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多摩ニュータウン

多摩ニュータウン(たまニュータウン)は東京都稲城市・多摩市・八王子市・町田市にまたがる多摩丘陵に計画・開発された日本最大規模のニュータウンである。開発主体は、都市再生機構、東京都、東京都住宅供給公社、稲城市、土地区画整理組合と多岐にわたる。区域は東京都の稲城市、多摩市、八王子市、町田市の4市にまたがる面積約2,884ヘクタールで、主に京王相模原線に沿った東西約15km、南北約5kmに広がっている。基本方針としては、すぐれた自然環境と調和した良好な居住環境を備えた住機能の充実と、教育、文化、業務、商業の機能を備えた活力ある新市街地の形成を図るものとしている。また、多摩地域の自立化を推進する拠点都市として、広域的な都市機能を充実し、周辺地域と連携した複合都市づくりを目指している。また、多摩丘陵の自然と地形をいかしながら自動車交通と立体分離された緑豊かな歩行者専用道路のネットワークを整備し、周辺地域との融和を図り、優れた住環境を整えた魅力ある都市づくりを心掛け、「安全なまち」「健康なまち」「利便性のあるまち」「快適なまち」「文化的なまち」の形成が目標とされた。第1次入居は1971年(昭和46年)3月26日、諏訪・永山地区において開始された。多摩ニュータウンは下記の事業区域で構成される。これらは1966年(昭和41年)に事業着手して以来、18次に及ぶ都市計画の決定・変更を重ね、段階的に整備がすすめられた。戦後の高度経済成長期、東京区部での深刻な住宅難にともなって地価は著しく上昇し、その結果として地価の安かった市部が急速に宅地造成されていったが、民間の無計画な開発はスプロール化をもたらした。また、当時は違法な宅地造成が56%を占める状況であった。そのなかで、このような乱開発を防止するとともに、居住環境の良好な宅地を大量に供給することを目的として、多摩ニュータウンが計画された。開発に当たって、制定されたばかりの新住宅市街地開発法に基づいた初めての事業認可・承認のための申請作業が進められたが、多摩ニュータウン区域内には土地に強い愛着を有する約2000戸に及ぶ農家集落があり、これを全面買収することは困難であった。そして1966年(昭和41年)1月の地元住民から既存集落の区域除外の要望を受けて、同年11月に東京都は「新住宅市街地開発事業との関係から施行が急がれるので、この区域は、東京都が施行者となって土地区画整理事業によって整備する」という方針が決定し、土地区画整理事業と併用して開発することとなった。そのため、街づくりの基本概念となる後述の近隣住区理論を実践するに当たり、歩行者専用道路網などが一部途切れて空間構成に矛盾を生じることになったが、他方、街の形成に自由度を残した多様性をもたらした。法的手続きの経過としては下記の通りである。こうして多摩ニュータウン事業が始まった。しかし一時は、東京都知事に初の革新都政となる美濃部亮吉が当選し、その就任第一声が「東京都は多摩ニュータウンから手を引く」であったため、計画は暗雲に包まれた。多摩ニュータウンの主要なインフラ整備に東京都は不可欠であったが、就任直後にその予算は凍結されてしまった。これは結局、東京都は住宅金融公庫からの借り入れで既に西部地区(南大沢駅を中心とする区域)の百万坪を取得していたため、事業から手を引くことは困難で、事業は継続されることとなった。1971年(昭和46年)、多摩ニュータウンの最初の入居が諏訪・永山地区で行われた。この地区はもともと別の開発計画として存在し、早期から買収が進んでいた日本住宅公団の「聖蹟桜ヶ丘地区」であったが、多摩ニュータウンに組み入れられた。こうして、この地区を中心にオイルショックまでの3年間に約8千5百戸あまりの住宅が供給され、1974年(昭和49年)に多摩ニュータウンの人口は3万人に達した。このころに供給された住宅は、他の多くの地区とは違い公的賃貸住宅を中心としているほか、住宅不足の解消を目的とした画一的な仕様の住宅であり、その後の高齢化の温床となることになる。なお、この時点では諏訪・永山地区まで鉄道が開通しておらず、住民は2km以上先の京王線聖蹟桜ヶ丘駅等まで路線バスやタクシーでの移動を強いられた。乗り入れ認可を受けていた当時の京王帝都電鉄・小田急電鉄は、新線建設の費用のほか多摩ニュータウン方面からの輸送量増加に伴う在来区間の複々線化の費用が掛かるとなると、とても採算が取れないとしていて、国や都に用地の無償提供などを求めて建設を中断していたためであった。最終的には、日本鉄道建設公団が私鉄事業者の鉄道施設を建設し、完成後に25年の割賦で事業者に譲渡するという方策がとられることとなり、小田急線が1974年(昭和49年)6月に小田急永山駅まで、続いて京王線が同年10月に京王多摩センター駅まで開通し、小田急も翌1975年(昭和50年)に小田急多摩センター駅まで開通した。1974年(昭和49年)のオイルショックで高度経済成長は終焉し、大都市圏で旺盛だった住宅需要は一気に落ち込んだ。住宅不足は解消し、住宅不足を解決するための画一的な住宅は販売不振に陥った。このように社会情勢が大きく変化したなかで、多摩ニュータウンは「少しでも早く安く、計画的な良好な都市を大規模に提供する」ことから、「時間をかけて理想的な都市を作る」ことが要求されるようになった。こうして、個性的なタウンハウス住宅やコーポラティブハウスやプラスワン住宅、一般公募宅地分譲住宅等、多彩な住宅が供給されてゆき、多摩ニュータウンは理想的な都市を作るという計画に転換していった。一方、多摩市内では小中学校等の公共施設の建設費の負担が大きな問題となり、開発が中断されていた。当初の負担ルールでは、多摩ニュータウンの新住民が一挙に多摩市に移り住んだ場合、行政需要の急激な増大から約14年で100億円の累積赤字が出ると試算され、当時の多摩市の財政規模では立ち行かなくなることが予想されていたためである。これは1974年(昭和49年)10月、学校の土地・建物を事実上、東京都が全額負担するという取り決めを盛り込んだ行財政要綱が定められたことで開発は再開したが、他にも30%以上の緑とオープン・スペースを確保することが盛り込まれ、これも以降の多摩ニュータウンの街づくりに大きな影響を与えた。その後、2005年(平成17年)までにオープンスペースに関連して都市再生機構施行区域だけで、緑の都市賞を2度、日本都市計画学会賞を2度、都市景観大賞を3度、日本造園学会特別賞、日本不動産学会業績賞を受賞した。多摩ニュータウンは当初から自立都市として構想されていたが、当時の新住宅市街地開発法の規定で業務系施設は「居住者の共同の福祉又は利便のため必要なもの」に限定され、それ以外の業務施設の誘致は困難であった。しかし多摩ニュータウンの地元市は、税金の増収による自主財源の確保や、就業の場としての業務系施設の導入を要望していた。そして1973年(昭和48年)6月、西武鉄道から日本住宅公団(現・都市再生機構)に移管された第4住区(聖ヶ丘地区)の施行計画協議の中で、多摩市議会は第4住区を業務用施設用地に転換する要望書を提出し、これを契機として業務施設を誘致するための具体的検討が始まった。まず、新住宅市街地開発法の規定をくぐりぬけるために、業務施設は住民生活を支えるために必要なものとして位置づけることとなった。そこで日常の暮らしに不可欠な「サービスインダストリー」という概念が持ち出された。次に、新住宅市街地開発法の制約により工業系の用途地域が指定できなかったことから、都市計画上は特別用途地区を定め、「住居地域」の用途規制を「準工業地域」並みに緩和することとした(当時の用途地域)。その後、多摩市から候補地は第4住区以外の適地でもかまわないとの見解が出されたため、鎌倉街道と尾根幹線の交差部周辺で「サービスインダストリー地区」を設置することとなり、1981年(昭和56年)5月に「特別業務地区」として都市計画決定された。施設用地募集は1982年(昭和57年)4月から1986年(昭和61年)11月に行われ、食品製造、集配センター等約30社が立地した。1980年代には、多摩センター駅周辺で開発が進む中、西部地区と呼ばれる南大沢駅を中心とする区域でも開発が進んでいき、多摩ニュータウンの人口は1980年(昭和55年)に6万人だったものが、1987年(昭和62年)には10万人に達した。西部地区の開発にあたっては、1974年(昭和49年)に緑とオープンスペースの確保を盛り込んだ行財政要綱が決定されたことから見直された基本計画が、「多摩ニュータウン西部地区開発大綱」にまとめられ、西部地区はこの要綱に基づき開発が進められた。そして1983年(昭和58年)3月に第14住区で1018戸の入居が行われ、西部地区の入居開始となった。西部地区の入居開始時点では南大沢駅まで鉄道が開通していなかったため、住民はバスで多摩センター駅まで移動していた。西部地区を含む多摩センター駅以西への京王相模原線の延伸には、その途中にある多摩市落合のゴルフ場「府中カントリークラブ」の敷地通過が問題となっていた。工事着工にあたりゴルフ場側に補償金5億円を提示したが拒否され、その後、10億8800万円まで引き上げられたが折り合いがつかなかった。1986年2月28日には強制収用の手続きに入ったが、最終的に10億8800万円の補償金で和解し工事が進められ、1988年5月21日に京王相模原線の京王多摩センター駅 - 南大沢駅間が開業した。また、1990年(平成2年)に小田急多摩線が小田急多摩センター駅から唐木田駅まで延伸すると同時に、唐木田地区が入居開始した。開発前の唐木田地区では東京都施行の土地区画整理事業区域と、住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)施行の新住宅市街地開発事業区域が複雑な形状をなしており、また、この両区域の高低差が大きかった。地区南部では小田急線車庫が計画されていたことから、この両区域の一体的施工が必須となったため、土地区画整理事業が東京都から住宅・都市整備公団に委託された。そうして、この地区では高低差の少ない一体的な土地利用計画を実現している。多摩ニュータウンの外周には、中央大学や明星大学、帝京大学、多摩美術大学等、1960年代より大学が進出していたが、1983年(昭和58年)の東京都立大学の移転構想を契機として、多くの大学が多摩ニュータウン区域内にも進出することになった。当初、都立大学は立川への移転を予定していた。しかし、都立大学内部では立川の用地が手狭であることが問題となっており、一方で、東京都の多摩都市整備本部内部では東京都施行の西部地区で住宅販売を促進する思惑から、計画上は多摩センター駅前に次ぐサブセンターという位置づけの南大沢駅前にも、商業的な賑わいを形成しようと都立大学の誘致が画策された。そのなかで、立川、八王子、多摩ニュータウンの3箇所が移転先候補となり、最終的に多摩ニュータウン西部地区への移転が決まった。東京都立大学側は移転先の条件として駅から近いことを挙げていた。そこで具体的な場所としては、松木日光緑地を大学敷地に含むという条件で、南大沢駅前に決まった。緑地を大学敷地に含むことには地元市の負担を軽減できるだけでなく、大学側にもゆとりのあるキャンパスが構成できるというメリットがあった。そうして、1991年(平成3年)4月に都立大学が開設した。ほかにも1986年(昭和61年)10月に恵泉女学園大学、1988年(昭和63年)4月に大妻女子大学、1989年(平成元年)4月に多摩大学、1992年(平成4年)4月に国士舘大学、1997年(平成11年)4月にヤマザキ学園大学、2011年(平成23年)4月に東京医療学院大学が開設された。また開発前からあり、多摩ニュータウン区域に取り囲まれた形となっていた多摩美術大学は、敷地が周囲の多摩ニュータウン区域内にも拡張された。1986年(昭和61年)の新住宅市街地開発法の改正では「特定業務施設」が創設された。この特定業務施設は「居住者の雇用の増大や、昼間人口の増加による開発地区の都市機能の増進に寄与し、かつ良好な居住環境と調和するもので公益的施設以外のもの」と規定される。これにより初めて、多摩ニュータウンをはじめとする新住宅市街地開発事業で開発されたニュータウンへの業務施設の立地が、法的に可能になったといえる。これを受けて1987年(昭和62年)より多摩ニュータウン内で導入が行われた。特定業務施設の配置は、都市再生機構施行区域内には約38.6haが多摩センター地区や、唐木田・長池業務地区等に、東京都施行区域内には西部地区センターに5.2haが計画された。「南多摩新都市開発計画1990」では特定業務施設の本格導入が図られ、バブル終焉で経済状況が一変するなか多摩ニュータウンでは業務用地の販売が好調を呈し、「朝日生命保険多摩本社」や「ベネッセコーポレーション東京本社」をはじめ各種企業が誘致された。また、このとき集合住宅用地の民間卸が可能となり、新住宅市街地開発事業区域内においても、豊ヶ丘地区で1989年(平成元年)入居の「コスモフォーラム多摩」を皮切りに民間マンションの建設が進んだ。1997年(平成9年)に住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)が分譲マンションの建設から撤退して以降は、民間卸による分譲マンション建設が本格化することとなった。稲城市内にあたる地区では、1988年(昭和63年)3月の第1住区(向陽台)での260戸の入居をもって入居開始となった。この地区は京王相模原線沿線で、多摩ニュータウンのなかで最も都心よりに位置するため当初から鉄道が開通していたが、雨水排水の問題からそれまで開発が進んでいなかった。流域は多摩川の支川である三沢川であるが、すぐ下流からは川崎市に入るため調整が難しかったためである。1971年(昭和46年)7月の事業承認時点では、暫定的に調整池を設置することが予定されていたが、この地区の地層は水に弱く浸食しやすいため設置が困難であることが判明した。こうしたことから、地区内から多摩川にいたるトンネル放水路を新設することとなり、三沢川分水路が整備された。これは三沢川中流部から分水後、地区内の雨水幹線を2か所で合流させ、南武線多摩川鉄橋の上流100メートル地点で多摩川に流入する総延長2,679メートル、トンネル断面は最大内径8.1メートルに及ぶ大規模河川トンネルである。工事は1978年(昭和53年)10月に着手し、1985年(昭和60年)3月に完成。これによりこの地区の雨水排水の問題は解決し、開発にこぎつけることになった。町田市内における多摩ニュータウン開発は1990年代より「相原・小山土地区画整理事業」で行われた。この区域は、西部地区のさらに西方に位置する。当初、この区域は新住宅市街地開発事業による開発が予定され、1965年(昭和40年)にその都市計画決定を受けていた。しかし、この区域は多摩ニュータウン計画の中で「誘致施設用地」に位置づけられていたことから、当初の新住宅市街地開発法の枠内で業務施設の誘致を行うことは困難で、長らく開発は進まなかった。その後、新住宅市街地開発法の改正で誘致が可能になったが、地域開発に関わる時代背景の変化に伴い土地区画整理事業によって開発されることになった。計画では多摩ニュータウン通りと尾根幹線道路に挟まれた東西にわたって「業務ゾーン」が設けられ、第1号進出企業となる「サンリオデストリビューションセンター」をはじめ、2005年(平成17年)時点で約50社が進出している。また、多摩ニュータウン通りの西側に位置する「研究住居複合地区」では、多くの大規模マンションが建てられたほか、サレジオ高等専門学校が2005年(平成17年)に開校した。京王相模原線は1990年(平成2年)3月30日に南大沢駅 - 橋本駅間が開業し、翌年の1991年(平成3年)4月6日にはこの区域に多摩境駅が開業した。これをもって多摩ニュータウン内の全駅開業となった。そして多摩ニュータウンの人口は1991年(平成3年)、15万人になった。2010年(平成22年)現在、多摩ニュータウンの人口は21万人に達したが、全人口の16%を高齢者が占めるという状況で、高齢化が進んでいる。特に住宅難の解消を目的としてオイルショック以前に建設された団地では、画一的で住戸面積が狭いため多様な世帯を受け入れることができず、家賃も安いことから必然的に高齢者が集中し高齢化の温床になっている。また、2009年(平成21年)現在、東京都で一番クラス数の多い小学校は多摩ニュータウンにある一方で、1住区につき4小学校2中学校が建設された1970年代の開発地区では、少子化の進行によりそれ以降の開発地区と同様の2小学校1中学校へ再編が進んでいる。今後、多摩ニュータウンの人口は2025年ごろにピークを迎え、2050年には、2010年現在より7%人口が減少し、高齢化率は35%に達すると推計されている。建築物は経年劣化し、新たな価値の再生が必要なことが指摘されている。近年、多摩ニュータウンへ多くのロードサイド店舗が進出し、初期の団地で整備された徒歩利用が前提の商店街の衰退を招き、これも問題となっている。多摩ニュータウンでは高齢化の進展が遅かったために高齢者施設の整備が遅れており、今後より細かな施設配置が求められている。行政改革等の煽りもあり公的な開発は、東京都が2003年(平成15年)で、都市再生機構(旧 住宅・都市整備公団、日本住宅公団)が2006年(平成18年)ですべて終了し、未開発用地244ヘクタールは売却して民間等による開発に委ねられることとなった。これらの民間売却地には高層マンションがいくつも建設されてきており、中低層の住宅を中心とした、ゆったりとした街並みは大きく変わろうとしている。多摩ニュータウン区域は、地形等の条件から一体的に開発ができ、かつ、排水系統が多摩川水系単一となるように設定されている。その骨格として、東西方向に中央部を横断する鉄道2路線(京王相模原線・小田急多摩線)があり、また、東西方向に中央部、南部、北部を横断する広域幹線道路(多摩ニュータウン通り・尾根幹線道路・野猿街道)と、それを南北方向に結ぶ住区幹線道路が配置されている。多摩ニュータウンの中心である「都市センター」には多摩センター駅周辺が定められているほか、地区内の駅前には規模の差はあるが商業施設を集積している。また、多摩丘陵の緑を系統的に保存するために、多摩ニュータウン南縁の尾根部には地区公園や低容積の誘致施設が配置され、計画的に配置された公園緑地、歩行者専用道路、住宅内緑地等の面積は地区全体の30%以上を占めている。電気・ガス・上下水道等、ライフラインのインフラストラクチャーが、マスタープランに基づいた都市基盤建設の中で住宅等の開発前から整備されており、「都市センター」地区には無電柱化や地域冷暖房等を可能にする地下共同溝が設けられている。ニュータウン区域は新住宅市街地開発事業地に新住区を設け、幹線道路を境にして中学校の学区を基本単位とする21の住区に分けられている。この概念はコミュニティー空間の外周に幹線道路を配置し、生活の場から不要な通過交通を排除することなどを主眼とした「近隣住区理論」に基づいている。根本理念は理想的住環境を目指し、1住区は面積約100ha、住宅3,000 - 5,000戸、人口はおおむね12,000 - 20,000人で計画されていた。各住区には原則として中学校1校、小学校2校を設置し、歩行者専用道路の導入を図った生活道路、オープンスペースとしての公園(近隣公園・街区公園)や緑地帯、食料品・日用品等の商店、交番、郵便局、診療所などといった住民サービス施設の集まる「近隣センター」が配置されている。中には開発によって農業をやめた住民が商店を経営するということもあった。こういった住区をいくつかあつめて地区を構成しており、地区の中心(鉄道駅の周辺)には「地区センター」が配置されている。多摩ニュータウンでは、歩行者専用道路が新住宅市街地開発区域全体にわたって整備された。歩行者専用道路と車道は立体交差しているため、住宅地から駅前、公園や学校などへ、車道を一切横断することなく行き来することができる。特に多摩センター・落合・鶴牧地区、南大沢地区は徹底した整備がされ、道路脇の歩道よりも歩行者が多いことが見てとれる。多摩ニュータウンではオイルショック以降の方針転換で30%以上のオープンスペース(公園緑地等)を確保することとして整備が進んでいた。しかし、このように確保された多くのオープンスペースが中高層住宅に埋もれてしまい、認知されにくいと指摘されていた。そのため、鶴牧・落合地区の整備にあたっては計画が見直され、いまあるような街並みが整備されることになった。そこで鶴牧・落合地区ではオープンスペースを街の骨格構造にしてしまおうという発想のもとに設計された。一般的に街の骨格構造は道路ネットワークを中心に認知されるため、新たな試みとして、建物は全く描かず、公園と歩行者専用道路のみが描かれた図面が作られた。従来「皆が平等に公益を受ける」という考え方から公園はまんべんなく散りばめられていたが、その考え方を逸脱せずにどのように骨格構造となるような空間を作り出すか様々な検討が行われ、4つの近隣公園をリング状に連続的に配列し「基幹空間」が作り出された。基幹空間の外環にあるのが「基幹空間系」を補完する「リング系」で、歩行者専用道路や街区公園で形成され、多摩ニュータウンにおける「みち空間」の組織化を図っている。さらにその外側の「外周系」は3系統あり、東側は地区東端から多摩中央公園・遺跡公園(東京都埋蔵文化財センター)に至る系統、西側は地区西部から唐木田へ連なる系統、南側は多摩よこやまの道が該当する。他にこれらを補完する「独立系」があり、「基幹空間系」「リング系」「外周系」「独立系」で鶴牧・落合地区のオープンスペースを形成している。歩行者専用道路は、地区内にある全ての集合住宅・戸建て住宅地、公園や小中学校、施設等を結び、多摩センター駅前の歩行者デッキに接続している。車道との交差部分は、全て歩道橋による立体交差となっていて、車道を一切横断することなく地区全域および駅前へと移動を可能にしている。景観も重視して街づくりが行われることになり、「ヴィジュアルプラン」が作成された。これは「見る・見られる」意識したもので、今でいう景観計画の先駆的事例だった。景観も建物まわりの街並みといったスケールだけでなく、街の概括的な眺めを作り出すことが意識された。特に「山」の景観が重視され、基幹空間を構成する「富士見通り」は、富士山の方向に向かって一直線に整備されている。また自分たちの街を見渡すことができる視座・場所を創出しようと、鶴牧東公園にある小丘の「鶴牧山」をはじめ、地区のあちこちに眺望ポイントが設けられた。鶴牧・落合地区における最初の住宅供給は1982年(昭和57年)に行われ、当時一世を風靡していたタウンハウスを中心に供給された。公団の当時の技術者たちはここを「田園調布のような場所にしたい」という思いがあり、本部にこの計画が持ち上げられた際には、勤労者向けの住宅を供給するという公団の使命に反することから、ひどく叱られたという。分譲価格も一般的に約2500万~2600万円だった時代だったが、ここでは約4800万円で売りに出され、当時新聞で「公的機関が高額物件を売っている」と批判を浴びた。結果的にこの贅沢な街並みは、日本全国の計画都市のなかでも突出してユニークな都市景観となり、「街全体が公園のようだ」と評価されている。1983年(昭和58年)に放映され大ヒットドラマとなった「金曜日の妻たちへ」は、この鶴牧・落合地区が撮影地として多用された。また鶴牧・落合地区の街づくりを評価されて公団は、1983年(昭和58年)に「緑の都市賞」、1985年(昭和60年)に「日本都市計画学会計画設計賞」、1993年(平成5年)に「日本造園学会特別賞」を受賞している。多摩ニュータウンの商業的な特徴として、駅前には「都市センター」や「地区センター」として商業核が設定され、「都市センター」には百貨店を含む都市型商業施設、「地区センター」には量販店を基軸とした郊外型商業施設の進出が盛んである。また、住区内の「近隣センター」には日用品を充足する店舗、区画整理事業地区にはコンビニエンスストアや特色ある個人商店が多く点在している。近年は特に郊外型の大型店が増加傾向にあり、広大な売場面積を持つ新形態の「三井アウトレットパーク多摩南大沢」やカインズホーム・ケーヨーデイツー・コーナン・ユニディなど大規模ホームセンターと、ドン・キホーテのような総合ディスカウントストア、ケーズデンキ・ヤマダ電機・ノジマといった家電量販店などが多数進出している。以下には「都市センター」や「地区センター」となっている駅周辺について、ニュータウンの東側の地区より記述する。多摩ニュータウンは多摩市、八王子市、稲城市、町田市にまたがっているため、それぞれ市域ごとに大きく分類する。多摩市にまたがる区域には、1971年(昭和46年)に多摩ニュータウンの第1次入居地区となった諏訪・永山地区や、多摩ニュータウンの中心として計画された多摩センター地区などが含まれる。なお、尾根幹線道路沿いの地域の一部は、開発当初は町田市に属しており(後述)、1973年(昭和48年)12月に多摩市へ編入している。新住宅市街地開発事業区域では4~12住区と17,18住区が該当し、土地区画整理事業区域は多摩土地区画整理事業区域、小野路第1~3土地区画整理事業区域が該当する。街路は道路ごとにテーマをもって統一した並木が植栽されているのが特徴で、住区同士をネットワークする歩行者専用道路にも愛称名がつけられ、地区・近隣センターと住居地、公園や学校等を結んでいる。また、住民間の交流を活性化するため公設の「コミュニティーセンター」を地区ごとに設置している。公園(地区公園・近隣公園・街区公園・保全緑地等)は市域全体で大小を含めて約200箇所設けられ、多摩市全体の面積当たりの公園面積は東京都で1位、人口当たりで2位となっている。八王子市由木地区(旧南多摩郡由木村)に旧来よりある「堀之内・別所・東中野・大塚・松木・越野・南大沢・下柚木・上柚木・鑓水・中山」の11の区域の中に新住宅市街地開発事業地区(新住区10箇所)と、それらに含まれない土地区画整理事業地区が設けられた。その中で「松が谷・鹿島」の2住区は旧東中野・大塚区域に新たに設けられた地名である。新住宅市街地開発事業区域では第12~20住区が該当し、土地区画整理事業区域は由木土地区画整理事業が施行されている。別所・中山・上柚木・松が谷・鹿島地区を除き、多摩ニュータウン開発以前から住んでいる住民が多い。由木村は開発を反対する住民の意向から日野市への編入の向きもあったが、1964年(昭和39年)8月1日に開発を推し進める派の八王子市に編入された。1971年(昭和46年)に東京都から新住宅市街地開発事業の対象地域とされ、多摩ニュータウン開発が行われた。南大沢・上柚木地区周辺は歩行者専用道路網が充実している。旧由木地区の11区域のそれぞれの詳細は次に掲げるとおりである。多摩市との境界付近にある鹿島・松が谷の2地区は、マスタープランで定めた新住区と行政区の区域割りが一致しておらず、同一住区内でそれぞれが多摩市側の愛宕・山王下と重なり、多摩市役所や多摩センター駅にも近いため、生活圏は完全に多摩市側に組み込まれている。そのことから、1982年(昭和57年)に両地区住民が八王子・多摩両市に対して「鹿島・松が谷地区の多摩市編入」を求める陳情を提出したが、旧由木村が八王子市に編入される際に起こった衝突の二の舞を恐れて「鹿島・松が谷地区の多摩市編入反対」の陳情を出した。これに対して、多摩市議会は「鹿島・松が谷地区の多摩市編入」を可決したものの、八王子市議会は「鹿島・松が谷地区の多摩市編入」を否決して現在も「鹿島・松が谷地区」は八王子市に留まることとなる。その結果として、八王子市は当地区へ市役所の出張事務所や公園施設の充足を図ったが、住民は合理的な学校区の選択などができず、本来の近隣住区理論に基づいた街の生活の利便性を享受しにくい環境が生じている。また、両市にまたがる境界付近にある開発用地の使途もなかなか定まらない状況になっている。さらに、鹿島・松が谷の他にも行政サービスの均一化の観点から別所二丁目など八王子市域新住区の住民で多摩市への編入を望む意見が多い。稲城にまたがる区域は多摩ニュータウンの東端を形成し「ファインヒルいなぎ」のネーミングを持つ。当初は多摩ニュータウン計画に含まれていなかったが、稲城村(当時)の熱心な働きかけにより新住宅市街地開発事業区域に組み込まれることになった地域である。新住宅市街地開発事業区域の第1~3住区が該当するほか、堂ヶ谷戸、百村、竪台といった土地区画整理事業が行われている。1971年(昭和46年)に建設大臣の事業承認を受けるも、先行した多摩市域のニュータウン開発に目をつけた企業が転売益を狙って土地買収に参入、土地収用は難航する。またニュータウン区域の排水問題をいかに解決するかにも手間取り開発の開始までに16年間を要した。町田にまたがる区域は多摩ニュータウンの西端を形成し「町田グランネットタウン」のネーミングを持つ。他市域に比べ事業開始が後発となり1988年(昭和63年)に都市計画決定し、開発面積は174haで比較的狭い領域にある地区である。ニュータウンと既存地域との間にある丘陵南斜面になった境界地に建設するため、開発には両地域の整合性を考慮して「新住宅市街地開発法」は適用せず、従来からの緑豊かな自然環境を保全しつつ、ある程度自由な尺度の中で住宅ほか、商業、業務、リクリエーション、教育、文化厚生の諸施設が立地すべく開発誘致が行われているのが特徴である。根幹となる公共交通機関として1974年(昭和49年)から京王帝都電鉄(現京王電鉄)および小田急電鉄が新規鉄道路線で乗り入れている。両線とも鉄道建設公団方式による高速運転が可能な安全を最大限に留意した全線立体交差の新線で建設された。また、2000年(平成12年)には多摩地域の南北間の連絡を担う多摩都市モノレールが乗り入れている。また、鉄道の各駅とそれぞれの近隣住区とはバスの路線網が整備され連絡をしている。さらに、聖蹟桜ヶ丘駅(京王線)、稲城駅(京王相模原線)、橋本駅(京王相模原線・横浜線・相模線)、南多摩駅(南武線)といった区域外の駅を最寄りとする地区も存在する。多摩モノレールの多摩センター駅から町田駅方面・八王子駅方面への延伸が、東京都による次期整備路線(導入空間の確保に着手すべき路線)とされており、すでに町田方面へは多摩市内の全区間と町田市内の一部区間で導入空間が確保されている。町田市は「多摩都市モノレール町田方面延伸協議会」を設立し、町田市として延伸を推進している。また1990年(平成2年)に唐木田地区の入居に合わせ多摩センター駅から唐木田駅まで延長された小田急多摩線は、JR相模原駅を経由して上溝駅に至るルートが運輸政策委員会の「今後、整備について検討すべき路線」とされ、相模原市が延伸の促進を重点プロジェクトに位置付けている。道路は多摩丘陵の地形を礎にして配置されているが、前述の「近隣住区理論」に基づいて建設されている。幹線道路は基本的に旧谷戸部筋に配して、丘陵部にある住区内の生活道路と分離している。これにより、生活道路域の安全と良好な環境を確保し、不要な通過交通および渋滞を排除している。各道路には原則として歩道が付加され安全性を高め、景観の向上と環境保全のため並木が植栽されている。また、特筆できるものとして一般の車道とは別に「歩行者専用道路網」が存在し、そのための立体交差の道路橋が数多く設置されている。しかし、居住区外からの流入車が多い幹線道路には恒常的に渋滞が発生する地域があり、住区境を跨る箇所の生活道路も長い、もしくは急な坂が続くために、自転車利用者や歩行能力の衰えた者が高低差を移動する事が苦労となる地域も存在する。多摩ニュータウンの新住宅市街地開発事業で整備された地域の都市基盤には各住区を結ぶ歩行者専用道路(遊歩道)のインフラが網の目のように整備されている。この道路網は多摩丘陵の高低差をうまく利用することで車道と歩道を平面交差することなく立体的に分離し、モータリゼーションに起因する交通人身事故が発生しにくい安全な街を目指したもの。これら歩行者専用道路のほとんどは植栽を施したアメニティー空間の緑道となっており、区域内のすべての住宅、施設、公園や学校が結ばれている。多摩センター駅前や永山駅前の歩行者デッキにも接続しており、区域内の移動だけでなく、駅前へも歩行者専用道路だけでの移動が可能である。多摩ニュータウン区域内およびその近隣地域には以下の大学・短期大学・高等専門学校が立地している。東京都都市整備局都市づくり部多摩開発企画担当課は、住民基本台帳ベースでの集計作業を担っており、ここではそのデータを掲載する。表中の「区整」は土地区画整理事業、「新住」は新住宅市街地開発事業を指す。1975年(昭和50年)以来の人口・世帯数の推移は以下の通りで、2010年(平成22年)現在まで人口は増加を続けている。2000年(平成12年)から2010年(平成22年)にかけては人口は約11%増加し、開発が続いていることによる人口の流入が伺える。2010年(平成22年)現在の人口は216,400人で、計画人口342,200人に対して63.2%の達成率である。2010年(平成22年)10月現在の多摩ニュータウンの行政区域別の人口、高齢者人口、高齢化率は以下の通りである。多摩ニュータウンの高齢化率は16.0%と、同年同月の日本の高齢化率23.1%(住民基本台帳)と比べて低い値である。ただし多摩市にまたがる区域においては、第1次入居地区である諏訪・永山地区を含むため、21.0%と高くなっている。2005年(平成17年)現在の地区別の人口は以下の通りである。多摩丘陵の遺跡に関しては明治時代からいくつか調査されていたが多摩丘陵(多摩ニュータウン)の開発を行うにあたり、相当数の遺跡があると予想されていたため1965年(昭和40年)から大規模な遺跡調査が始まった。 調査の結果、当初の予想を上回る縄文時代の遺跡が確認され、住居跡、土器、石器、獲物を獲るための落とし穴等が多数見つかり、広場を中心に密集した住居跡も複数検出された。多摩川の支流である大栗川、乞田川を中心に広範囲(八王子市、多摩市、町田市、稲城市にまたがる)に複数の村を形成し、長い間(およそ7000年間)定住をしていたと思われる。石器は後期旧石器時代(約30,000年 - 10,000年前、ヨーロッパではクロマニョン人が分布)のものから多数出土し、定住をし始めた縄文時代早期(約10,000年 - 6,000年前)から縄文時代前期(約6,000年 - 5,000年前)、縄文時代中期(約5,000年 - 4,000年前)を中心に住居跡などの遺跡が多く確認されている(エジプト文明は約5,000年前)。遺跡は縄文時代特有の狩猟や木の実などの採取を中心とした集団生活を窺うことができ、多摩川支流の高台(丘陵地帯)に竪穴住居を作り、長い間定住をしていたと思われる。八王子市の京王堀之内駅周辺では縄文人のものと思われる人骨も出土した。東北や近畿で作られた土器も見つかるなど日本各地と交流も行われていたことも窺える。しかし縄文時代後期(約4,000年 - 3,000年前)になると遺跡は急激に減少し、縄文時代晩期(約3,000年 - 2,300年前)にはこの村はほぼ消滅している。日本各地(東京、神奈川で顕著)でこの減少は見られ、その要因として人口急増や気候の寒冷化に伴う食料の枯渇、箱根山、富士山の度重なる噴火や稲作の始まりとともに低地(関東平野)へ生活の場を移したことが考えられる。しかしそのことが多摩ニュータウン開発まで遺跡を手付かずのまま残す形となった。最終的には964か所の遺跡が確認され、遺跡の名称にはそれぞれ番号が振られその発掘調査資料は貴重な資料として保管されている(東京都埋蔵文化財センター)。1987年(昭和62年)、稲城市坂浜にある多摩ニュータウンNo.471-B遺跡から約5万年前の石器13点が発掘された。武蔵野ローム層の中にある約5万年前に箱根山が降らせた東京軽石層の直上と直下から出土したことから、「最初の東京人」の確かな証拠として一躍有名になった。1995年(平成7年)3月にはこれらの石器13点が東京都指定有形文化財に指定された。ところが、2000年(平成12年)11月に東北旧石器文化研究所の藤村新一による一連の旧石器捏造事件が発覚。多摩ニュータウンNo.471-B遺跡からの石器の出土と発掘に同人らが関与していたことから、出土した石器の信頼性について再検討された。当時の事実関係や石材産地の同定などの調査の結果、出土状況が不自然であること、流紋岩質の石材産地が少なくとも200km以上離れていることなどから、「約5万年前の石器群という、これまでの評価をそのまま首肯することも困難である」という結論が出された。多摩ニュータウンNo.471-B遺跡からの石器は、2001年(平成13年)10月25日に有形文化財指定も解除されている。現在、多摩ニュータウン地域で最も古い時代の石器が出土している遺跡は、八王子市の多摩ニュータウンNo.402遺跡などで、立川ローム層最下部から約3万年前 (後期旧石器時代前半) の石器が出土している。

出典:wikipedia

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