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能古島

能古島(のこのしま)は、福岡県福岡市西区に所属する島である。博多湾の中央に浮かんでいる。大都市の目の前にありながら僅か10分の船旅で都会の喧噪を忘れられるとあって、福岡市民の身近な行楽地として親しまれる。福岡でも屈指の菜の花・桜・コスモス・水仙の名所で、満開のころは一年で最も混雑する。博多湾の中央に位置し、南北3.5キロメートル、東西2キロメートル、周囲12キロメートル、面積3.95平方キロメートル。最高標高195.0メートル(三角点の標高)。人口は約720人、世帯数約200。島の渡船場からアウトレットモールのマリノアシティ福岡まで直線距離で2キロメートルほど。福岡タワーや福岡Yahoo! JAPANドームのあるシーサイドももち地区も約5キロメートル。近代的なビルや超高層マンションが対岸に立ち並ぶも、自然が満喫できるというロケーションである。島の西海岸には3億年前の変斑れい岩・結晶片岩が波に洗われ、その横には1億年前の花崗岩がある。4000万年前新生代古第三紀の礫岩・紫赤色頁岩からなる残島層(のこのしまそう)も島内で露頭し、能古島は隆起と沈降を繰り返してきたことが窺える。港の防波堤の横には500万年前に噴出したマグマの火道が残り、含鉄玄武岩は島の各地で見られる。なお、能古島は離島振興法の指定地域ではない。能古島は、1970年(昭和45年)に市街化調整区域の指定を受け、今日に至っている。能古島に高等学校はなく、福岡市立能古小学校と福岡市立能古中学校が同じ敷地内に校舎を接して建っている。その学校からは姪浜が一望できる。これらの小中学校は福岡市教育委員会から特認校の指定を受けており、福岡市全域から生徒が通学している。自然豊かな環境と、1クラス15人から20人の少人数教育が行われている。古くは「残」「能許」「能挙」「乃古」とも記載された。現在の表記が一般化したのは太平洋戦争後である。神子柴系石器群の片刃磨製石斧が表採されているほか、島内各地から黒曜石製の打製石器が表採されている。島の南東部の高台にある北浦遺跡や島南部のに西遺跡では、弥生時代前期末から中期前葉の弥生土器が表採されたほか、島北端の也良でも磨製石斧が表採される。島南東部には箱式石棺墓が営まれるが、出土遺物が無く時期は不明である。島の南側には、7世紀前後の古墳である早田古墳群があり、2基の横穴式石室が現存する。島の中央部にも鬼塚古墳という古墳があったとされるが、1941年の開墾で消滅したとされる。筑前国続風土記には、神宮皇后が帰朝のとき、この島に住吉の神霊を残し留めて異国の降伏を祈ったので残の島という、とある。能古島が初めて登場する文献は『平安遺文』である。731年(天平3年)頃の住吉神社の社領を記述した文中に「能護嶋」の名で登場する。古代の群制では早良郡に組み込まれた。奈良時代には島北端の也良岬(やらみさき)に防人が設置される。『万葉集』にはと詠まれている。アイランドパーク内に狼煙台が復元されている。また遣新羅使が寄港地であった対岸糸島半島の唐泊で出航を待つ心情を綴ったという歌も『万葉集』に残されている。平安時代中期に編纂された『延喜式』兵部式には、島に馬牧があった旨の記述が残されている。島の中心に残る古土手という土塁遺構は、馬牧の境界だったと考えられる。島南東の城ノ浦には北浦城(または城崎城)の遺構が残っている。『筑前国続風土記』や『早良郡志』では築城者として山上憶良と、藤原純友家臣の伊賀寿太郎の2名を挙げている。能古島は日本の歴史上、外敵に蹂躙されたことのある地の一つである。1019年(寛仁3年)の刀伊の入寇では4月8日から4月11日の3日間に刀伊が軍を置き、早良群全体の被害量よりも多くの牛馬を略奪されたことが『小右記』に記録されている。1281年(弘安4年)の弘安の役では、島に上陸されたことが『八幡愚童訓』に記録されている。明治末期に島の南部で人骨が一箇所にまとまって出土したことがあり、現在は蒙古塚が立てられて元寇の犠牲者の供養がされている。戦国時代には大友氏家臣高橋鑑種の所領となる。石高は25石。近世初頭には、残島浦として筑前五ヶ浦廻船の根拠地の一つとして繁栄した。島南部の白髭神社も、海神である住吉大神を祀っていることから、廻船乗組員の寄進を受けており、1689年(元禄2年)建立の鳥居には寄進した廻船業者の名が残る。江戸時代には福岡藩の鹿狩りの場とされていた。しかし、鹿が農産物を荒らすため、対策として1836年(天保7年)に島の南北を海の中まで分断するような石垣を完成させて島南側の耕地への鹿の侵入を防いだ。これは鹿垣(しかがき)と呼ばれ、幅3 m の溝を掘り、溝の南側に高さ2 m に土を盛って土塁とし、土塁の北面に30 - 50 cm 大の石を積んだ構造であった。幕末の1853年(嘉永6年)にはこの狩場でスターリング英国東洋艦隊提督が鹿狩りに興じた。ただし島の鹿は1945年(昭和20年)ごろに全滅した。島南部には1基の登窯が残る。これは、能古焼という伊万里焼系の染付磁器と高取焼系陶器を焼いた窯であり、『筑前国続風土記』によると、1764年(明和元年)から1781年(天明元年)までの約20年間のみ操業したという。現在、唯一の製品と思われる花瓶が隣接する能古博物館に展示されており、登窯は福岡市指定史跡となっている。1861年(文久元年)には福岡藩によって異国船対策の台場が設置された。江戸時代には廻船業で繁栄した能古島も、明治維新以降は農業と沿岸漁業で生計を立てる漁港と棚田の島へと変貌した。1941年(昭和16年)10月15日には早良郡能古村が福岡市に編入され今に至る。人口は1950年代の約1,500人を頂点に徐々に減少しつつある。作家の檀一雄が晩年を過ごした島でもあり、娘の檀ふみの著書『父の縁側、私の書斎』に島での一雄の生活が述べられている。檀が詠んだ最後の句である「モガリ笛いく夜もがらせ花ニ逢はん」の文学碑がある。毎年5月の第3日曜日には彼を偲んで「花逢忌」が営まれる。福岡市営渡船では自動車航送が可能だが島民優先で、島内の道路も非常に狭い。自家用車で姪浜まで来た観光客は姪浜渡船場の駐車場を利用することになる。多客期にはマリノアシティ福岡との間に無料シャトルバスが運行され、そちらの駐車場も利用できる。島の中心集落内、中央部、東岸部などに自動車通行可能な道路がある。島内に信号機はない。駐在所が公民館前にあり、常時警察官が駐在している。小売店は全て島の南部に集中しており、渡船場に1軒あるほか、漁協の前に1軒あり、その近くに酒屋が2店舗構えている。島内では西鉄バスが運行されており、愛宕浜自動車営業所が担当する。島の中心集落の西端部にある龍の宮とアイランドパークを結び、途中、渡船場を経由するが、渡船場発着の便もある。概ね1時間に1本の運行があり、多客期などは渡船場 - アイランドパーク間に臨時便が運行される場合がある。農業(柑橘類)と漁業(魚介類)がメインであるが「アイランドパーク」を主体とした観光の島でもある。また、対岸の姪浜までフェリーで10分の近さであり、。特に「甘夏みかん」と「ニューサマーオレンジ」の栽培が盛んである。また、、能古島では、3年前から牡蠣「万葉牡蠣」の養殖も行われるようになっている。今や日本の食卓に定着しているかいわれ大根は能古島が発祥の地である。能古島に住む前田瀧郎が考案したとされる。但し、かいわれ大根は元々は大阪で食されていた食材であり、それを能古島へ持ち帰った前田が栽培方法を改良しただけに過ぎない。前田は「あの時特許を取っていれば」と苦笑いしてテレビ番組で語ったことがあり、後に落花生のモヤシ「芽吹きピーナッツ」を考案、特許を取得している。

出典:wikipedia

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