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日本の原子爆弾開発

日本の原子爆弾開発(にほんのげんしばくだんかいはつ)では、第二次世界大戦中に日本で行われた原子爆弾の開発計画と、第二次世界大戦後の状況について記述する。第二次世界大戦(太平洋戦争)中、軍部には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。大日本帝国陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より)と大日本帝国海軍のF研究(核分裂を意味するFissionの頭文字より)である。日本の原子爆弾の研究開発は、1940年4月安田武雄中将が部下の鈴木辰三郎に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査を命じたことから始まった。なお、すでに理研の仁科芳雄等は、英国の学術雑誌ネイチャーに、『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速中性子によって生成された核分裂生成物)』と題して、2個の中性子が放出される(n. 2n)反応や、複数の対象核分裂を伴う核分裂連鎖反応(臨界事故)を起こした実験成果を投稿してあり、同年7月6日に掲載されることになる。鈴木は東京帝国大学の物理学者嵯峨根遼吉(当時は助教授)の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出した。安田はその報告書を持って東条英機陸軍大臣ら軍の上層部に原子爆弾の開発を提案するとともに、各大学、研究機関、主な民間企業にも報告書を配布した(この時点ではまだ機密ではなかった)。1941年5月陸軍航空技術研究所から理化学研究所の大河内正敏所長に「ウラン爆弾製造の可能性について」の研究が正式に依頼された。これを受けて仁科芳雄主任研究員は6月から研究に着手した(仁科は当初この要請を断ったという証言もある)。その2年後、1943年5月に「技術的にウラン爆弾製造は可能と考えられる」という内容の報告書を提出した。この報告を受け、航空本部長に就いていた安田中将は直ちに部下の川島虎之輔大佐に研究の推進を命ずるとともに、これを最高軍事機密扱いにし、航空本部直轄の研究とした。以後、川島が中心になって研究が進められることになった。軍の研究を外部に委託するときは航空技術研究所を通すのが通例であった。上部機関である航空本部が直轄とするのは極めて異例であり、この一件のみであった。アメリカ合衆国によるマンハッタン計画が開始された翌年の1943年5月に、理化学研究所の仁科博士を中心にニ号研究(仁科の頭文字から)が開始された。この計画は天然ウラン中のウラン235を熱拡散法で濃縮するもので、1944年3月に理研構内に熱拡散筒が完成し、濃縮実験が始まった。原爆の構造自体も現在知られているものとは異なり、容器の中に濃縮したウランを入れ、さらにその中に水を入れることで臨界させるというもので、いわば暴走した軽水炉のようなものであった。濃縮ウランも10%程度ものが10kgで原爆が開発できるとされていた。この原爆開発原理には基本的な誤りがあったことが、黒田和夫の保管していた旧陸軍内部文書により発見された。しかし、同様の経緯である1999年9月の東海村JCO臨界事故により、殺傷力のある放射線が放出されることは明らかとなっている。理化学研究所におけるニ号研究では、仁科研究室にウランを供給するため飯盛研究室も参加した。主任研究員の飯盛里安は、ウランが核エネルギー源になることが知られる以前の1922年からウラン鉱の探索を行っていた実績を買われたためである。当時ウランの用途はほとんど無く、飯盛はウランが目的でなく放射科学の研究に必要なラジウムを得ることが目的であった(ラジウムは常にウランと共存している)。仁科研究室の体制は、木越邦彦が六フッ化ウランの製造、玉木英彦がウラン235の臨界量の計算、竹内柾が熱拡散分離装置の開発、山崎文男がウラン235の検出を受け持ち、陸軍航空本部から物理化学系大学出の若い10人の将校が派遣され研究テーマごとの班に配属されていた。仁科研究室の全員がニ号研究に参加したわけではない。宇宙線、理論、サイクロトロンの担当者はノータッチであった。朝永振一郎が協力を申し出たが、仁科は必要ないと言って断った。原子爆弾を作るにはには天然ウランの中に0.7%しか含まれていないウラン235を取り出さなければならない。ウラン235の原子核に中性子を当てると核分裂が起こり、大きなエネルギーが放出される。天然のウランは大部分がウラン238でこれは核分裂しない。ウラン238とウラン235は同位体であって化学的にはまったく同じなので化学的な方法では分離できない。分離するにはわずかな質量差を利用して物理的な方法で分離しなければならない。ウランは金属で、そのままでは分離できないので六フッ化ウランという揮発性の化合物に変えて分離に供する。当時知られていた分離法にはがあった。本来なら全部試して一番適した方法を選ぶべきだが、当時の日本では時間も資材もなく、理研は一番手っ取り早い熱拡散法を採用することに決めた。竹内柾が作った分離筒の概要は、直径約5センチメートル、高さ約5メートルの銅製の二重の筒である。外筒と内筒の間には2ミリメートルの隙間がある。この隙間に六フッ化ウランのガスを入れ、内筒の中のニクロム線に電流を流して240 - 250度に加熱し、外筒の周りは約60度の温水を入れたウォータージャケットで囲んである。外筒と内筒の温度差で六フッ化ウランガスが対流を起こし、重いウラン238は塔の下部へ、軽いウラン235は上部に溜まる。塔の材質、寸法などは理論的な裏付けがあるわけでなく、適当に見当で決めたものである。理研ではもちろん六フッ化ウランを製造した経験は無かった。六フッ化ウランは、フッ素とウランを反応させて作るが、まずフッ素を作らなければならなかった。フッ素は反応性が激しくガラスさえ腐食されるので、作るのは大変むずかしかった。結局フッ素を作れるようになるまで約1年かかった。さらに六フッ化ウランを作れるようになるのに約1年を要し、分離実験に取り掛かったのは戦争末期であった。仁科は研究室員から「親方」と呼ばれ親しまれていたが、しばしば雷を落とした。研究室員でやられなかった者はいなかった。怒鳴ったあとはケロリとしているので、誰もそれを根に持つことはなかった。六フッ化ウランができなくて四苦八苦していた木越はある日仁科に呼び出されて「お前はいったいどんな気持ちでやっているんだ。できるのかできないのか」と怒鳴られた。木越は平然と「できません」と答えた。仁科は「そんなつもりでやっているんなら…」と言っていったん口をつぐんだ。木越は「やめちまえ」と言われると思ったが、仁科は語調を変えて「まあ、やってみろ」と言った。その後、木越は文献を調べてウランを炭化物(ウランカーバイド)にしてからフッ素を作用させる方法を見つけた。自宅から配給の砂糖を持ってきて電気炉で加熱して炭素を作り、ウランと反応させてウランカーバイドを作った。これにフッ素を作用させて米粒ほどの六フッ化ウランを作ることができた。深夜のことだったので、朝出勤してくる仁科に報告したくて待ち遠しかったという。実験を続けるには砂糖が必要だったので、軍に交渉したところ、配給用の砂糖に手をつけるわけにはいかないとして、わざわざ台湾に飛行機を飛ばして10キログラムほどを都合してくれた。理研では「木越のところに行くと砂糖がなめられるぞ」という話が広がり、多くの人が役得にあずかった。その後、砂糖の代わりにデンプンがに使えることが判ったので、以後はデンプンを使うことになった。1944年7月14日から六フッ化ウランを分離筒に入れて分離実験を始めた。しかし、六フッ化ウランの強い腐食作用により、分離筒に穴が開く事故が頻発し、しばしば実験を中断しなければならなかった。修理に時間がかかるため実験は遅々として進まなかった。軍からは「どうなっている」という催促が度々あって仁科は大変困惑していた。空襲によって分離筒が焼失するまで6回分離実験を行ったが、6回とも分離はうまくいかなかった。分離筒が焼失した後、理研の一部は山形高校に疎開し、木越は六フッ化ウランの製造を続けるとともに、なぜ分離がうまくいかなかったを考えた。そこで分子間力を考慮に入れると、分離筒の中で起こっているのは、単に重いウラン238は下へ、軽いウラン235は上に、という単純な現象ではないことに思い至った。熱拡散法はアメリカとドイツでも試みられていたが、1941年に熱拡散法ではウラン235は分離できないという結論が出ていた。つまり理研で熱拡散法を選んだ時点ですでにこの方法では分離できないことが確認されていたのである。終戦時、木越は残っていた六フッ化ウランを山形高校の校庭に埋めた。後年訪れたとき、様子がすっかり変わっていてどこに埋めたかわからなかった。1944年暮れころ、撃墜したB-29から回収した東京の地図に理研が重要目標として記入してあった。これを知った航空本部は鈴木辰三郎に、いずれ理研はやられるから別の場所にも分離筒を設けたほうがよいと勧告をした。鈴木は大阪帝国大学の菊池正士研究所に分離筒を建てることにした。理研の分離筒は、熱膨張により内筒が外筒に癒着する欠点があったので、鈴木は内筒の内側にさらに鉄製の筒を入れて補強する構造を考えた。仁科は「鉄と銅は熱膨張率が違うからそんなもんくっつけたってだめだ」と反対したが、鈴木はそれなりに成算があったので仁科を説得して了承してもらった。外筒と内筒の隙間は2ミリメートルでは広すぎると考え、1.5ミリメートルとした。ここに同じものを3本建てたが、実験に取り掛かる前に大空襲があって水も電気も止まって実験どころではなくなってしまった。さらに鈴木は軍需省から尼崎市の住友金属鋼管(現・日鉄住金鋼管)の工場に分離筒を建てることを指示された。ここには資材が豊富にあり、ベテランの工員がたくさんいたので、作業は容易であった。ここには、大阪帝国大学と同じものを5本建て、窒素や二酸化炭素を用いて予備試験を行って、鉄と銅の膨張率の違いの件はうまく行くことが確認された。あとは六フッ化ウランの到着を待つのみになった。鈴木はいずれここも危なくなると考え、三重県名張市にある妻の実家の敷地に分離筒を移設しようと100坪ほどの建物を実験棟に改装したり、床や水道の工事をした。もちろん、妻にも親族にも目的は明らかにしなかった。しかし、分離筒を移設する前に終戦になった。終戦時、大阪帝国大学と尼崎市にあった分離筒は解体され、近くの川などに投棄された。仁科は、金沢市にも分離筒を建てようと、航空本部から派遣されて竹内柾のもとで仕事を手伝っていた佐治淑夫中尉ほか数名を金沢に派遣した。市内は空襲が激しいので郊外にある金沢高等工業学校を借りて作業場とした。しかし、資材がまったく手に入らなかった。苦労の末、北海道帝国大学からやっと真空ポンプを譲ってもらったが、何も進展しないまま終戦になった。当時は岡山県と鳥取県の県境に当たる人形峠にウラン鉱脈があることは知られておらず、1944年から朝鮮半島、満洲、モンゴル、新疆の地でもウラン鉱山の探索が行われたが、はかばかしい成果がなかった。同年12月に日本陸軍は福島県石川郡石川町でのウラン採掘を決定した。1945年には飯盛里安が率いる実験施設の理研希元素工業扶桑第806工場を開設し、4月から終戦まで旧制私立石川中学校の生徒を勤労動員して採掘させた。しかし、そこで採掘される閃ウラン鉱・燐灰ウラン石・サマルスキー石等は、ごく少量であり、ウラン含有率も少ないものであった。一方、日本海軍は、中国の上海におけるいわゆる闇市場で130kgの二酸化ウランを購入する一方、当時、チェコのウラン鉱山がナチス・ドイツ支配下にあったので、ナチス・ドイツの潜水艦 (U-234) による560kgの二酸化ウラン輸入も試みられたが、日本への輸送途中でドイツの敗戦となり、同艦も連合国側へ降伏してしまった(この点に関して、詳細はU-234及び遣独潜水艦作戦の項目参照)。こうして、どちらにせよ原子爆弾1個に必要な臨界量以上のウラン235の確保は絶望的な状況であった。海軍で一番早く原子爆弾に注目したのは、海軍技術研究所の伊藤庸二大佐(電波兵器が専門)である(1939年頃)。1941年11月、アメリカの不審な動き(ウラン鉱石の国外持ち出し禁止など)を察知して知友である東大医学部の日野寿一と理学部の嵯峨根遼吉に原子爆弾の開発を相談した。両名ともその調査の必要性を力説した。その月の終わりまでに海軍技術研究所の上司・電気研究部長佐々木清恭にこの件を諮った。佐々木は日野、嵯峨根の意見を聞き、関係方面と交渉の結果海軍技術研究所の責任において調査に乗り出すことに決定した。ただしこの計画書の目的は原子力機関となっていて原子爆弾の文字は無い。もちろん、本当の目的は原子爆弾であったが、刺激的な文句は使うまいという心遣いであった。海軍は、原爆研究機関「核物理応用研究委員会」(委員長は仁科芳雄)を発足させ、第一回の会合を1942年7月8日、芝の水交社で開催した。メンバーは理研の長岡半太郎、東大の西川正治、嵯峨根遼吉、日野寿一、水島三一郎、阪大の浅田常三郎、菊池正士、東北大の渡辺寧、仁科存、東京芝浦電気(現・東芝)マツダ支社の田中正道らであった。この委員会は1943年3月6日まで十数回開催された。しかし、戦局が進むにつれ「電波兵器(レーダー)研究担当の立場にある者が余分なことに力を浪費している」との批判が部内から出たため、この研究は中止されることになった。研究の中止に際して伊藤大佐は「だれかほかに代わってやってくれる人はないものか」と嘆いたという。この委員会で出された結論は「原子爆弾は明らかにできるはずだ。ただ、米国といえども今次の戦争中に実現することは困難であろう」というものであった。その頃、仁科が航空本部の川島少将に「あちこちから原爆、原爆と言われても困るから軍の窓口は航本(航空本部のこと)一本にまとめてほしい」旨の要望をしたことから、研究の主体は自然と陸軍に移っていった。ミッドウェー海戦の惨敗以来、主力艦船のほとんどを失った海軍は危機感を募らせ艦政本部の主導で原子爆弾の研究開発の再開を企てた。1940年頃、ドイツの”ニトロチェルローゼ”という火薬の専門誌に火薬の権威シュテットバッハーが『アメリカの超爆薬』という題の論文を発表した。海軍火薬廠の村田勉少佐がこの論文を翻訳し、艦政本部、火薬廠、各工廠の幹部に配った。この論文には「約1グラムのウラニウム235に緩速中性子をあて核分裂をさせると、当時日本で作っていた松印ダイナマイト13,500トン相当のエネルギーが出る」とあった。艦政本部の千藤三千造大佐、磯恵(いそめぐむ、海兵41期)大佐、三井再男(みついまたお、海兵49期)大佐(いずれも火薬の専門家)はこの論文に着目し、ぜひ海軍で研究しなければならない、という話になった。三井の回想によれば1941年10月、磯大佐からもちかけられた。しかし海軍には人材も設備もないので、磯大佐の出身校である京都帝国大学理学部の荒勝文策教授に研究を依頼することになった。荒勝教授へ協力依頼をするため磯大佐が荒勝研究室を訪問した。これがF研究の始まりである。その日時については、戦後読売新聞社のインタビューに対し「着ていた背広が冬服だったので、昭和17年(1942年)10月過ぎだったろうね」と答えている。しかし、戦後GHQに提出した公式の報告書には「1943年5月、本研究を海軍の研究として荒勝教授に委託することになり…」と記載されている。荒勝研の木村毅一助教授は「僕が聞いたのは、もっとおそく18年(1943年)の終わりではなかったか」と述べている。同研究室の清水栄講師は「20年(1945年)のはじめごろではないか」と述べている。原爆研究の理論面を担当した小林稔教授は「19年(1944年)の9月か10月だと思う」と述べている。荒勝教授自身は次のように述べている。このように各人の見解がばらばらなのは、荒勝教授が依頼を受けてからいろいろと可能性を検討するのに時間を要し、個々の研究者にそのときどきに役割を付したためと考えられている。三井は、他の研究も含めて海軍側が絶えず出入りしていたため「いつ頼んだかわからないぐらい密接だった」と回想している。つまりF研究がいつ始まったかは特定できない。荒勝研究室(海軍側)ではウラン235を分離する方法として、理研と同じ熱拡散法では意味がないので、次に可能性がある遠心分離法を採用することにした。遠心分離法は、六フッ化ウランガスを入れた円筒形の容器を高速回転させることにより重いウラン238は外側に、軽いウラン235は中心付近に溜まることを利用する方法である。概算してみると、回転数は毎分10万回転以上の超高速が必要であることがわかった。当時高速回転するものとしては船舶用ジャイロが知られていた。当時船舶用ジャイロは北辰電機と東京計器が製造していたので、両社に協力を要請し、分離装置の試作を依頼した。これとは別に荒勝研究室でも独自に研究を進めた。ジャイロの回転数は数千回転くらいであり、当時の技術で実現可能なのはせいぜい3 - 4万回転くらいが限界と考えられていた。高速回転で一番の問題は軸受けの摩擦であり、超高速回転を実現するにはこれまでとはまったく別の仕組みを考えなければならなかった。東京計器が考えたのは、目標を15万回転とし、回転体を圧縮空気で浮かせ誘導モーターで回転させる方法である。ただ、回転体を宙に浮かせると回転にブレが出てしまう。ブレを防ぐには心棒がなくてはならない。しかし心棒が太いと摩擦が大きくなるので、注射針くらい細いものを考えた。これは設計図の前の下書きの段階で終わっている。荒勝研究室で考案したものは、空気で浮かせる点で東京計器のものと似ているが少し違う。それはお椀を半分にしたような形の容器の外側の横腹に刻みを付け、これに向けて空気を吹き付ける。すると容器と受けの間に空気が入ってエアクッションになると同時に刻みの角度によって吹き込まれた空気で容器が高速回転する。ブレが出ると電気的に検出して正しい位置に戻す。超高速回転をすると、容器には10万Gくらいの遠心力が掛かることが予想され、普通の材料では振り切れてちぎれてしまう。荒勝の知り合いが名古屋の住友金属工業にいて、航空機に使う超々ジュラルミンを作っていることがわかり、サンプルを少し貰ったが、工場はその後すぐ爆撃されて入手できなくなった。この装置も設計前の下書きの段階で終わっている。1944年2月13日、海軍大佐高松宮宣仁親王(昭和天皇弟宮)以下、迫水久常(内閣参事官)、仁科存(東北大)、湯川秀樹(京大)、菊池正士(技研)、中野秀五郎(東大)、仁科芳雄(理研)、西谷啓治(京大)、水島三一郎(東大)、仁田勇(阪大)、渋沢敬三(日銀副総裁)、水間一郎(技研)、深川修吉(日本無電)が集まり会合を開催。1945年7月21日、琵琶湖ホテルで京大と海軍の第一回合同会議が開かれた。出席者は京大から荒勝文策、湯川秀樹、小林稔、佐々木申二、海軍から北川敬三少佐、三井再男大佐、東京計器顧問の新田重治であった。そしてこれが最初で最後の会議となった。荒勝は戦後になってから「あんな会合やったってしょうがないですわ。だけどやらないとかっこうがつかない」と述べている。荒勝は終戦後もF研究と関係なく回転体の研究をしばらく続けた。F研究以前から関心のあるテーマだったからである。1949 - 1950年ころ、直径0.3ミリメートル、高さ1.5センチメートルくらいのクギ状の鉄の棒を真空中で毎分 1,716,000回転させることに成功した。遠心力は 4,930,000Gであった。F研究に何も成果がなかったわけではない。京大工学部の岡田辰三が、日本で初めての金属ウランの製造に成功した(3センチメートル角、厚さ1ミリメートル)。理研では粉末状のウランしか作れなかった。理研の木越が試しに粉末状のウランにフッ素を作用させたところ、試験管が破裂して木越は危うく失明するところだった。そのため理研では六フッ化ウランを作るのに別の方法を探さなければならなかった。岡田が作った記念すべき金属ウランは京大に長く保存すべきものだったが、行方不明になってしまった。もう一つの成果は、湯川研究室の小林稔がウラン235の臨界量を理論的に算出したことである。ウラン235の原子核に中性子が当たるとエネルギーとともに2個以上の中性子が放出される。その中性子が他の原子核に当たると4個、さらに8個、16個、32個という具合に幾何級数的に中性子が増加して連鎖反応が起こり、短時間で一挙に巨大なエネルギーが放出される。しかし、現実の原子は隙間だらけで、多くの中性子は原子核に当たらないまま外に逃げてしまう。ウラン235の塊がある程度以上の大きさがあれば、中性子は外に出る前にいずれかの原子核にあたり、連鎖反応が起こる。この量が臨界量である。小林は手回し計算機で二晩くらいかけて拡散方程式を解いて、半径10センチメートルから20センチメートルくらいの塊があれば連鎖反応が起こって爆弾になるという結果を得た。また日本海軍としては連合軍側が原爆を実戦投入した際の防御(対策)研究という側面もあり、広島原爆投下では日本側原爆研究関係者が現地調査に赴いている。航空本部の鈴木辰三郎によれば、1945年初めころ海軍の技術関係者が航空本部にやってきて「海軍の方でも原子爆弾の研究をやることになった。一からやっていたのでは間に合わないし、むだだから仁科研でやっていた実験データを教えてほしい」と頼まれた。航空本部でもこの段階にきては陸軍だの海軍だの言っている場合ではない、ということで仁科研のデータを全部渡した、という。また、京大で六フッ化ウランの製造を受け持つことになった佐々木申二が理研の木越のところにやってきて、六フッ化ウランの製造を見学した。木越はそれで京大でも原爆の研究をしていることを初めて知ったという。さらに、荒勝教授が理研にやってきて(時期不明)仁科の案内で熱拡散分離筒を見学している。荒勝は、物資不足の戦時下によくこれだけのものを作った、と努力を評価している。また陸軍側はウラン鉱石の入手に難儀しており、児玉誉士夫(児玉機関、上海市拠点)を通じてウランを入手していた日本海軍に「陸軍にもウラン鉱石を分けてくれ」と申し出た事もあったという。1945年4月13日のアメリカ軍による東京大空襲で熱拡散筒が焼失したため、研究は実質的に続行不可能となった。その後、地方都市(山形、金沢、大阪)での再構築をはじめたが、同6月に陸軍が研究を打ち切り、7月には海軍も研究を打ち切り、ここに日本の原子爆弾開発は潰えた。理化学研究所の熱拡散法はアメリカの気体拡散法(隔膜法)より効率が悪く、10%の濃縮ウラン10kgを製造することは不可能と判断されており、京都帝国大学の遠心分離法は1945年の段階でようやく遠心分離機の設計図が完成し材料の調達が始まった所だった。結局日本の原爆開発は最も進んだところでも基礎段階を出ていなかった。日本は、8月6日の広島市への原子爆弾投下、8月9日の長崎市への原子爆弾投下で被爆し、8月14日にポツダム宣言を受諾した(調印は9月2日)。敗戦後、GHQにより理化学研究所の核研究施設は破壊された。なお、この際に理研や京都帝大のサイクロトロンが核研究施設と誤解されて破壊されており、その破壊行為は後に米国の物理学者たちにより「人類に対する犯罪」などと糾弾され、当時のアメリカ陸軍長官であるロバート・ポーター・パターソンが破壊を誤りと認めた(ただし、京都帝大のサイクロトロンの「ボールチップ」と呼ばれる部品は関係者の手で保管され、現在は京都大学総合博物館に収蔵されている)。F研究責任者だった荒勝文策の当時の日誌によると、1945年11月20日に進駐軍将校が来訪し、荒勝は「全く純学術研究施設にして原子爆弾製造には無関係のもの」と抗議したがGHQの命令として受け入れられず、施設破壊後の実験室を「惨憺たる光景であった」と記している。荒勝には施設破壊ばかりではなく研究関連文書やウラン・重水などの提出も求められた。その後、1947年1月に極東委員会が原子力研究の禁止を決議し、占領が終了するまで原子核の研究は一切不可能となった。1945年5月中頃、仁科は会議室に研究者を集め、ニ号研究の中止を決議した。5月末、派遣将校の鈴木辰三郎(航空本部との連絡をしていた)に口頭で「もうウラン爆弾はできない、この状態では無理である」と伝えた。鈴木はただちに航空本部に戻り、それを陸軍大臣に伝える手続きをとった。しかし、この情報は石川町の採掘現場に伝わらず、石川町の生徒たちは玉音放送の日まで作業を続けた。担当の第8陸軍技術研究所の山本洋一少佐は、のちになって「気の毒なことだった」と何度も繰り返したという。飯盛里安の手記「終戦の日の証言」には「当時石川町の選鉱場に残存したアマン百数十トン、モナズ石粉末十数トンを地下に埋めたり川に流したりした」と書いている。これが原因で、数億円相当のウラン鉱石が埋まっているという噂が広がり、1955年ころ山師が町役場に採掘許可を求めて危うく発掘されそうになる騒動があったと伝えられている。理研飯盛研究室助手で理研希元素工業扶桑第806工場長の畑晋(はたすすむ)は私信の中に「…GHQからウラン関係の原材料・製品は没収された」と書いている。理研希元素工業総務部長の新津甚一は手記「南から北へ八十年」の中に「占領軍の技術将校をふくむ数人がジープで工場にやってきたが、驚いたことにわが社がもっていた原鉱石の種類や数量をおよそ正確に知っていた。スパイがしらべたのではないかという話もでたが、東京で予め調べてきたのかも知れない。何れにせよ、現状のままにして管理するよう命ぜられた」と書いている。ニ号研究・F研究には当時の日本の原子物理学者がほぼ総動員され、前記の通り戦後ノーベル賞を受賞した湯川秀樹(F研究)も含まれていた。関係者の中からは、戦後に湯川を始め被爆国の科学者として核兵器廃絶運動に深く携わる者も現れるが、戦争中に原爆開発に関わったことに対する釈明は行われなかった。この点に関し、科学史を専門とする常石敬一は「少なくとも反核運動に参加する前に、日本での原爆計画の存在とそれに対する自らの関わりを明らかにするべきであった。それが各自の研究を仲間うちで品質管理をする、というオートノミー(引用者注:自治)をもった科学者社会の一員として当然探るべき道だったろう」と批判している。ニ号研究に投入された研究費は、当時の金額で約2000万円であった。ちなみに、アメリカのマンハッタン計画には、約12万人の科学者・技術者と約22億ドル(約103億4千万円、当時の1ドル=4.7円)が投入されている。日本はポツダム宣言を受諾したが昭和天皇は玉音放送の中で「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯(かく)ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子(せきし)ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ」と原子爆弾投下を受諾の理由に挙げた。第二次世界大戦後の日本は、原子爆弾・水素爆弾などの核爆弾を含む核兵器を保有しておらず、開発計画もない。1953年12月8日、アイゼンハワーアメリカ合衆国大統領が国連総会で「原子力の平和利用 ("Atoms for Peace")」と題する演説を行い、日本にも原子力を平和のために利用することの道が開かれてから、日本は原子力開発を非軍事に限定して積極的に行ってきた。理由は石油などのエネルギー源をほとんど海外に依存している事への危険感からである。1954年に、初の原子力予算を成立させ、日本原子力研究所を設置した。これを皮切りに、複数の大学や民間企業が研究用原子炉を建設し、原子力発電を主目的として核技術の研究を再開した。更に核燃料サイクルの完成を目指して、高速増殖炉(常陽ともんじゅ)や新型転換炉(ふげん)、再処理工場(東海再処理施設と六ヶ所再処理工場)などの開発を積極的に行っている。この分野では核兵器非保有国の中で最も進んでおり、原料となる使用済み核燃料も大量に保有している。なお、原子力基本法では「原子力の研究、開発および利用は、平和目的に限る」と定められており、核燃料の供給国と結ばれた二国間の原子力協定でも、軍事転用や核爆発装置の開発が行われた場合の返還義務を明示している。また、日本は国際原子力機関 (IAEA) による世界で最も厳しい核査察を受け入れている国でもある(駐在査察官の人数も200人で最大)。2004年6月15日のIAEA理事会では日本の姿勢が評価され、「核兵器転用の疑いはない」と認定し、査察回数を半減する方針も明らかにされている。原爆開発に従事した科学者の中には戦後の原子力政策に関わった者も多く、ニ号研究に従事した西脇安は原子力政策へ関与の他、放射線生物物理学の専門家として第五福竜丸が焼津港に水揚げした「原爆マグロ」の放射線調査を行なっている。2010年10月3日放映のNHKスペシャル「核を求めた日本」では、元外務事務次官の村田良平(2010年3月死去)の証言をもとに、核拡散防止条約調印後の1969年に、日本の外務省高官が西ドイツ外務省の関係者(当時、分析課長の岡崎久彦、国際資料室の鈴木孝、調査課長の村田良平と政策企画部長のエゴン・バール、参事官のペア・フィッシャーとクラウス・ブレヒ)らを箱根に招いて、核保有の可能性を探る会合を持っていた事実を明らかにした。また、当時の佐藤内閣が、専門家の意見を集めた上で内閣情報調査室に極秘に核兵器の製造能力についての報告書を作成させていた事実も明らかにされた。報告書では外交・内政上の障害を理由に「有効な核戦力を持つには多くの困難がある」と結論づけていた。これらの背景には1964年に中国が核保有国となったことが挙げられている。この報道を受けて外務省は、省内で調査をおこなった結果を同年11月29日に報告書として発表した。それによると、日本と西ドイツの外交当局者が1969年に「政策企画協議」を東京で開催した後に箱根で懇談した事実を確認し、「政策企画協議」自体は「自由な意見交換が目的で、政策の交渉や調整の場ではない」としたものの、西ドイツ側関係者の証言などに基づき、日本の核保有の可能性に関連する発言が「何らかの形でなされていた可能性を完全に排除できない」と結論づけている。

出典:wikipedia

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