしては小型の船体に400馬力という強力なエンジンを積んでいたものと考えられる。慶応元年(1865年)、アメリカの会社の手に渡り、長崎に回航された。同年、長崎奉行の服部筑前守常純が186,000ドルで購入。当初は、乗組員も長崎奉行の手で決められ、艦長は支配組頭の柴誠一、乗り組み士官も多くが長崎の地役人だった。第二次長州征討がはじまったため、幕府海軍所属となったが、艦長をはじめ、乗組員はそのままだった。慶応2年(1866年)7月に小倉へ回航され、小倉口の戦いに参加。長州藩の砲台等と交戦したが特に損害はなかった。8月には幕府海軍の撤退により長崎を経て江戸に向かい、その後天保山沖警備に従事。故障修理の後、幕府重役の上洛などに使用された。慶応3年(1867年)の暮れ、江戸薩摩藩邸の不穏な動きが高まり、幕府は攻撃を決意した。それにともなって、回天丸は品川沖で警戒をしていたが、薩摩の武装運搬船翔鳳丸が、藩邸から逃れた藩士、浪士などを収容し、逃れようとするのを追いかけた。折悪しく、柴艦長は命令授与のため上陸していたが、小舟で自船を追いかけ、最初の攻撃は副艦長が仕掛けた。横須賀沖において、翔鳳丸の前にまわった回天丸は、砲撃によって命中弾をだし、翔鳳丸に損傷を与えたが、反撃を受け、取り逃がした。ようやく自船に追いついた柴は、そのまま下田まで追跡したが、逃げ切られた。戊辰戦争の初期には、開陽丸を旗艦として大阪、兵庫の間にあり、薩摩藩の蒸気船春日丸を追跡したりした。慶応4年(1868年)4月11日江戸城無血開城と共に、幕府海軍が所有していた軍艦は、新政府軍に譲渡される予定であったが、海軍副総裁榎本武揚がこれを拒否。交渉の結果、甲賀源吾が艦長を務めることとなった回天丸を含め、開陽丸、蟠竜丸、千代田形丸の軍艦4隻が、徳川家に残されることになった。この4隻の軍艦を中心とする榎本艦隊は、徳川家の駿府入りを見届けた後、開陽丸を旗艦として、彰義隊残党や遊撃隊など、旧幕府陸軍を輸送船に乗せ、同年8月19日に品川沖を発して仙台をめざした。艦隊は台風による暴風に襲われ、大きな被害を受ける。回天丸は前部と中央のマストを折り、後部マストのみになった。無事仙台松島湾に入港の後も、本格的な修理をする暇がなく、前部に短いマストを立てたのみで、帆を用いることはしなくなったため、一見、鋼鉄のモニター艦のように見えたという。甲賀艦長のもと、気仙港では旧幕府の帆船千秋丸を捕獲。蝦夷地へ渡ったのちも、箱館港占領、陸戦の支援など、箱館戦争では主力となって活躍し、開陽丸座礁の後は旗艦となった。もっとも知られている回天丸の活躍は、宮古湾海戦(甲鉄艦奪取作戦)である。結果的に、たった一艦で敢行することとなったこの戦いで、甲賀源吾が戦死し、総司令官として乗船していた荒井郁之助が自ら舵を握って新政府軍艦隊を振り切った。明治2年(1869年)3月26日に回天丸は蟠竜丸と共に箱館に帰還。その翌日には新たな艦長を定め、新政府軍の襲来に備えた。4月、新政府軍は乙部に上陸を開始し、回天は木古内沖で新政府軍艦隊と接触したり、当別(現・北斗市)沖で春日丸と砲火をまじえたりしたが、本格的な海戦には至らなかった。回天丸は旗艦として箱館湾海戦に臨むこととなったが、度重なる海戦の結果、僚艦千代田形丸の捕獲、蟠竜丸の故障により、5月7日には孤軍奮闘を強いられた。甲鉄艦の砲撃によりついに機関を損傷、船としての機能を果たせなくなりながら、陸地近くへ寄せてなおも奮戦。動けないでいた蟠竜丸や台場からの砲撃にも助けられ、その日は新政府軍側艦船を退かせた。4月24日の海戦当初から、回天丸が被った弾丸は80発を超え、修理することもできないので、浅瀬に乗り上げ、片舷に砲を集めて、浮砲台として利用される事となった。5月11日の箱館総攻撃において、故障が直り一艦のみで奮戦する蟠竜丸を弁天台場と共に援護していたが、箱館市中に新政府軍が進入。背後からの砲撃も受けて、荒井郁之助を筆頭とする乗組員は、回天丸を脱出して一本木へ上陸、五稜郭へ撤収した。その日、回天丸は新政府軍の手で焼かれた。放火され、煙突、外輪、後部の船体が残った状態の回天丸の写真が残っている。当時の箱館では、「千代田分捕られ蟠龍居ぢやる、鬼の回天骨ばかり」という唄が流行ったと伝えられている。後日談を、荒井郁之助が書き残している。ダンチヒ造船所で学んだ技師、ネーリング・ボーゲルは、オランダ領事の紹介により、幕府に招かれて来日していたが、奇しくも、かつて自分の手で検査したダンジック号が、イーグル号と名を変えて長崎に入港するのを見た。その船はさらに回天丸と名を変えて日本で活躍したのだが、明治16年(1883年)、当時三菱に雇われていたボーゲルが、函館港の浚渫を監督していたところ、ドイツの木材が多量に出てきた。回天丸の残骸だったのだ。ボーゲルは、数奇な運命をたどったダンジック号をしのび、記念にその木材で椅子を作って愛用した。旧知のボーゲルからそれを告げられた荒井は、その木材の一部をもらい受けて煙草盆を作り、後にそれは甲賀家に贈られた。回天丸についての以上の記述は、『回天艦長 甲賀源吾傳』(詳細は下記参考文献参照)に付録として収録された荒井郁之助遺稿『回天丸の前身ダンジック号』によるところが大きい。同遺稿は『回天丸の話』と名付けられ、昭和8年、子息の荒井陸男によって海軍省に寄贈されたらしいことが、アジア歴史資料センター海軍省公文備考類収蔵、陸男の大角岑生海軍大臣宛手紙でわかる。その手紙には、「明治三十年頃に東京に於て故人が思ひ出のまゝをあり合せの紙片にまとめたるもの」という説明がある。明治30年ころといえば、ちょうど雑誌『旧幕府』が刊行されていた時期で、復刻版『旧幕府』の目次に「回天丸」と見えるので、同じものかと推測されるが、未見である。

出典:wikipedia

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