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明月記

『明月記』(めいげつき)は、鎌倉時代の公家藤原定家の日記。定家が治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたり克明に記録した日記である。別名:照光記、定家卿記。後世、歌道・書道において重んじられた藤原定家の日記である。『明月記』の名は後世の名称で定家が命名したものではなく、当人自身は「愚記」と読んでいた。没後、定家の末裔内では「中納言入道殿日記」の称を用いたが、一般的には「定家卿記」の名称が用いられていたようである。南北朝の頃から『明月記』の名称が用いられるようになったとされる。広橋家記録によれば二条良基の説として『毎月抄』にある“定家が住吉明神参拝の際に神託によって作成した『明月記』”がこの日記であるとの考えが記されている。良基の説を証明するものはないが、当時の日記は公家が公事故実や家職家学の知識を子孫に伝えることを作成目的の1つとしていたことから、定家の日記=定家の奥義書『明月記』という認識が広く行われ、定家末裔を含めてこの呼称が用いられるようになったと考えられている。定家自筆原本の大部分は冷泉家時雨亭文庫に残り、国宝に指定されている。なお、歌道、書道における定家の筆跡への尊崇から、『明月記』原本の一部は早くから流出し、断簡、掛け軸などとして諸家に分蔵されているものも少なくない。断簡は芸林荘・東京国立博物館・京都国立博物館・天理図書館などにある。歴史上著名な人物の自筆日記としての価値とともに、歴史書・科学的記録としても価値がある。ただし、漢文で記されていて難解な部分が多い。通説では現存本などを元に56年間の記録とされているが、後述の定家の子・為家の譲状には「自治承至仁治」とされており、定家が死去する仁治2年(1241年)頃まで書かれていた可能性もある。日記には何度か「客星」「奇星」なる星が現れ、その都度、夜空は明るく染まり、不安に駆られた定家は陰陽師を呼び寄せた。寛喜2(1230年)十一月に現れる客星は「此星朧々(ろうろう)光薄其勢非小」とある。また、定家自身の体験に基づいていない記録も含まれる。例えば、客星古現例として天喜2年(1054年)4月中旬のかに星雲の超新星爆発は、定家誕生以前の出来事であるが伝え聞いた内容として以下のように記載されている(安倍晴明の一族が非常に正確に星の観察をしていて、その記録が伝わった。ヨーロッパには全く記録はなかった。)。他にも、一条院・寛弘三年四月二日(1006年5月1日)のおおかみ座の超新星残骸・SN 1006の超新星爆発、高倉院・治承五年六月二五日(1181年8月7日)の超新星残骸・SN 1181の超新星爆発についても書かれている。ひとつの文献に3つの記録が残っているのは世界で唯一。その記録が現代の天文学の最先端の研究にも役に立っている。定家の家は「日記の家」と呼ばれる家記(代々の日記)を通じて公事に関する有職故実を有していた家系ではなく、政治的な要職にも恵まれなかった。そのため、定家は『明月記』の中に自らが体験し、収集した知識を多く書き残して自身、あるいは子孫が「日記の家」として重んじられることを期待していたと見られている。だが、定家の歌道、書道における名声は、結果的に『明月記』を筆頭とした「日記の家」(すなわち公家政権の官僚)としての御子左流の確立を阻むことになった。定家の子・為家が譲状を作成(文永10年7月24日(1273年9月6日))した際に、自分が持っている『明月記』について「一身のたからとも思候也、子も孫も見んと申も候ハす、うちすてゝ候へハ」と述べて公事に熱心である庶子・冷泉為相に譲っているのも、歌道の家となった御子左流に公事の書と言える『明月記』の活用の余地が低いものになっていたことを為家が自覚していたからであると考えられている。結果的には定家子孫で唯一存続した冷泉家とともに『明月記』のかなりの部分が伝存されたものの、その冷泉家においても『明月記』は歌道・書道の家の家宝とされ、定家が子孫に伝えたかった有職故実については顧みられることがほとんど無かったのである。冷泉家時雨亭文庫に残る原本は虫食い等があり、外部に流出した部分も多いため、研究などには一般には原本に近いとされる徳大寺家本が使用されている。同本は翻刻本が出版されている。

出典:wikipedia

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