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徳川斉荘

徳川 斉荘(とくがわ なりたか)は、江戸時代の大名。天保7年(1836年)に田安徳川家4代当主、天保10年(1839年)に尾張徳川家12代当主となった。文化7年(1810年)6月13日、徳川家斉の十二男として生まれる。幼名は要之丞。12代将軍・徳川家慶は兄。文化10年(1813年)12月25日、御三卿である田安家当主で叔父にあたる徳川斉匡の養子となる。天保7年(1836年)8月、養父斉匡の隠居により、田安徳川家の家督を相続する。斉匡には多数の子女がおり、匡時が世子となっていたが、病弱を理由に廃嫡され、代って斉荘が養子となった。天保10年(1839年)3月20日に尾張徳川家の当主で異母弟である徳川斉温が死去すると、26日に喪が発せられ、同日に松平乗寛と水野忠邦が幕府の上使として江戸の尾張邸を訪れ、斉荘を末期養子として尾張徳川家の家督を継がせるよう命じた。さらに田安家から家老の朝倉播磨守、御用人格の興津甚左衛門、用人の梶田五郎兵衛らが側近の付き人として斉荘に従って尾張家へ入ることも幕府から命じられた。斉荘の養子入りは幕府の一方的な命令によるものであり、支藩などにもあった尾張家の血統をないがしろにするものであり、藩内に大きな反発を生んだ。特に、先代斉温の遺言でもなく、隠居していた先々代斉朝(斉荘の従兄にあたる)にも全く相談もないことに不満は高まった。藩内では支藩である高須藩主松平義建の次男・秀之助(後の徳川慶勝)を望む者が多かった。このとき、御附家老の一人である竹腰正富が藩内の説得役となったが、反発した藩士が「金鉄組」を結成した。これが幕末に至り、反幕・尊皇攘夷派への流れとなって、竹腰家を中心とした佐幕派との対立へとつながることとなる。また、江戸在府の附家老成瀬正住にも批判が集中し、最終的には蟄居を強いられた。江戸城本丸用材を献じたことなどにより藩財政は悪化しており、倹約令を出すなどしていたが、斉荘自身は苦労知らずの遊興好きで、苦しい藩財政を省みなかったといわれる。天保13年(1842年)には幕府から藩政停滞について警告された。それでも当人は藩政に真剣に当たらず、茶道にかまけ、裏千家に入門して11代千宗室(玄々斎)から奥儀を授けられている。子女は6人いた。次男で斉荘死後に出生した昌丸は一橋家を相続して間もなく夭折したが、女子の2人は成人して大名家に嫁いだ。※日付=旧暦

出典:wikipedia

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