長野原町(ながのはらまち)は、群馬県の北西部、吾妻郡西部にある町である。群馬県北西部に位置し、地域のほとんどが標高500m以上の高地である。東西に伸びる北部は吾妻川の流域にほぼ属する。南部は浅間高原地帯にほぼ属し、西部から南へ伸び、浅間山麓に達する。地勢は浅間高原地帯を除いて、山地である。北に草津白根山、南に浅間山があり、そのため土質は火山灰土、砂礫土部分が多い。山岳に囲まれていることや、気温が低いことも合わせ、耕作には向いていない。河川は吾妻川とその支流ともに急流で、川底の侵蝕が激しい。特に吾妻川は河岸段丘を形成し、その河岸段丘上に主な集落がある。関東地方は一般的に太平洋側気候であるが、長野原町はその標高の高さと日本海に近いこともあり、中央高地気候と日本海側気候の中間的な気候を示す。しかし、町内でも標高の高さに著しい違いがあり、標高の低い北部と高い南部の2つに大きく分けることができる。南部は標高1000m以上の高原地帯にあり気温は北海道並(ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候)で、年平均気温は7~8度前後、最暖月(8月)の平均気温は20度前後、最寒月(2月)の平均気温は-6度前後であり、最低気温はマイナス20度以下まで下がる。夏は30度を越えることはまれで、実際に避暑地として利用されている。対して北部は標高は510~830mの山岳傾斜地帯に位置し平均気温が2、3度高い。降水量は年間1200mmから1500mmで、関東地方平野部と変わらない。降水量の違いは地形に影響されるため、北部、南部の比較はできない。長野原町の先史時代の遺跡・遺物は、新石器時代のものが多い。遺跡・遺物の検出地は概ね山稜地帯にある。これは、天明3年の浅間噴火に伴う泥流により、低地は土砂に埋もれてしまったためである。石器では石鏃、石斧などが数多く出土している。土器も出土しているが、ほとんど破片の状態で出土しており、完形のものは極めて少ない。大字大津字勘場木では縄文時代の住居跡が検出されている。この時代の特徴的な遺跡である古墳は、長野原町では3基(いずれも円墳)しか確認できない。西吾妻で見ても7基であり、東吾妻の200基と比べてその差はあまりに大きい。浅間の泥流の影響や、険阻な地形による土砂崩れで流出したとしてもその差は歴然としている。奈良・平安期の遺物である瓦塔が長野原町中央小学校工事の際に出土している。出土したのは塔の一部にとどまり、全体像をつかむことはできない。この時代も、長野原町の歴史を史料の上で確認することはできない。古来より三原(西吾妻一帯をさす言葉として使われていた。)に源頼朝が巻狩に来たという伝説がある。西吾妻の地名や温泉の由来に源頼朝が関わっているとされるものも多い。長野原町内にある川原湯温泉も源頼朝の巻狩の際、発見されたと伝えられている。史料として信用度の高い『吾妻鏡』には、下野国那須、信濃国三原(当時西吾妻地方は上野国ではなかった)の巻狩へ源頼朝が出発したとの記述がある。しかし、その記述を追っていくと、結果として三原には行かなかったということがわかる。一方で、『曽我物語』では、この三原の巻狩についての記述があるが、史料的価値から見ると信用することができない。江戸時代元禄期の『再編吾妻記』にも三原の巻狩の記述がある。しかし、これは伝説と『曽我物語』を元に書かれたものでまったく信用することができない。源頼朝の三原の巻狩は伝説に過ぎないとも言えるが、このような伝説が古くからあったという事実はある。長野原町には、三原で源頼朝が落馬して、死亡し、長野原町のどこかに埋葬されたというような伝説もある。『吾妻鏡』の三原の巻狩の記述の欠如を説明する為に作られた後付けの話か、それとも、原伝説の一部なのかは全くわからない。「長野原町」を構成する旧町村は、明治5年の大小区制で第二十大区に編入され、現在他の町村となっている村も含めて、それぞれ第10小区、第11小区、第12小区に分けられた。明治11年に郡区町村制に移行すると、「長野原町」には3つの戸長役場が設置された。その後明治22年にこの3つの戸長役場の行政区域に属する10町村が合併し、長野原町が誕生した。※10町村は以下の通り。長野原町、大津村、羽根尾村、与喜屋村、古森村、川原畑村、川原湯村、横壁村、林村、応桑村。市内のJR吾妻線羽根尾駅前にある羽根尾交差点は、国道144号( - 終点・長野県上田市)、国道145号( - 終点・沼田市)、国道146号( - 終点・長野県軽井沢町)が集まる国内でも珍しい連番3国道の起点となっており、これを記念する木製のモニュメントが建てられている。
出典:wikipedia
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