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朝陽丸

朝陽丸(ちょうようまる)は、幕末期に江戸幕府が所有していた軍艦の一つ。木造外輪式の蒸気船で、マスト3本の小型コルベット艦。排水量300トン。全長49m、全幅7.27m。大砲12門。江戸幕府が咸臨丸ともに初めてオランダに発注した軍艦である。オランダで名付けられた旧名はエド(Yedo、江戸)号。維新後、明治新政府の手に渡り、明治政府海軍に所属。箱館戦争に参加し沈没する。嘉永6年(1853)のペリー来航、翌年の日米和親条約締結と、アメリカの砲艦外交に慌てた幕府首脳部は、早急に蒸気軍艦を持つ必要を痛感した。そこで、長いつきあいのあるオランダに相談を持ちかけ、軍艦購入と、その軍艦の乗組員を養成するための長崎海軍伝習所設立が決まったのである。注文されたのはコルベット2隻で、1隻100,000ドルだった。ともに キンデルダイク(Kinderdijk)造船所で建造され、先にヤッパン号(咸臨丸)が出来上がって回航された。それから一年足らず、安政5年(1858年)、エド号(朝陽丸)が長崎に着いた。咸臨丸を回航して来日し、そのまま第2次伝習教師を務めていたカッテンディーケは、次のように記している。「10月9日、我々は長い間待ちわびた暗輪スクネール船エド(のち朝陽丸)、また1ヶ月後にはナガサキ(のち電流丸)の長崎入港を見た。この美しい立派な二船は、さきの咸臨丸とともに、日本政府のために、オランダにおいて建造せられたものである。右のうちエド号のほうは、将軍家のために、また長崎号のほうは肥前侯のために造られた」(水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』p133)さらにカッテンディーケによれば、この2隻を回航してきた船長は、どちらも若妻をともなっていて、帰りの便船を待つ間長崎に住んだので、見慣れないその衣装が大評判になったという。1ヶ月あまり後、カッテンディーケはこのエド号で、筑前福岡を訪れる。しばらくの間、エド号、つまり朝陽は長崎に留まったが、翌年早々、伝習生だった勝海舟などを乗せ、江戸へ向かった。当時、築地軍艦操練所において、幕府が所有していた蒸気軍艦は、蟠竜丸と咸臨丸、そしてこの朝陽丸だった。文久元年(1861)年、イギリスの長崎領事モリソンが、攘夷派浪士に襲われた第1次東禅寺事件のときには、矢田堀鴻を艦長として長崎へ連絡航海をした。その翌年からは、同じく矢田堀を艦長として、小笠原諸島開拓のための往還や漂着外国船の救助、京阪への幕府要人送迎、将軍護衛などに活躍する。文久3年(1863年)には長州藩の外国船砲撃について使節団を現地へ輸送したが、長州藩兵の攻撃を受けて一時占拠される事態となった(朝陽丸事件)。軍事的な出動としては、元治元年(1864年)、天狗党の乱における那珂湊出陣があげられるが、以降、軍艦としての活動にはめざましいものがない。一応諸資料では、砲12門、コルベットとなってはいるが、砲艦といった方がいい大きさで、あるいは12門の砲も威力のあるものではなかったのかもしれない。新たに幕府が所有した冨士山丸や回天丸、そして開陽丸に活躍の場を譲った。慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発して江戸幕府が瓦解すると、朝陽丸は明治政府の手に渡った。肥前出身で、かつて長崎でオランダ海軍の伝習を受けた中牟田倉之助が艦長となり、旧幕府軍を追撃して蝦夷地へ向けて北上したのである。皮肉なことに、明治2年(1869年)の箱館戦争で、朝暘丸は活躍する。松前攻撃では、陸上攻撃で170発の砲弾を放ったといい、松前城の櫓にも命中させた。さらに箱館湾海戦では、4月26日、回天丸の40斤砲に砲弾を命中させるなど、連日活躍を見せた。しかし5月11日の箱館総攻撃において、かつては僚艦だった旧幕府軍艦蟠竜丸の最後の奮闘により、砲撃が朝陽丸の火薬庫に命中し、大爆発を起こして轟沈。中牟田倉之助は重傷を負いながらも一命を取り留めたが、副艦長夏秋又之助はじめ乗組員の80名が戦死した。海中に投げ出され、救助された乗組員のうち、さらに6名が死亡した。この戦いを己巳役(きしのえき)と称し、箱館戦争終結後の間もなく、朝陽丸乗組員戦死者を弔う己巳役海軍戦死碑慰が函館山に建立された。

出典:wikipedia

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