


呼出(よびだし)とは、大相撲での取組の際に力士を呼び上げる「呼び上げ」や土俵整備から太鼓叩きなど、競技の進行を行う者。呼び出しとも書かれる。行司と異なり特に受け継がれている名跡はないが、力士・行司と違い、下の名前しかないことが特徴。呼出の元々の云われは上覧相撲の際に、次に土俵に上がる力士の出身地や四股名を披露する人がおり、「前行司」といって行司の役割に含まれる職種であった。江戸時代以後に勧進相撲になり組織的な制度ができるにつれて独立した職種となった。「触れ」とか「名乗り上げ」と呼ばれた時代もあったが、享和年間(1801-1804年)になって「呼び出し」といわれるようになった(しかし、それ以前の寛政年間(1789-1801年)の番付に「呼び出し」の文字が確認されている)。現在の呼出の定員は45人、採用資格は義務教育を修了した満十九才までの男子、停年(定年。以下同)は65歳。大相撲においては、力士、行司、床山と同様に各相撲部屋に所属する。呼出の主要な役割は、呼び上げ、土俵整備、太鼓叩きであるが、その他にも多種多彩な業務を行っている。現在では全員が呼び上げを行っているが、古くは分業制で、呼び上げ専門の呼出もいれば、他の仕事を専門とする者、つまり「呼出と名がつくものの、呼び上げない呼出」もいた。現在のように全員が呼び上げを行うようになったのは、1965年(昭和40年)からである。また、呼び上げのときの声の通り具合や声量は評価の対象ともなっている。大相撲において、呼出の番付制が導入されたのは1994年(平成6年)7月場所からで、以下の9階級となる。それまでの階級は、1等から5等までの等級制であった。それと同時に本場所における場内アナウンスでも紹介されるようになった。現在は十両呼出以上の名前が番付に書かれており、それ以前は1949年(昭和24年)5月場所から1959年(昭和34年)11月場所までの10年間、呼出が番付に掲載された(番付には「呼出し」と書かれた)。初めて呼出として番付に掲載された者は太郎、夘之助、栄次郎、源司、安次郎、栄吉、福一郎、小鉄、徳太郎、茂太郎、粂吉、松之助、寅五郎、雄次、多賀之丞、島吉の16人。9階級の役責に分類され、行司の階級と違い、幕内格、十枚目格といった「格」という名称は用いない。力士・行司はすべての階級が番付に表記されているが、呼出は十枚目呼出以上が番付表に表記されていて幕下呼出以下は番付表に表記されない。また、幕下格以下の行司と同様、幕下呼出以下は本場所の取組における場内アナウンスでの紹介は行われていない。ただし、千秋楽の幕内土俵入りの前に行われる十枚目以下各段の優勝決定戦では、幕下格以下の行司・幕下呼出以下でも「呼出は○○、行司は木村(式守)○○、○○(階級)優勝決定戦であります」との場内アナウンスが行われる。基本的にはほぼ年功序列であるが、昇格のときに地位の追い抜きが発生することもある。例えば、1999年1月場所から2000年11月場所までは次郎と克之の序列が現在と入れ替わっていた。なお階級とは別に、行司の松翁に相当する名誉称号として松扇が制定されているが、これまで1人も出たことがない。2016年9月場所現在1888年、本所南二葉町(現在の墨田区亀沢)の俥屋の長男に生まれた。本名:戸口貞次郎。すぐ隣が大関初代朝汐太郎の家だったこともあり、相撲の盛んな町に育った。その朝汐の口利きで1898年、11歳のとき呼出親分の勘太郎の弟子となり、朝汐にあやかって「太郎」の名をもらう。入門5年目に小結源氏山頼五郎以下40余名の脱走事件があり、そのとき太郎も一緒に飛び出している。これが苦労の始まりで、いろいろ地方を渡り歩く長い放浪時代もあり、無謀なことも数々やったが、やがて大坂相撲に縁ができ、呼出として再起。大坂相撲の呼出は満足に太鼓を叩ける者がおらず、太郎はにわかに頭角を現すこととなる。ここで行司の木村金八(後の木村錦太夫、22代木村庄之助)と知り合い意気投合、生涯の交遊が始まる。大坂相撲時代、巡業先で太鼓を質に入れたため、宿でカラの醤油樽を借りて叩いたが、仲間の内誰も気がつかなかったという。その後、昭和時代の幕開けとともに、東京と合併。太郎は大坂の呼出を全員東京に売り込んで男を上げた。親分の下地はそのときからで、太鼓も東京の呼出の誰にも負けなかったという。停年退職した1960年まで63年間を貫き、「太鼓の名人」「相撲界の名物男」「呼出の親分」として知られた。また両国の自宅を長年相撲記者クラブに解放し世話係を務め(停年後も続けていた)、確固たる地位を築いた。この頃はもう櫓に上がることはなかったが、花相撲のおりの「太鼓の打ち分け」はまさに圧巻、独壇場の名人芸だったという。1952年1月に行われた巣鴨拘置所、A級戦犯慰問大相撲で「太鼓の打ち分け」を披露し、荒木貞夫、鈴木貞一、畑俊六ら10人の旧日本軍の重鎮、軍閥の連名からなる礼状が届けられた。所属が角界一の大部屋出羽海部屋ということも幸いし、7代出羽海(元横綱常ノ花)、8代春日野(元横綱栃木山)の両取締とは気軽に口の聞ける立場にあった。16人の呼出の名前が初めて載った1949年5月場所前、太郎は協会で取締に「呼出も番付の隅っこに名前を載っけて欲しい」と請願したことがきっかけで、世話人とともに番付に掲載されることになった。これは1959年11月場所、太郎が停年退職する直前まで10年間続いた。1969年11月3日、秋の叙勲で勲六等単光旭日章を受章。相撲界では初めて生存者叙勲の光栄に浴した。1970年1月8日には武藏川理事長、春日野審判部長(元横綱栃錦)をはじめ180人が出席し祝賀会が挙行された。席上、高橋義孝横綱審議委員は「醤油樽叩いてもらう勲六等」の句を披露し祝福した。1971年3月3日、83歳で逝去。
出典:wikipedia
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