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ジャーニー (バンド)

ジャーニー ("Journey") は、アメリカのロックバンド。1973年にサンフランシスコで結成され、メンバー交代や解散、再結成などを経て、音楽性を変えながら活動を続けている。サンタナ・バンドに参加していたニール・ショーンとグレッグ・ローリーを中心として、1973年にサンフランシスコで結成。数々のプラチナ・ディスクやゴールド・ディスクを獲得した。特に1980年代初頭、ボストンやTOTO、ヴァン・ヘイレンらと並び人気を得た。2005年01月21日に ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに手形と名前を刻んだ。1972年の『キャラバンサライ』発表後のサンタナが音楽性の変革やカルロス・サンタナの宗教問題からメンバー離散を起こし、ギタリストのニール・ショーンを当時のサンタナのロード・マネージャーだったハービー・ハーバートがサポートしようと画策。若手のグレッグ・エリコ(ドラム)、ピート・シアーズ(ベース)とのトリオ「ハッピー・バースデー」を結成するも、実質的活動がほぼないまま空中分解。その後「ゴールデン・ゲート・リズム・セクション」などと名乗り、サンフランシスコのクラブでセッション、ジャズ・ロック的なライブ活動をしていたところに、サンタナ時代の同僚であったグレッグ・ローリー(キーボード / ボーカル)が加わった頃からメンバーが固定化。ほかのメンバーは、ジョージ・ティックナー(ギター)、ロス・ヴァロリー(ベース)、プレイリー・プリンス(ドラム)である。まもなくドラマーがジェフ・ベック・グループやフランク・ザッパ&マザーズなどでキャリアを積んだエインズレー・ダンバーに替わり、1974年には当時のCBSコロムビア(のちのソニー・ミュージック)との契約を結んだ。デビューにあたっては、コンサートのフリーパスを懸賞としたバンド名公募が地元のラジオ局によって行われたが、ここではまともなアイディアが得られず、結果的にはスタッフの提案によって「ジャーニー」をバンド名とした。翌1975年にデビュー作『宇宙への旅立ち』を発表。セカンド・アルバム『未来への招待状』のリリース前にティックナーが脱退し、このアルバムと次作『』ではショーン、ローリー、ヴァロリー、そしてダンバーの4人編成となる。この当時のジャーニーは「インストゥルメンタル曲主体のプログレッシヴ系ロックバンド」という位置付けにあったが、商業的には振るわず、補強のためロバート・フライシュマンがバンド初の専任ボーカリストとして1977年6月から加入。ニュー・アルバムのための曲作りに参加しつつツアーに臨むも約3か月後のツアー中に解雇され、ほどなく二代目専任ヴォーカリストとしてスティーヴ・ペリーが加入。フライシュマンの解雇とペリーの加入は、当時のマネージャーであったハービー・ハーバート(かつてサンタナにロードクルーとして参加していた彼が「ショーンを中心としたバンドを作ろう」と思い立ったことがジャーニー結成のそもそもの発端であった)の戦略的判断によるものであったと言われている。スティーヴ・ペリーの加入により、バンドの方向性はそれまでにない劇的な変化を遂げることとなる。スティーヴ・ペリーはジャーニーに加入する直前まではエイリアン・プロジェクトというバンドに参加していたが、メジャー・デビューのための契約を間近に控えた1977年の夏にベーシストを交通事故で失い、エイリアン・プロジェクトとしてのメジャー・デビューの話は白紙となった(ペリー曰く「バンドは急いで彼の代わりを捜したんだけど、僕にとっては彼無しではもう以前と同じようなバンド活動は続けられなくなってしまった」)。エイリアン・プロジェクトとしての活動が停止した後、ペリーは故郷に戻ってしばらく農場で働いていたが、実はその間にエイリアン・プロジェクトのデモ・テープが業界関係者を通じてハービー・ハーバートのもとに届いていた。それを聴いたハーバートは、その可能性を高く評価しペリーをジャーニーへ加入させた(加入当初のペリーはハーバートの計らいからか、「ツアースタッフの親戚」という触れ込みでツアースタッフも兼務していたとされる)。1978年、4作目のアルバム『インフィニティ』では前作までのプログレッシヴ系ロックバンドとしての作風も維持しつつ、それと伸びの良いヴォーカル・パートを生かした躍動感ある楽曲との和合が特色となり、その後のバンドの方向性を明確に示す。このアルバムは全米21位のヒットとなり、初のシングル・ヒット曲を獲得(「ホィール・イン・ザ・スカイ」)すると共にプラチナ・ディスクを初めて獲得した。しかしダンバーはそれ以上のポップ化を図るバンド/マネジメントとそりが合わなくなり、脱退してジェファーソン・スターシップに移籍、新たなドラマーとしてスティーヴ・スミスが参加。ジャズの流れを汲む彼の演奏はハードロック的でポップな作風へとシフトしつつあったバンドの志向と合致し、1979年作の『エヴォリューション』アルバムでは全米チャート20位、続く1980年作の『ディパーチャー』では8位と更に勢いを増し、その中で歴代の代表曲となる「ラヴィン・タッチン・スクィーズィン」や「お気に召すまま」などのシングル・ヒットも記録。バンドはそれまで通りライヴ・ツアー主体の活動を続けつつ、より広範な聴衆と人気を獲得してゆくこととなる。また、前述『ディパーチャー』アルバムと同年に高田賢三が監督を務めた映画「」のオリジナルサウンドトラックも手がけた。その後、結成メンバーの一人であったグレッグ・ローリーが心労などの理由から脱退し、オリジナルメンバーはショーンとヴァロリーの2人だけとなる。ローリーは後任のキーボーディストとして当時ジャーニーの前座を務めていたベイビーズのジョナサン・ケインを推薦した。ケイン自身はこの時すでにベイビーズの主要メンバーであった自らの責任とジャーニーでの可能性との狭間で苦悩したが、最終的にジャーニーを選んだ。シンセサイザー世代であるケインはメロディックな曲を書くソングライターとしての素質も持っており、ジャーニーの楽曲に幅広いレパートリーを与えた。また演奏面でもブルージーで官能的なグレッグとは全く異なる爽快なサウンドをジャーニーの楽曲に加味した。ギターも演奏できたケインはショーンの手ほどきでギタリストとしても才能を現し、ライヴにおいては時としてショーンをサポートする「もうひとりのギタリスト」として演奏するなど斬新な印象をバンドの作風に盛り込んだ。ニール・ショーン(ギター)、スティーヴ・ペリー(ボーカル)、ロス・ヴァロリー(ベース)、スティーヴ・スミス(ドラム)、ジョナサン・ケイン(キーボード)の5人体制となった。ヒット作となるアルバムがリリースされたのもこの時期である。1981年に発表されたアルバム『エスケイプ』は、全米1位を獲得。ライブ・ステージの音響担当からレコーディング・エンジニアに昇格したケヴィン・エルソン(このアルバムの前作である『(原題:Caputured)』ではプロデュースを担当)とコンビを組んだ後に名プロデューサーと讚されるようになるマイク・ストーン(クイーンのプロデュースで一躍名を馳せたロイ・トーマス・ベイカーの愛弟子で、自らもクイーンの多くのアルバムでレコーディング・エンジニアを担当していた)、この2人の「生で演奏している音の雰囲気を殺さず音盤にする」力量が、レコード(当時)にはなかなか収め切れなかったライブ・バンドだったジャーニーの魅力を遺漏無く封じ込めることに成功したのも、彼らの出世を大きく後押ししたことは特記しておく必要があると思われる。なお、後にマイク・ストーンは、ジャーニーとの仕事で培ったレコーディングのノウハウをより洗練させエイジアの成功に大きく貢献した。金銭的に余裕が出来たからか、ニール・ショーンがヤン・ハマーとのものを皮切りに独自のプロジェクトを立ち上げる。ちなみに、バンドの作品中日本で最も有名なバラードの一つである「オープン・アームズ」もこのアルバムに収録されているが、この曲はジョナサンがベイビーズ時代に書き起こしたものの、当時のバンドのボーカリストであるジョン・ウェイトの反対に遭い陽の目を見ることのなかったものだ。シングルでジャーニー最高位の全米2位、そしてのちにマライア・キャリーの手になるカヴァーのリバイバル・ヒットと、記録的な一曲になった。続く1983年の『フロンティアーズ』も全米9週連続2位のメガヒットに輝く。『フロンティアーズ』は『エスケイプ』の幻想的な作風からバラードのヒット曲路線を継承しつつも、よりハードロック志向の強い曲も収録し、バンドの強い個性が出ている1枚だ。ちなみに当時の1位は前後37週にわたって居座ったマイケル・ジャクソンの『スリラー』である。この後、スティーヴ・ペリーは自身初のソロアルバムを発表し、さらにUSAフォー・アフリカにソロ・ミュージシャンとして参加。そしてニール・ショーンもまたソロ・プロジェクトの一環としてヤン・ハマーとの合作によるアルバムを発表。メンバー同士の不仲説が囁かれる中、再びジャーニーとしての活動に戻って次のアルバム『Raised On Radio〜時を駆けて』の制作が始まった時、ロス・ヴァロリーは参加せず、スティーヴ・スミスも一部の楽曲のみの参加であった。スミスは『エスケイプ』発表当時から自身のフュージョン・プロジェクト "Vital Information" を開始しており、ジャーニーでの成功によって金銭面の心配が無くなったのも手伝い、いわく「本腰を入れて取り組みたかった」というジャズに没頭すべくジャーニーを脱退したと言われている(この当時子供が出来たためツアーに出たくなくなったのも脱退の理由だとスミスが後年語っている)。そして1986年にリリースされたニュー・アルバム『Raised On Radio〜時を駆けて』ではスティーヴ・ペリー、ニール・ショーン、そしてジョナサン・ケインの3人だけが正式メンバーとしてクレジットされており、アルバム制作およびライヴ・ツアーにおいてはオーディション等を経て起用された臨時メンバー(詳細は後述「サポート・メンバー」の項を参照)が参加していた。このアルバムは過去最多となる5曲のヒット・シングルを生んだ。後年のライヴでも代表曲のひとつとして演奏されることが多い「トゥ・ユアセルフ(Be good to yourself)」はこのアルバムが初出である。その他、ラジオによって育まれたというメンバーそれぞれの音楽心をアルバムのテーマとしていたことから、従来にない試みとしてサックスを導入した楽曲(2曲目の『ポジティヴ・タッチ』)なども含まれていた。『Raised On Radio』アルバムは最終的には全米チャートの4位まで浮上するが、この年のライヴ・ツアーはスティーヴ・ペリーが心労を理由にリタイアを申し出たことにより約4か月で終了し、バンドとしての活動もまた休止状態に陥ってしまう。前作『Raised On Radio〜時を駆けて』のリリースから10年後の1996年、スティーヴ・ペリー、ニール・ショーン、ジョナサン・ケインの3人にロス・ヴァロリーとスティーヴ・スミスの2人を再び迎えた1983年当時のバンド・ラインナップによって、ジャーニーは新たなアルバム『』を発表。オリジナル・アルバム10作目にあたるこの作品は、最高3位の実績を残した。『トライアル・バイ・ファイアー』は全米アルバムチャートで3位に達するヒット作となったが、スティーヴ・ペリーが体調の不備を理由にツアーに出ることを渋ったことから再結成メンバーによるツアーは行われなかった。1998年にはライヴ盤『グレイテスト・ヒッツ・ライヴ』を出すも、同時にスティーヴ・ペリーの正式脱退が伝えられた(経緯については後述「過去在籍したメンバー」の項を参照)。その後、再びジャズ・ミュージックに専念したいという理由によってスティーヴ・スミスもまたバンドを離れることとなり、ジャーニーは新メンバーとしてスティーヴ・オージェリー(ボーカル)とディーン・カストロノヴォ(ドラム)を加え再スタートを切る。新たなるメンバーを擁したジャーニーは2000年秋にアルバム『』を発表。1980年代初頭におけるいわゆる「黄金時代」を彷彿させる幾多の楽曲が収められたこのアルバムは当初日本で先行リリースされ、次いで本国アメリカでも翌2001年春に発売されたが、ビルボード・アルバムチャートでは56位と伸び悩んだ。売り上げが伸びなかった原因の一つとしてファイル共有ソフトによる楽曲流出がある。2002年春、ジャーニーはデビュー以来その関係を保っていたソニー・ミュージックとの契約を解消し、80年代風ロックアーティスト専門のインディーズ・レーベルであるイタリアの【フロンティアーズ・レコード】に移籍してオンライン・マーケットでの作品流通を開始した(これに伴い、日本におけるジャーニーのアルバムの発売元はキングレコードとなっている)。同年8月、移行後初のアルバム『』を発表。2004年、日本映画『海猿』の主題歌として「オープン・アームズ」が採用されたことを受け、ソニー・ミュージックは既出のアルバム「Greatest Hits」をリニューアルした。そして同年秋、ジャーニーは3年ぶりに日本でのライヴ・ツアーを行った。この年の来日ツアーにおいて、ジャーニーは往年のヒット曲のみならず長年ライヴ向けにプレイし続けてきたナンバーもステージ・セットに多数取り入れ、かつメンバー全員がそれぞれリード・ボーカルを受け持ちつつ演奏を繰り広げるという、従来の慣習にとらわれないライヴ・パフォーマンスを披露した。2005年1月にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームへの殿堂入りを果たした。その際に開かれたイベントには歴代メンバーのほとんどが出席した。同年8月、前作『レッド13』から5年ぶりにニュー・アルバム『』を発表。このアルバムには2004年の日本公演さながらにメンバー全員がそれぞれリード・ヴォーカルを担当する「持ち曲」が設けられていた。特定のフロントマンに依存せずメンバー全員で楽曲そのものをアピールしてゆくという、これまでバンドが培ってきた特性と人気を継承しつつも「往年の人気バンド」という位置に留まるまいとする姿勢が見受けられる。しかしながら、セールス的にも全米170位と振るわなかった。一方、日本では「ADLIBアウォード」や「山野楽器ミュージックアワード」など各賞の洋楽ロック部門を受賞した。2006年のツアー中に、喉の感染症を治療するためにスティーヴ・オージェリーがバンドを離れることとなり、代理のリード・ボーカリストとしてジェフ・スコット・ソートが参加。同年末、ジェフは脱退したオージェリーに代わって正式メンバーへ昇格したことが発表されるも、翌2007年6月に脱退。ジャーニーは、公式ウェブサイトを通じて年内の活動休止をアナウンスする。2007年12月5日、ジャーニーはフィリピン人シンガーのアーネル・ピネダ(Arnel Pineda)をリード・ボーカリストに迎えたことを公式ウェブサイトで発表し、このラインナップですぐさまアルバム『』のレコーディングを行った。プロデュースとエンジニアリング、ミキシングを再結成後2枚のアルバム(『Trial By Fire』と『Arrival』)を手がけたケヴィン・シャーリーが再び担当したこの新アルバムは、新曲10曲に加えて前作『Generations』に収録されていた「フェイス・イン・ザ・ハートランド」をピネダを迎えて再演したテイクを含むディスク1と、スティーヴ・ペリー在籍時代のヒット曲・人気曲11曲の現メンバーによる再録で構成されたディスク2との2枚組となった(US盤にはさらに最新ライヴDVD1枚が付属する3枚組構成)。2008年6月3日にネット予約先行、同4日に米ウォルマート店舗、同9日に欧州および全米で発売された。セールス的には発売1週間で世界計10万4000枚(バンド発表)を売り上げる久々のヒットとなり、Billboard Top 200でも初登場5位、同Top Internet Album2位、同Top Independent Album1位 などを獲得した。日本でも6月にオリコン週間洋楽チャートにて輸入盤のみながら28位を記録したのを皮切りに、日本盤の正式発表以前から一部外資系レコード店にて輸入盤が好調な売れ行きを示した。また、10月8日に発売された日本盤ではUS版ボーナストラック"Let it take you back"に代わって「ザ・プレイス・イン・ユア・ハート」(『Generations』収録曲)の再演版が収録されている。12月18日には『Trial By Fire』以降初となるゴールドディスク&プラチナムディスク(2枚組のため50万枚×2=100万枚)に認定された(RIAA)。バンドはハート、チープ・トリックとともに全米各都市を精力的にツアーを終え(ケヴィン・シャーリー公式ウェブサイト、2009年3月9日から東京、名古屋(11日)、大阪(12日)を回る日本ツアーを開始。3月9日の東京国際フォーラム・ホールAをソールドアウトさせた。2011年5月24日スタジオアルバムとしては14作目にあたる『Eclipse (ECL1P53)』をリリースしBillboard Top 200において初登場13位を記録した。2015年6月14日、ドラマーのディーン・カストロノヴォがドメスティックバイオレンスの容疑で逮捕される。その後保釈されたが、禁止されていた相手との接触を繰り返し暴行に及んだとして保釈が取り消され、収監されたことにより、ディーンの解雇が正式に決定した。これにより、同年8月3日までのツアーの残りのアメリカ国内及びカナダでの公演分では、オマー・ハキムが代役を務めた。その後、2015年11月26日、2016年5月から始める北米ツアーでは、1998年に脱退したスティーヴ・スミスがゲストで参加することとなり、スティーヴ本人の快諾を得たことにより、引き続き2017年のツアーへの参加も決定した。1973年結成当時のメンバーには横にUを、アルバム『エスケイプ』発表当時のメンバーにはEをつけた。また、数字は在籍した期間を表す。スティーヴ・ペリー(リード・ボーカル)、ニール・ショーン(ギター、ボーカル)、そしてジョナサン・ケイン(キーボード、ボーカル)という3人編成で発表した『Raised on Radio/ レイズド・オン・レイディオ 〜時を超えて〜』(1986年)ではベースに2人、ドラムに1人、さらに同アルバムに伴うツアーでドラムが1人サポート・メンバーとなっている。またメンバーの体調などの問題で参加するケースもある。2005年8月現在までに発表されたオリジナル・アルバムは12作。代表曲に「オープン・アームズ」、「ドント・ストップ・ビリーヴィン」(いずれも『エスケイプ』に収録されており、また日産・エルグランドのCMで起用された)、「セパレイト・ウェイズ」(フロンティアーズ)、「ホイール・イン・ザ・スカイ」「ライツ」(インフィニティ)などがある。これらを含む『グレイテスト・ヒッツ〜永遠の旅〜 - JOURNEY GREATEST HITS』(1989年発売)は、今も全世界で売れ続け、2008年4月にRIAAダイヤモンドディスク1600万枚に認定され全世界では2500万枚以上売り上げた。08年6月現在ビルボードのトップポップカタログチャート(発売後2年経ったアルバムのチャート)で761週在位して、何度目かの1位に返り咲くという超ロングセラーになっている。1975年1976年1977年1978年1979年1980年1981年1982年1983年1984年1985年1986年1987年1993年1996年2001年2005年2008年

出典:wikipedia

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