F-20は、アメリカ合衆国のノースロップ(現ノースロップ・グラマン)社が開発した戦闘機。愛称はタイガーシャーク(Tigershark、イタチザメ)。F-5の後継機として、おもに米国と同盟関係にある中小の国ならびに地域への輸出を主眼に開発された。進歩した設計、電子化された搭載機器、強力な新型エンジンを採用し、さらには限定的ながらフライ・バイ・ワイヤも導入されている。これらによって大幅な性能向上を果たしたが、輸出許可を巡る政治的情勢に翻弄され、わずか3機の試作機(うち1機が現存)の製作に終わる。1974年、中華民国(台湾)向けの機体としてF-5を改良した案を検討したが、この頃すでに国際連合での代表権を得ていた中華人民共和国との関係悪化を懸念したアメリカ政府に止められることになる。その後、1980年にカーター政権(当時)の決定した中間国際戦闘機構想にのっとり、ノースロップ社が自主開発を再開する。開発当時は、中小国向けのベストセラー機であった同社製のF-5を使用している国への売り込みを考えていたが、新鋭機を海外に販売できないという法律があったため、この機体の類別番号はF-5Gとなっていた。初飛行は1982年8月30日。なお、この時期に同様の輸出用戦闘機として、ジェネラル・ダイナミクス社よりF-16のダウングレード型であるF-16/79(エンジンを、輸出規制が行われていたF100ターボファンから、旧式ながら輸出実績のあるJ79ターボジェットに変更)が提案され、試作機が製作されていた。ちなみに台湾であるが、結局はF-16/79もF-20も採用を拒否し、アメリカ諸企業の支援のもとに戦闘機を国産化する計画を開始した。その成果としてF-16をベースとしたIDF経国号が1980年代末に初飛行、1990年代半ばには就役し、当初は200機を大きく超える数の生産が予定されていた。しかしアメリカ議会によって従来は制限されていたフルスペックのF-16の輸出が解禁されたため、これと入れ替わる形で経国号の生産は約半数の130機にとどまっている。元となったF-5戦闘機はJ85ターボジェットエンジンを双発で搭載するが、F-20はF404ターボファンエンジンの単発となっている。ジェットエンジンは小型であるほど推力重量比が高い傾向(二乗三乗の法則)にあり、本来であれば単発より双発のほうが機体の小型化には有利である。逆に双発機を単発機に改良し、なおかつ基本性能を大幅に向上させるということは過去に例がなく、それを可能にしたのは、J85開発時からの技術の進歩によって実現したF404の性能の高さによるものである。かつてのJ79の約6割の空虚重量ながらそれに比肩する推力を有する当エンジンは、陸上基地で運用するには騒音が大きいというデメリットはあったものの、1970年代当時の西側陣営では驚異的であった。このような小型・大推力を両立した基本性能もさることながら、F404エンジンは始動が僅か30秒で可能であり、これらによってF-20はスクランブル発進において3分以内に高度5,000mに到達可能という世界最速のタイムを誇っている。基本設計は旧式ながらも、GE製マルチモードレーダー、AN/APG-67をはじめとする高性能アビオニクスが採用された。APG-67はルックダウン能力を持つのみならず、スパロー空対空ミサイルの運用も可能であり、これは開発当初、同ミサイルを運用しない昼間戦闘機として計画された当時のF-16よりも優れた面であった。また、バディポッドと呼ばれる装備を搭載することにより、海軍機のF/A-18シリーズなどのように空中給油機としても使用可能である。機体形状は原型となったF-5と似通っているが、より進化した空力設計による改良(主翼付け根のLERXの大型化、シャークノーズと称される抵抗を減らし揚力を生む扁平な機首形状)が加えられ、機体各部に各種の新素材を使用しているほか、コクピットもGE製ヘッドアップディスプレイ、ベンディックス製デジタルディスプレイ、ハネウェル製ミッションコンピュータにHOTASの採用など、当時の新鋭機と比べても遜色がない。必然的に機体価格は高くなったが、それでもF-16よりは安価に設定されていた。フライ・バイ・ワイヤは水平尾翼に二重に用いられているのみであり、とくにCCV技術も導入されてはいない。CCV設計ではない最後の旧世代戦闘機といえるが、それでもF-5譲りの極めて高い運動性や操縦性を誇った。テストパイロットで顧問でもあった、初の超音速パイロットチャック・イェーガーが絶賛したことが知られている。しかし、現実に本機を採用した国はひとつもない。これにはいくつかの原因があるが、最大の理由はF-16の存在が関係している。本機の試作がスタートした当時、すでにF-16の能力向上案としてF-20と同様の能力を付加することが決定していた。その上、採用を当て込んでいたF-5ユーザーの多くが、1980年のF-16輸出解禁によって、価格が多少安くとも性能が未知数のF-20より、アメリカ空軍が採用済みで性能的にリスクが少ないF-16を選択したという事情もある。1980年代にインドにライセンス生産を提案したが実現しなかった。再度、台湾の次期戦闘機として提案されたが、アメリカでの政権交代の折に輸出がキャンセルされ(後に台湾は経国を開発)、アグレッサー部隊の使用機候補となったり(同時に候補となったのは、F-16/79と後にF-21Aとして採用されたクフィル)したものの、1機も採用されなかった。採用を決めた国にはヨルダン及びバーレーンがあるが、生産ラインを稼動できる数量ではなかったためヨルダンはF-16を、バーレーンはF-5Eを導入した。要撃機としてアメリカ空軍州兵向けの提案もなされたが、F-16の大量採用による価格低減によって、当初F-20が持っていた価格的優位性は失われており、F-16 ADFに敗れている。この後、ノースロップはF-5をライセンス生産していた韓国に生産治具ごとライセンスの売却を持ちかけたが実現せず、プロジェクトは終焉を迎えた。なお、F-20で採用されたシャークノーズや大型LERXは、後期生産型F-5E/Fの一部に取り入れられている。F-20の試作機は3機が作られデモンストレーションが行われたが、1号機(82-0062 (GG.1001))は1984年10月10日に韓国でのデモフライト中に墜落する。この事故で著名なテストパイロット、ダレル・コーネルが殉職した。2号機(82-0063(GI.1001))も1985年5月12日のカナダでのデモフライトで失われた。これらの墜落原因は不明で少なくとも機体の欠陥ではないとされ、一説によると高度の機動性にパイロットが対応できなかったとされている。現存する3号機(82-0064 (GI.1002))はロサンゼルスのカリフォルニア・サイエンス・センターで展示されている。武装5ヶ所のハードポイントに計3,600 kgの兵装を搭載可能。
出典:wikipedia
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