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サルキス・カシヤン

サルキス・イヴァノヴィチ・カシヤン(、、1876年1月28日 - 1937年12月)、本名テル=カスパリャン (, ) は、アルメニア人のボリシェヴィキ。名はセルゲイ ()、父称はオガネソヴィチ () とも。1876年1月28日(ユリウス暦16日)、ロシア帝国の中産階級家庭に生まれた。1902年にライプツィヒ商科学院を、1904年にフリードリヒ・ヴィルヘルム大学哲学部を卒業し、商学博士候補および哲学博士候補となった。若くから革命運動に関わり、1903年にはに加盟したが、ほどなく脱退して1905年からボリシェヴィキ党員となった。チフリスでとともに『カイツ』()、『ノル・ホスク』、『バンヴォリ・ザイン』などボリシェヴィキ系のアルメニア語紙を編集していたが、1914年4月に逮捕され、アストラハンとヴォログダに追放された。1917年の二月革命によって解放され、翌1918年にグルジア民主共和国のメンシェヴィキ政権によって逮捕されるも、ソビエト・ロシアからの圧力によってほどなく釈放されている。同年からボリシェヴィキ・カフカース地方委員会チフリス局メンバー、1919年から1920年までカフカース地方委書記およびアルメニア委議長を務めた。1920年1月にアルメニアの党組織で第1回会議が開かれた際はそれを主宰し、同年にはアスカナズ・ムラヴャンとともに革命組織の統一とアルメニア第一共和国のダシュナク党政権転覆を計画したが、当局にまたも逮捕され、国外追放とされた。釈放後はグルジアで破壊活動に関与して三度逮捕されたが、やはりアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国からの圧力によって釈放された。1920年11月からアルメニア共産党中央委員となり、同月29日にアルメニア第一共和国が打倒された際には、アルメニア社会主義ソビエト共和国の樹立宣言を行った。同日から翌1921年3月までアルメニア軍事革命委員会 () 議長および農業人民委員も務めている。しかし、カシヤンらが行った過酷な徴発は民衆の叛乱を呼び起こし、国家指導者の地位は党中央が派遣した穏健派のアレクサンドル・ミャスニコフに奪われた。その後は1921年のコミンテルン出席者、同年7月から翌1922年11月まで執行委員候補となった。1924年から1927年までは「26人のバクー・コミッサール名称ザカフカース共産大学」学長、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の中央執行委員会メンバーおよび民族会議議長を務めた。1927年4月9日から1931年2月20日までザカフカース連邦中執委議長を務め、1928年7月から1930年12月まではアルメニア共和国中執委議長でもあった。1930年にはに出席した。1931年から1934年まではザカフカース連邦最高裁判所の長官でもあった。およびのメンバーも務め、『共産党宣言』や『』の翻訳も行ったが。1937年12月に逮捕され、同月に死去した。その後、1955年にがなされた。カシヤンの名はエレヴァンの通り () に残されている。

出典:wikipedia

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