ヤマハ・YZR500(ワイゼットアールごひゃく)は、ヤマハ発動機がオートバイロードレース世界選手権と全日本ロードレース選手権500ccクラスに開発・投入した、競技専用2輪車両(オートバイ)の車種名称。YZRとは、“Y”ヤマハの“Z”究極の“R”ロードレーサーの意味である。YZR500のモデルである0W70は、始動性が悪かった。当時のスタート時のエンジン始動は押しがけであったが、ダッチTT(オランダGP)において、ケニー・ロバーツは押しがけ17歩目にして、やっとYZR500に乗ることができた。それに対して、フレディ・スペンサーは5歩目でNS500に乗っていた。ケニーは予選でポール・ポジションを獲得していたのだが、9位にまで落ちてしまい、シェブロン・ブリッジを過ぎる時には16位にまで落ちていた。YZR500の始動性の悪さについて、当時は、NS500の3気筒に比べてV形4気筒のエンジンレイアウトを持つYZRの特性によるもの、と言われていた。一説に0W70がロータリーディスクバルブを採用していたのが原因だという(NS500はリードバルブ)。K・ロバーツ(シニア)は予選で好位置を得ながらもスタートで後続に沈んでしまい、レコードを連発しながらも結局はトップに届かないレース展開が多かった。1980年代後半からのホンダ・NSRとスズキ・RGV-Γとの熾烈な争いでは、エンジンパワーに優れ最高速重視のNSR、軽快な車体で強力なブレーキングを得意とするRGV-Γに対してYZRは優れたハンドリングによる高いコーナーリング性能を武器としていた。ヤマハでは前年のYZRのスペックを反映した競技専門車TZをプライベートライダー向けに1980年から1983年に発売しており、YZR500の市販車とも言えるTZ500が存在する(価格は1983年型で280万円)。1973年、YZR500の第一号車として水冷2ストローク並列4気筒エンジンを搭載した0W20(ゼロダブル20)がデビュー。ヤーノ・サーリネンの手により、同年のフランスGPで初勝利。以後YZR500は1981年までピストンバルブ並列4気筒エンジンで進化を続け、その間にジャコモ・アゴスチーニ(1975年)、ケニー・ロバーツ(1978年~1980年)というチャンピオンを生んだ。日本車が世界GPの500ccクラスでライダータイトルを獲得したのは、1975年のアゴスチーニ+YZR500が初(メーカータイトルはホンダが1966年に獲得している)。排気系はオーソドックスな前方排気から、複雑にとぐろを巻いた排気管でチャンバー容量を稼ぐようになり、さらには2気筒前方排気、2気筒後方排気へと変貌していった。1981年シーズンにスクエア4ロータリーディスクバルブエンジン搭載の0W54がデビュー。最終戦でバリー・シーンが優勝に導く。1982年、前年デビューしたスクエア4エンジンの熟成型0W60に加えて、新たにV4(V型4気筒)エンジンを搭載した0W61が登場する。しかし早すぎた投入となったか、3年連続チャンピオン経験者のケニー・ロバーツや2年連続チャンピオン経験者のバリー・シーンにすら手に余る難題を抱えていた。同時出走したスクエア4の0W60はグレーム・クロスビー(ロバーツの補佐役)によりランキング2位を得る。なお0W61などのヤマハV4は、正確に言うとV4(1本のクランクシャフトに4つのピストン)ではなく、スクエア4の変形タイプ(2本のクランクシャフトを持つ)だった。1983年。2ストローク500cc・ロータリーディスクバルブの2軸クランクV4エンジン(スクエア4の変形)を、新設計のセミ・モノコック型アルミフレーム(アルミ・デルタボックスフレーム)に搭載した0W70がデビューする。この「デルタボックスとV4エンジン」というパッケージは、その後のYZR500の基本形となった。ケニー・ロバーツが6勝をマークしランキング2位。1984年、V4エンジンはシーズン途中にロータリーディスクバルブからクランクケースリードバルブに仕様変更を受け、メインフレームも大きく進化。ロバーツの後輩であるエディ・ローソンがシーズン4勝を上げ世界タイトルを獲得する。1985年以降も毎年熟成を重ね、1986年/1988年にローソン、1990年~1992年にウェイン・レイニーがそれぞれライダースチャンピオンを獲得している。、ヤマハはヨーロッパの有力コンストラクターに対して1990年型YZR500(0WC1)のエンジン販売を開始し、同時に0WC1の車体情報を公開した。これにより1992年のグリッドにはROCやハリスといった自社製のフレームにYZRのエンジンを搭載したマシンが並び、500ccクラスの活性化に貢献した。1992年からまでのコンストラクターズタイトルでは、ROCヤマハとハリスヤマハがそれぞれ4位・5位を占めている。2002年、WGP最高峰クラスがGP500から4ストロークマシン主体のMotoGPへ移行。2ストローク500ccマシンにも参戦の道は残されたが、レギュレーションの関係から4ストロークマシンでなければ勝てない状況となり、ヤマハの最高峰グランプリマシンの座を4ストロークのYZR-M1に譲り30年の歴史に終止符を打った。各モデルの説明はヤマハ発動機のWGP参戦50周年アーカイブを参考にする。太字はチャンピオンを獲得したライダー(括弧内は年度)。他メーカーでチャンピオンを獲得した年度は除く。
出典:wikipedia
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