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林内閣

前の広田内閣が瓦解した後、大命が降下したのは予備役陸軍大将の宇垣一成だった。しかし陸相時代に大規模な軍縮を断行(宇垣軍縮)した宇垣を煙たがる風潮がこの頃の陸軍では大勢を占めたため、陸軍は軍部大臣現役武官制を盾に現役将官から陸軍大臣を推薦せず、結局宇垣は組閣に失敗して大命を拝辞するに至った(宇垣流産内閣)。このため、あらたに予備役陸軍大将の林銑十郎に大命が降下し、組閣したのが林内閣である。林内閣は財界と軍部の調整を図って大蔵大臣に財界出身の結城豊太郎・日本商工会議所会頭を充て、その財政は「軍財抱合」と評された。また少数の閣僚による実力内閣を標榜した林は多くの国務大臣を閣僚の兼任としたため発足当初は「二人三脚内閣」と呼ばれた。林内閣は貴族院ではかろうじて研究会の支持を取り付けたものの、結局衆議院で与党に回ったのは昭和会と国民同盟の閣外協力のみで、両党あわせても衆議院466議席中35議席を占めるに過ぎなかった。昭和14年2月2日に圧倒的少数与党で発足した林内閣は、再開された第70回帝国議会において重要法案の審議引き延ばし戦術に出た民政・政友の両野党に散々にてこずらされる。妥協を重ねて年度末ぎりぎりにやっと昭和12年度予算が可決されると、林は直ちに二大政党への懲罰的な意図をこめて衆議院を解散した(「食い逃げ解散」)。こうして4月20日行われた第20回総選挙では与党勢力の躍進を期待した林の思惑とは裏腹に昭和会・国民同盟はいずれも議席を減らす結果となった。それでも林は強気の姿勢を崩さず、再度の解散をちらつかせながら政権維持を明言したが、これが倒閣運動に火を注ぐこととなり、結局四面楚歌となるなか、5月31日林はついに全閣僚の辞表をとりまとめて奉呈した。林内閣は短命で特に大きな実績も残せなかったことから「史上最も無意味な内閣」と評され、後には林銑十郎の名をもじって「何もせんじゅうろう内閣」とまで皮肉られるに至った。以下表中、出身母体の「貴」は貴族院、「衆」は衆議院、「官」は官僚、「軍」は軍部、「財」は財界、そして軍階級の「予」は予備役、「退」は退役であることをそれぞれ示す。なお混乱を避けるため字体は新字体で統一した。国務大臣を補佐しつつ政府(内閣)と議会との連絡を取ることをその職掌とした、政務次官・参与官の両政務官が置かれたのは1924年(大正13年)8月、護憲三派内閣の時だった。その後も内閣が変わるごとに時の政府が与党とたのむ両院の会派の中から若手の議員たちがこれら政務官に任用されていった。やがて五・一五事件や二・二六事件を経て憲政の常道が崩れ中間内閣の時代が到来すると、一内閣における政党枠の大臣数は大幅に減った。するとこんどは大臣適齢期になった中堅の議員たちが、政務次官や参与官を大臣に次ぐポストとして垂涎するようになった。このため政務官は次第に両院議員たちの猟官運動の対象と化してゆき、やがてそれは有害無益なものではないかという批判までが起こるようになっていった。そうした中で、少数閣僚内閣による実力内閣を標榜した林はこうした政務官への批判を絶好の機会と捉え、政務官の弊害を過剰に問題視してその任用を一切とりやめてしまったのである。政務官という議会との連絡役を自ら断ち切ってしまった林内閣は、その当然の帰結として衆議院で民政党と政友会の双方からそっぽを向かれることになってしまった。二大政党の支持なくして発足した林内閣の瓦解への秒読みは、その発足と同時にすでに始まっていたといってよい。

出典:wikipedia

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