友部町(ともべまち)は、関東地方の北東部、茨城県中部の西茨城郡にあった町である。2006年3月19日に、旧笠間市、岩間町と合併し、新制の笠間市が成立したことにより廃止された。
新制の笠間市役所の本庁は旧友部町域に置かれている。茨城県のほぼ中央に位置し、北西部は八溝山系が緩やかに連なる丘陵地帯で、東南部は概ね平坦な大地が開ける。涸沼川が南西部を流れ涸沼に注ぐ。1955年1月15日、宍戸町・大原村・北川根村と鯉渕村の一部が合併して成立。「友部」の名の由来はさして古くはなく、1895年に現在の水戸線の駅が設置された際、付近が「南友部村」と呼ばれた地域であったことにちなむ。上記4か町村が合併したのも、中学校の学区に合わせるためという、極めて政治的な理由に基づく。歴史的には、上記4か町村間に密接な関係はない。大原村は明治以前は茨城の里と呼ばれた。大原の名そのものも、うばらき(茨城の古発音)が転訛した小原(おばら・現友部町大字小原)に由来する。茨城の里が文献に登場するのは非常に早く、古事記の神代巻にすでに「茨城国造」の語が登場する。常陸国風土記にもこの地についての記述があるが、風土記成立当時、すでにこの地域は茨城郡ではなく那珂郡となっていた。このため、「茨城」の名の由来となった地はここではなく茨城郡の中心地であった現石岡市近辺であるとする説もある。中世には、後の宍戸町となる地域に宍戸荘が開かれ、やがてここに土着した八田知家の子孫・宍戸氏の勢力範囲となる。他方、小原地域には、室町時代中期に里見氏が土着し、小原城を築いて戦国期まで勢力を張った。この里見氏は後に安房の大名となった里見氏の祖先であると伝えられるが、確証はない。小原城は戦国末期に佐竹氏の攻撃により滅び、宍戸も関ヶ原の戦いの後秋田氏の領地となる。江戸期においては、宍戸は水戸藩連枝の領地となり、大原地区は天領となって明治維新を迎えた。※細かい町域の変遷は省略。東京方面と栃木県方面を結ぶ交通の結節点である。
出典:wikipedia
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