織田 勝長(おだ かつなが)は、安土桃山時代の武将。織田信長の五男(もしくは四男)。生母は不明。幼名は御坊丸。「勝長」は『甲陽軍鑑』において見られる名で、史料で確認できる実名は、津田源三郎、織田源三郎信房。法名は林庭宗松。元亀3年(1572年)8月14日に美濃国岩村城(岐阜県恵那市)の城主・遠山景任が亡くなった後、養子として岩村城へ入府したという。遠山氏は武田氏と織田氏の両方に服属しており、景任の妻おつやの方は信長の叔母であって、景任が嗣子なくして死去したために織田方を支持する家臣の申し入れにより、遠山氏を嗣がせるために信長の子をもらい受けた。同年11月、甲斐国の武田信玄の西上作戦の途中、その家臣秋山虎繁(信友)が美濃を侵攻して、岩村城を包囲。武田方を支持する家臣により岩村城は降伏し、おつやの方が岩村城代となった秋山虎繁を夫として迎え入れ、幼主を養育することで、武田方との和議が結ばれた。11月14日に武田軍が岩村城へ入城した。元亀4年(1573年)2月下旬、おつやの方は織田掃部の肝いりで秋山虎繁と祝言を挙げ、御坊丸は甲府に送られたという。御坊丸はその後、甲府(山梨県甲府市)で人質となった。一方、『信長公記』の天正9年(1581年)11月24日条では、先年に信玄から信長の末子を養子にしたいという要望があって甲府に出されたが、結局、武田氏と織田氏の間の関係が悪くなって戻ってきたとしている。天正2年(1574年)、武田勝頼は伊奈・岩村を足がかりに東美濃を侵攻し、さらに遠江国に転じて高天神城を攻略した。翌天正3年(1575年)にも同じような経路から長篠城を攻めたが、これが長篠の戦いとなって大敗。岩村城も織田信忠によって奪還された。天正8年(1580年)3月、勝頼は常陸国の佐竹義重を介して信長との和睦を試みた。。この勝頼と信長との和睦交渉は「甲江和与(こうごうわよ)」と呼ばれ、『甲陽軍鑑』によれば信房の返還には勝頼側近の僧・大竜寺麟岳らが協議したという。天正9年に信房(勝長)は織田家に返還されたが、時すでに遅く、信長はすでに武田氏を滅ぼす決意を持って苗木の遠山友忠に調略をさせていて、勝頼の和睦交渉の要請は黙殺された。勝長は武田家のもとで元服し「源三郎信房」を名乗り、「信」は武田勝頼から偏諱として与えられた武田家の通字であると考えられている。『甲陽軍鑑』では傅として五十君久助という人物が付いたとされる。他方で、『寛政重修諸家譜』では、織田家返還後の天正9年11月24日に「勝長」として元服し、源三郎と称したとしている。『信長公記』の前述の条によれば、この時、信房は安土城で信長はと対面して、尾張国犬山城(愛知県犬山市)の城主とし、小袖・刀・鷹・馬・槍などその他いろいろ取り揃えて贈った。信長は信房の側近にまでそれぞれ相応のものを贈ったという。『当代記』でも元服は帰還後とし、大小の家臣も祝いの品を進呈したが、なかでも羽柴秀吉は銀子三千両、小袖二百を進呈したという。天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻(甲州征伐)では、総大将の兄信忠に従って参陣し、『信長公記』によれば、3月3日には上野国衆・安中景繁が大島城から退去した後に再び立て篭もった諏訪高島城(長野県諏訪市)の明け渡しを指揮する。同じく『信長公記』によれば3月7日には足軽隊を率いて森長可・団忠直と共に上野国へ進撃し、小幡信貞から人質を取って鎮撫した。景繁の仲介で大戸浦野氏を服属させた。3月21日までには安中城(群馬県安中市)へ入城し、上野国衆の服従に携わっている。同年6月本能寺の変において信忠と共にあり、明智光秀の軍勢に攻められて二条御新造で奮戦ののちに討ち死にした。長男の勝良は織田信雄に仕え、のち加賀前田家に600石で仕えた(「諸士系譜」)。その子孫もそのまま金沢藩に仕えたようである。
出典:wikipedia
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