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林房雄

林 房雄(はやし ふさお、1903年(明治36年)5月30日 - 1975年(昭和50年)10月9日)は、日本の小説家、文芸評論家。大分県大分市出身。本名は後藤寿夫(ごとう としお)。戦後の一時期の筆名は白井明。戦後は中間小説の分野で活動し、『息子の青春』、『妻の青春』などを出版し舞台上演され流行作家となった。1947年(昭和22年)6月27日、「新夕刊」で林と三島由紀夫は出会った。当初より三島は、林に好感を持ち、以後親交を持つようになる。林への書簡で自身の文学論や、高見順ら左翼的文壇への憤慨などを吐露する。同じ東京帝国大学法学部出身でもあった三島由紀夫は林を非常に尊敬し、1963年(昭和38年)に『林房雄論』を書く。三島は、1966年(昭和41年)に対談『対話・日本人論』が実現したときには感激したという。1969年(昭和44年)に、対談『現代における右翼と左翼』を行っている。だが、対談『対話・日本人論』の時点で、天皇論を巡って意見の相違がやや現れた。林が、「天皇にも人として過ちはある。(中略)天皇に逆賊と言われたら甘んじて刑死すべきです。恨んではいけない。」と、主張したのに対して三島は、「僕は天皇無謬説なんです。(中略)僕はどうしても天皇というのを、現状肯定のシンボルにするのはいやなんです。(中略)天皇は現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる。いまあまりにも現状肯定的ホームドラマ的皇室のイメージが強すぎるから、先鋭な革新の象徴としての天皇制というものを僕は言いたいということです。」と語った。最終的には林も三島のその考え方に同意し、「革新のシンボルになります。これからも必ずなります」と賛同している。三島は自決の少し前の1970年(昭和45年)9月には、徳岡孝夫に、「林さんはもうダメだ。右翼と左翼の両方からカネを貰っちゃった」と言い、失望の色を隠さなかったという。ただし、これについて徳岡孝夫は、回想記『五衰の人』において、三島は「楯の会」の活動で思い詰めていたが故に、林側の事情と行動を誤解したのではないかと推測している。林は、1971年(昭和46年)1月24日に築地本願寺で行なわれた三島の本葬・告別式に際し、弔辞で、「満開の時を待つことなく自ら散った桜の花」、「日本の地すべりそのものをくいとめる最初で最後の、貴重で有効な人柱である、と確信しております」と述べてその死を悼んだ。その後も何冊か関連著作(三島事件の「追悼本」)の執筆・編纂・出版にあたり「憂国忌」の道筋をつけた。晩年は、月刊誌「浪漫」を刊行する等、民族派の論客としても活動し続けた。闘病生活の間も、皇統論や西郷隆盛伝等を執筆した。『大東亜戦争肯定論』は、「中央公論」1963年9月号から65年6月号にかけ連載、単行判は番町書房(正・続)2冊で刊(のち新版全1巻)。様々な再刊を経て2001年に夏目書房で再刊、普及版も刊行されたが、夏目書房の倒産(2007年)により長らく入手困難となっていた。2014年に中公文庫で初の文庫再刊された。林はあえて、敗戦占領下にGHQにより使用を禁じられ、占領終了後もタブー視された「大東亜戦争」という名称を用いた。「肯定論」の中心をなす主張は、幕末のペリー来航以来の日本近代史を、アジアを植民地化していた欧米諸国に対する反撃の歴史、「東亜百年戦争」と把握している点にある。そして、1941年12月8日に始まる大東亜戦争こそはその全過程の帰結だった、としている。さらに、その過程(韓国併合、東南アジア進出など)における原動力は経済的要因ではなくナショナリズムであったとし、それの集中点は「武装した天皇制」だった、とも主張している。

出典:wikipedia

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