赤穂事件(あこうじけん)は、18世紀初頭の江戸時代元禄期に起きた事件で、江戸城松之大廊下で、高家旗本の吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りつけたとして切腹に処せられた播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)に代わり、家臣の大石内蔵助以下47人が吉良を討ったものである。この事件は、一般に「忠臣蔵」と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。これら脚色された創作作品と区別するため、史実として事件を述べる場合は「赤穂事件」と呼ぶ。なお、浅野が吉良に斬りかかった理由は、史実としては不明である。赤穂事件を扱ったドラマ・映画等では、浅野が、吉良から要求された賄賂を拒否した事で起きた吉良による嫌がらせを原因として描かれ、また主君の浅野に代わり、家臣が、吉良を討った「仇討ち」事件として描かれることが多い。しかし、事件当時、「仇討ち」は、子が親の仇を討つなど、目上の親族のための復讐を指した。本事件を、「仇討ち」とみなすか「復讐」とみなすか、その意義については論争がある。本事件を元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん)と呼ぶ本もあるが、専門家の書いた本では全て「赤穂事件」で統一されているので、本稿では「赤穂事件」と表記する。また赤穂事件を扱った創作物では、前述のように本事件を忠臣蔵と呼ぶ事が多いが、講談では本事件を赤穂義士伝(あるいは単に義士伝)と呼ぶ。吉良を討ち取った47人(四十七士)の行為を賞賛する立場からは、四十七士のことを赤穂義士(あるいは単に義士)と呼ぶ。それ以外の立場に立つ場合は、四十七士を含めた赤穂藩の浪人を赤穂浪士と呼ぶことが多いが、この名称は事件のあった元禄時代には一般的な言葉ではなく、作家の大佛次郎がそれまでの義士としての四十七士像を浪人としての四十七士に大転換する意図を持って書いた小説『赤穂浪士』で一般的になったものである。(ただし先行作にも使用例あり)。このため「赤穂浪士」という言い方を避け、赤穂浪人という言い方がなされる場合もある。この事件は元禄14年3月14日 (旧暦) (グレゴリオ暦1701年4月21日)、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、江戸城松之大廊下で、吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかった事に端を発する。斬りかかった理由は、何らかの「遺恨」が原因との事だが詳細は不明である(詳細は#刃傷の理由参照)。事件当時、江戸城では、幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中だったので、場所がらもわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対し、第五代将軍徳川綱吉は激怒。幕府は浅野内匠頭に即日切腹を言いつけ、浅野が藩主を務める播州赤穂浅野家は改易、赤穂城も幕府に明け渡すよう命じた。それに対し吉良は何のお咎めもなかった。当時の「喧嘩両成敗」の原則に従えば、吉良にも何らか刑が下されるはずだが、吉良が斬りつけられた際に抜刀しなかったためこの事件は「喧嘩」として扱われず、吉良には咎めがなかったのである。しかし浅野のみ刑に処せられた事に浅野家家臣達は反発。筆頭家老である大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を中心に対応を協議した。反発の意思を見せるため、籠城や切腹も検討されたが、まずは幕府の申しつけに従い、素直に赤穂城を明け渡す事にした。この段階では浅野内匠頭の弟である浅野大学を中心とした浅野家再興の道も残されており、籠城は得策でないと判断されたのである。一方、同じ赤穂藩でも江戸に詰めている家臣には強硬派(江戸急進派)がおり、主君の敵である吉良を討ち取る事に強くこだわっていた。彼らは吉良邸に討ち入ろうと試みたものの、吉良邸の警戒が厳しく、彼らだけでは吉良を打ち取るのは難しかった 。そこで彼らは赤穂へ行き大石内蔵助に籠城を説いたが、大石はこれに賛同せず、赤穂城は予定通り幕府に明け渡された。吉良を打ち取ろうとする江戸急進派の動きが幕府に知られるとお家再興に支障が出てしまうので、主家再興を目標とする大石内蔵助は、江戸急進派の暴発を抑える為に彼らと二度の会議を開いている(江戸会議、山科会議)。しかし浅野内匠頭の弟である浅野大学の閉門が決まり、播州浅野家再興の道が事実上閉ざされると、大石内蔵助や江戸急進派をはじめとした旧浅野家家臣(以降赤穂浪士と記述)達は京都の円山で会議(円山会議)を開き、大石内蔵助は吉良邸に討ち入る事を正式に表明した。そして仇討ちの意思を同志に確認するため、事前に作成していた血判を同志達に返してまわり、血判の受け取りを拒否して仇討ちの意思を口にしたものだけを仇討ちのメンバーとして認めた(神文返し)。その後、大石は宣言通り江戸に下り(大石東下り)、吉良を討ち取る為に深川で会議を開いた(深川会議)。そして元禄15年12月14日 (旧暦) (グレゴリオ暦1703年(1702年ではない)1月30日)、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった(吉良邸討ち入り)。この時討ち入りに参加した人数は大石以下47人(四十七士)である。四十七士は吉良邸から引き揚げて、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。引き上げの最中には、四十七士のうち一人(寺坂吉右衛門)がどこかに消えているが、その理由は古来から謎とされている。寺坂を除いた四十六人は、吉良邸討ち入りを幕府に報告し、幕府の指示に従って全員切腹した。赤穂事件が起こるとその是非をめぐって儒学者たちの間で論争が巻き起こった。主な論点は赤穂浪士の行動が「義」にあたるのかという事で、これは浪士達の吉良邸討ち入りが主君の為の「仇討ち」とみなせるかどうかにかかっている。この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族の為に復讐する事を指し、主君の仇を討ったのは本事件が初めてである為、これが問題になったのである。この問題は武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものであった事もあり、論争は幕末まで続いた。主君の遺恨を晴らすべく命をかけて吉良邸に討ち入った赤穂浪士四十七士の行動は民衆から喝采を持って迎えられた。平和な時代が百年近く続いた元禄の世において、すでに過去のものになりつつあった武士道を彼らが体現したからである。赤穂浪士の討ち入りがあってからというもの、事件を扱った物語が歌舞伎、人形浄瑠璃、講談、戯作などありとあらゆる分野で幾度となく作られてきた。その中でも白眉となったのは浅野内匠頭の刃傷から47年後に作られた人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』である。同じ年の12月には歌舞伎にもうつされ、歌舞伎では興行上の気付薬「独参湯」と呼ばれる程の人気を博し、不入りが続くとこの演目を出すといわれた。本作以降、赤穂事件を扱った創作物は忠臣蔵ものと呼ばれる事になる。事件の発端となる、松之大廊下の刃傷を説明するために、まずそれまでの経緯を説明する。江戸幕府は毎年正月、朝廷に年賀のあいさつをしており、朝廷もその返礼として使者を幕府に遣わせていた。こうした朝廷とのやり取りを担当していたのが高家であった。吉良上野介は事件のあった元禄14年に高家筆頭の立場にあったため、朝廷へのあいさつと朝廷からの使者の接待とを受け持っていた。一方の浅野内匠頭は同年、吉良の補佐役に任命されていた。朝廷からの使者には天皇の使者である勅使と上皇の使者である院使がいるのだが、事件のあった元禄14年における勅使の接待役(勅使饗応役)が浅野内匠頭だったのである。朝廷からの使者達は3月11日に江戸に到着し、彼等の接待を受けていた。事件は、この大事な接待の最後の日である3月14日に起こった。3月14日(4月21日)巳の下刻(午前11時半過ぎ)、浅野内匠頭は背後から吉良上野介に小さ刀(ちいさがたな。礼式用の小刀で脇差とはサイズが違う)で斬りかかった。浅野が斬りかかったのは吉良に「遺恨」があったためであるとされるが詳細は不明である(詳細は#刃傷の理由参照)。切りかかった場所は江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下(現在の皇居東御苑)である。吉良が振り返ったので小さ刀は吉良の眉の上を傷つけた。小さ刀は吉良の烏帽子の金具にも当たり大きな音をたてた。そして吉良が向きかえって逃げるところを追いかけ、また2度斬りつけた。すぐさま、浅野はその場に居合わせた梶川与惣兵衛らに取り押さえられ、柳之間の方へと運ばれた。その際浅野はこう繰り返したという:一方の吉良は、やはりその場に居合わせた他の高家衆に取り押さえられ、御医師之間に運ばれ、その後江戸城内の自分の部屋にいるよう命じられた。吉良の傷は外科の第一人者である栗崎道有により数針縫いあわせられている。浅野は幕府の裁定を待つため、芝愛宕下の陸奥一関藩主田村建顕の屋敷にお預けとなる事になった。浅野を乗せた駕籠は江戸城の平川門から出されたが、この門は「不浄門」とも呼ばれ、死者や罪人を出すための門であった。浅野は罪人として江戸城から出されたのである。田村邸に到着して駕籠から降りたときには、すでに厳重な受け入れ体制ができており、部屋は襖を全て釘づけにし、その周りを板で覆い白紙を張っていた。なお以上で述べた刃傷事件の概要は主に『梶川与惣兵衛筆記』によっているが、『多門伝八郎覚書』の記述とは様々な差異がある。しかし『多門伝八郎覚書』には誇張や創作が含まれている事が他の史料との照合により判明しているので、基本的には『梶川与惣兵衛筆記』を信じるべきで『多門伝八郎覚書』に依存する場合は充分な史料批判が必要である。刃傷事件が起こると、将軍の綱吉は浅野内匠頭の即日切腹を命じた。当時殿中での刃傷は理由の如何を問わず死罪と決まっていたのに、まして幕府の権威づけの為に綱吉が重視していた朝廷との儀式の最中に刃傷に及んだのであるから即日切腹は当然であった。浅野内匠頭の切腹の場所は田村家の庭で、庭に筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で行われた。本来、大名の切腹は座敷などで行われるが、慣例を破ってまで庭先での切腹を行うよう老中から指示があったという。おそらくその背後に将軍・綱吉の強い意向が働いていたのだろう。万一浅野内匠頭の家臣たちが騒動を起こしたとき武力で抑えられるよう、浅野家家臣たちの退去を命じ、上使に任ぜられた水野監物忠之の配下の者達に廻りを固めさせた。当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていたので、浅野内匠頭は切腹を言いつけられた事に礼を言った上で切腹をした。切腹の際の立会人は検使正使の大目付庄田安利(下総守)と、 検使副使の目付多門伝八郎 ・大久保権左衛門であり、介錯は御徒目付磯田武太夫によってなされた。遺体は浅野家の家臣達の片岡源五右衛門、礒貝十郎左衛門、田中貞四郎、中村清右衛門、糟屋勘右衛門、建部喜内によって引き取られ、菩提寺の泉岳寺でひっそり埋葬された。浅野内匠頭の正室の阿久里は、浅野の切腹を受けて3月14日夜に剃髪し、名を瑤泉院と改め、翌15日明け方に麻布今井町の屋敷に移った。一方の吉良は特におとがめもなく、むしろ将軍からこう見舞いの言葉をかけられた。当時の武士社会の慣習からいえば、「喧嘩」が起こった際には「喧嘩両成敗」の法が適応されるので、浅野と吉良は「双方切腹」となるはずである。しかし吉良が脇差しに手をかけなかったという証言が事件の場に居合わせた梶川から得られたため、この事件は喧嘩としては扱われず、浅野内匠頭の一方的な「暴力」とみなされたのである。また吉良に見舞いの言葉があったのは、吉良が将軍の親戚筋に当たる為かもしれない。このように事件の一方の当事者である吉良には何らお咎めなしでありながら、もう一人の当事者である浅野内匠頭には切腹が命じられる事になった。しかも後日、浅野内匠頭の領地である播州赤穂浅野家には御取り潰しが命じられている。こうした裁定が、後に起こる赤穂浪士達による吉良邸討ち入り事件の素地となった。実際、こうした幕府の裁定と当時の民衆の感覚の間には大きな隔たりがあり、当時の記録には浅野内匠頭の軽率さに非難が向けられる一方で、幕府による裁定の厳しさに対する同情論もあった。例えば『易水連袂録』にはもし浅野が吉良に対して「意趣」があり、それが「堪忍しがたきもの」なら浅野の行動は「乱気」でも「不行跡」でもないはずだと、浅野の行動に理解を示している。また武士道の観点からいえば、売られた喧嘩を買わずに逃げるのは、武士にあるまじき不名誉な行為のはずである。こうした世評があった為、吉良は世間の非難の目を意識して高家肝煎の辞職願を出さねばならなかったし、吉良の傷は14、5日で治ったのにわざと重く見せかけねばならなかったという(『栗崎道有記録』)。事件が起こるとすぐに、事件を知らせるための早駕籠が浅野の領地である赤穂藩へと飛んだ。早駕籠は二度にわたり赤穂に届られ、第一の早駕籠は江戸での刃傷沙汰のみを伝え、第二の早駕籠が浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の取り潰しを報告。江戸から赤穂へは早駕籠でも通常一週間程度かかるところだが、使者たちは昼夜連続で駆け続ける事で、4日半程度で赤穂に到着している。吉良の生死については早駕籠は何も伝えず、結局生死が赤穂側に伝わったのは3月の下旬であった。なお、第一の早駕籠に乗って赤穂に訪れたのは早水藤左衛門と萱野三平の二人で 、第二の早駕籠に乗っていたのは原惣右衛門と大石瀬左衛門の二人であった。時刻に関しては第一の早駕籠は3月14日未の下刻(午後3時半頃)に江戸を出発し、 第二の早駕籠は同日夜更けに出発した。前者は19日寅の下刻(午前5時半頃)に赤穂に到着、後者も同日中には赤穂に到着した。お取りつぶしの話が藩に広まると、商人達が札座に押し寄せて大混乱となった。藩が取り潰しになると彼らの持っている藩札が無価値になってしまうからである。両替所可能な金の量が不足していたため、大石内蔵助は、3月20日(4月27日)藩札を銀に六分率で交換するよう指示。赤穂経済の混乱の回避に努めた。このとき大石は次席家老の大野九郎兵衛と相談し、広島の浅野本家に不足分の金の借用を頼むことにしたが、広島藩は藩主が不在であることを理由にしてこれを断っている。この件に限らず広島藩は、自藩に累が及ぶのを恐れ、赤穂藩に一貫して冷ややかな態度をとり続けている。第一の使者から浅野内匠頭の刃傷事件の知らせを受けた筆頭家老の大石内蔵助は、藩士に総登城を命じ、事件を皆に伝えた。そして大石を上座に据え、連日、城に集まって対応を議論した(『浅野綱長伝』)。幕府からは城を明け渡すよう要請されていたが、浅野家は浅野内匠頭の家臣であっても幕府の家臣ではないので、幕府からの命令があったとはいえ、簡単に明け渡す事はできないのである。親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣されていた。家臣達の意見は、籠城により吉良が処罰されなかった事に対する抗議の意思を示すというものが多かったが、大石はこの意見には与しなかった。籠城をすれば公儀に畏れ多いと思ったのである。また、浅野内匠頭の弟にあたる浅野大学に迷惑がかかると大石が考えたのも籠城を辞めた理由の一つである。大石は城内での議論と並行して、吉良の処分を再考するよう城受け渡しの上使に嘆願書を出していたのだが、この事が大学の耳に入ったため、籠城が大学の指示だと思われるのを恐れたのである。連日の議論を経て、大石は結論を出した。赤穂城の前で皆で切腹しようというのである。こういう決断を下したのは、切腹の際に自身らの思いを述べれば、幕府も吉良への処罰を考え直してくれるのではないかと考えたからである。ただし、大石はほどなく切腹を口にしなくなるので、切腹という方針を出す事で本当に味方する藩士を見極めようとしたとする説もある。最終的に切腹という結論が出ると、切腹に同意する旨の神文(起請文)を60人余りが提出した。なお、議論がすぐに収束しなかったのは、次席家老の大野九郎兵衛等による反対意見もあった事による。大野九郎兵衛はとにもかくにも主君の弟である浅野大学が大事だから、まずは穏便に赤穂城を幕府明け渡すのが先決だと考えていたのである。しかし切腹の神文を提出する段になって原惣右衛門が「同心なされない方はこの座をたっていただきたい」と発言すると、大野をはじめとする10人ばかりが退出した。なお原惣右衛門はもしこのとき大野が立ち退かなかったら大野を討ち果たしているところだったと後で回想している。なお、江戸から下ってきた片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門、田中貞四郎の3人は、切腹をせず、吉良を討つ旨を述べて退出した。大石内蔵助は4月12日に赤穂城の明け渡しを決意し、4月18日に明け渡された。予定された切腹は結局行われていない。赤穂城受け取りは物々しいもので、幕府は受城目付の荒木政羽と榊原政殊、代官石原正氏、受城使の脇坂安照、木下㒶定を派遣し、脇坂は総勢4550人を動員し、これに木下の軍勢が加わり、さらに船数百隻が警戒する中、赤穂城は開城された。明け渡しの際、大石は浅野大学によるお家再興を上使に嘆願し、上使から江戸に帰り次第その旨を老中に伝えるとの返答を得た。また取り潰しによって家臣が路頭に迷わぬよう、大石は4月5日から、赤穂に残った財産を家臣に分配している。4月12日から3日間、浅野内匠頭の法要が泉岳寺で執り行われた。幕府から許可がおりたためである。位牌や石塔もこの時建立された。一方、同じ赤穂家でも、江戸に詰めている家臣には堀部安兵衛をはじめとした強硬派(いわゆる江戸急進派)がおり、主君の敵である吉良を討ち取る事に強くこだわっていた。堀部は同じく江戸詰めの高田郡兵衛、奥田孫太夫とともに吉良邸に討ち入ろうと試みたものの、吉良の実子の上杉綱憲が吉良邸を訪問するなど警戒が強く、討ち入りは難しかった 。そこで3人はまず国元の藩士と合流しようと4月5日に江戸をたち、4月14日に赤穂に到着した。3人は大石に籠城を説くも大石は賛成せず、城を明け渡した4月22日に赤穂を出発した。あとで討ち入りが決定するまで、大石たち上方の主流派(上方慚進派)と堀部たち江戸急進派は、対立することになる。対立の原因は、両者の目標の違いにある。上方慚進派の最大の目標は、浅野内匠頭の弟にあたる浅野大学を擁立した浅野家の再興にあり、その際武士の対面が保てること、そのために吉良の出仕を止めるなどの処分を加えてもらうことだった。一方、江戸急進派の目標は吉良を討つ事にあった。彼らにとって主君は浅野内匠頭ただ一人であり、その名誉を回復するには吉良を討つしかないからだ。主君の兄弟である浅野大学によるお家再興が成し遂げられたとしても主君の名誉は回復されないという考えなのだ。こうした目標の違いにより、しばらくの間大石は今にも暴発しそうな江戸急進派を押さえるために腐心する事になる。両者のこうした目標の違いは、両者の背景の違いを反映していた。上方慚進派の代表である大石は代々浅野家に仕えており、しかも浅野家とも親戚関係にあった。このため浅野内匠頭個人に仕えるというよりも浅野家そのものに仕えるという意識が強く、お家再興に拘ったのであろう。一方の江戸急進派の面々は堀部をはじめ、高田郡兵衛や奥田孫太夫など浅野内匠頭の代から浅野家に仕えた者が多かった。このため浅野家よりも浅野内匠頭個人に対して仕えているという意識が強く、内匠頭の宿敵である吉良を討つ事、それにより武士としての面子を立てることに拘っていたのであろう。なお、上方慚進派が擁立しようとしている浅野大学自身がどのように思っていたのかは分からない。事件直後には藩士らが騒動を起こさないよう命じただけだったし、その後閉門されてしまったので、赤穂浪士らに連絡が取れなくなってしまったからである。赤穂城が明け渡しになると、旧藩士たちは赤穂城を出て行かねばならなかった。大石内蔵助は6月に家族と合流し、山城国山科に隠棲する。親戚の進藤源四郎が代々ここに田畑を持っており、これを頼って居を定めたのである。ここで大石は幕府に対してお家再興の嘆願を、赤穂の遠林寺の僧祐海を通じて出している。それ以外の藩士達は赤穂に近い大阪、伏見、京都などに散らばっている。幕府の許可を得て赤穂に留まった者も多かったが、その場合は百姓や町人の格で居住する必要があった。江戸詰めの藩士達はそのまま江戸に留まる者が多かったが、もう藩邸には住めないので借宅して暮らす必要があった。この頃までには大石に起請文を提出した同志は93人に増えていた。一方の吉良は3月23日にお役御免となり、8月19日日には呉服橋の屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。大名屋敷の多い呉服橋と比べ、人気のない郊外 にある本所はずっと仇討ちに適した場所であった。討ち入りをしやすくするために吉良を郊外に幕府が移したのではないか、そんな噂が江戸に流れた。幕府がなぜこの時期に屋敷替えを命じたかは不明だが、『江赤見聞記』巻四によれば、吉良邸の隣の蜂須賀飛騨守は、赤穂浪士の討ち入りを警戒していて出費がかさむという理由で老中に屋敷替えを願い出ていたというので、こうした事情が影響したのかもしれない。堀部達急進派はこの屋敷換えを討ち入りのチャンスととらえ、大石に討ち入りをせまった。そこで大石は急進派を説得する為、9月はじめ頃に赤穂浪士の原惣右衛門、潮田又之丞、中村勘助の3人を派遣し、さらに10月に赤穂浪士の進藤源四郎と大高源五を派遣したが、どちらも逆に説き伏せられて急進派に同調してしまった。そこで大石は11月2日に自ら江戸に下り、急進派を説得すべく会議をひらいた(江戸会議)。しかし上方から派遣した同志達が堀部等に同調してしまっていたこともあり、議論は堀部等が望む方向で一方的に進んだ。堀部達は討ち入りの日の期限を決断するよう大石に迫り、大石は浅野内匠頭の一周忌には結論を出したいと約束した。こうした中、衝撃的な知らせが赤穂浪士達の耳に入った。自身の評判があまりに悪い事を知った吉良上野介が、隠居を願い出て、12月13日に許可されたのだという。これを聞いて堀部たち急進派は焦り始めた。隠居した吉良が、息子の養子先である米沢の上杉家に引き取られてしまうと、討ち入りが難しくなってしまうからである。また吉良の隠居が認められたという事は、幕府から吉良へのこれ以上の処罰は望めないと堀部等は判断し、浅野内匠頭の一周忌までに討ち入りすべきだと主張した。一方、大石内蔵助は浅野大学によるお家再興に影響が出る事を懸念し、討ち入りを先延ばしすべきだと主張した。吉良上野介が無理なら息子の吉良左兵衛を討てばよいし 、閉門はたいてい三年で解けるものだから、浅野大学の閉門が解かれるであろう主君の三回忌まで討ち入りを待ち、後悔しないようにすべきだというのである。こうした中、京都の山科で、今後の行く末を決める会議が翌元禄15年2月15日から数日間執り行われた。いわゆる山科会議である。会議では、すぐさま討ち入りに行くという意見は少数で、しばらく様子を見るという結論になった。大石内蔵助は浅野内匠頭の三回忌まで待つべきであろうとしている。なお、山科会議に先立つ2月10日には、赤穂浪士の原惣右衛門と吉田忠左衛門が会談しており、山科会議はその会談の内容の再確認としての色彩が強く、ドラマ等で見られるような激論が交わされたとするのは史実ではない。山科会議により討ち入りは延期になったので、大石内蔵助はお家再興の嘆願書を出している。大石の背後には再興を願う家臣達がおり、簡単には再興を諦められないのである。しかしこの頃から大石は討ち入りは避けられないと覚悟したのか、累が及ばぬよう妻を離縁して実家に返している。事実大石は息子の主税に「寝ても覚めても吉良を討ち取る事を考えよ」といったという(『江赤見聞記』巻七)。なお離縁の際、大石の妻・りくは自分も「君父の志」を達する為に役に立ちたいと反論したが、大石は女人と一緒では内匠頭の為にならないからとこれを断ったという(『江赤見聞記』巻七)。この頃の大石は、浅野大学を擁立した討ち入りを構想していた。浅野大学の閉門が解かれたら、すぐさま大学に討ち入りの許可を取り、その上で吉良をはじめとする討とうというのである。だから大石は、浅野大学と無関係に討ち入りしようとする堀部達の意見には賛同できなかった。大石がこのような仇討ちにこだわった理由は、事件当時「仇討ち」というのは、親や兄などの目上の親族に対して行うものであり、主君の仇を討つというのは前例がなかったからである。しかし主君・浅野内匠頭の弟である浅野大学の指示によって吉良を討てば、従来通り兄の仇を討つという枠組みに収まる事になる。後述するように、結局浅野大学による御家再興は頓挫したため大石のこのような仇討ち構想は実現する事はなく、吉良邸討ち入りは浅野大学の許可を得ずに行っている。このため討ち入りの際の口上書では、「君父の讐、共に天を戴くべからず」と仇討ちの概念を「父」から「君父」へと拡大している。こうした拡大された価値観が武士社会へと受容される事で、赤穂事件は武士の生き方と道徳を変え、武士道概念の体系化を促し、大名の「家中」が武士の帰属する唯一の集団へと変わっていくのである。一方の堀部達急進派は、山科会議による討ち入りの延期決定に素直に従いはしなかった。赤穂浪士の原惣右衛門が堀部らに、大石を見捨てて自分たちだけで吉良を討つ事を提案したのである。大石ら主流派を除いて行動すれば、大石らが考えている浅野大学によるお家再興にも迷惑がかからないだろうし、吉良が油断している今なら、討ち入りに同調するであろう14、5人程度がいれば十分事を成し遂げられるだろうというのである。堀部らはこれに賛同し、上方を訪れて同志達と計画を練り、7月の24、5日頃に再び江戸に帰ろうとしていた。しかしまさにそのとき、事態が急転した。7月18日に浅野大学が閉門のうえ本家の広島藩浅野家に引き取られる事が決定したのである。これはお家再興が事実上あり得ない事を示している。大石達と堀部達の対立点であったお家再興の道が閉ざされたので、彼らは7月28日に京都の円山で会議を開き(円山会議)、大石は10月に江戸に上り吉良邸に討ち入る事を正式に表明した。あらかじめ会合の予定があったわけではないので、参加者はたまたまその日京都周辺にいた人物である。このとき会議に参加したのは19人。うち17人は後に仇討に参加するメンバーである。なお円山会議は秘密会議であった為、議論の詳細は一切分かっておらず、今日伝わる円山会議の「詳細」と称するものは初期の実録本『赤城義人伝』で創出されたものである。堀部達は江戸に戻ると、隅田川で二艘の船を借り、月見の宴に装いつつ、船の中で同志達に円山会議の報告をしている(船中会議)。山科会議の頃までは同志は120名ほどいたが、円山会議で討ち入りが決定すると、脱盟する者が続出する。この際、大石の親戚でありこれまで大石の行動を支えてきた奥野将監、小山源左衛門、進藤源四郎の三人が脱盟している。大石は討ち入りの際、家中の主だった面々が加わっている事を強く期待していたが、位の高い彼ら三人が脱盟したことにより、それはかなわなくなった。同志達の脱盟を受けて大石は、赤穂浪士の貝賀弥左衛門と大高源吾を派遣し、連判状から切り取った血判を返してまわった。いわゆる神文返しである。そしてそれでもどうしても討ち入りをしたいと答えたものだけを同志として認める事にした。これにより同志は50人程度に減った。大石内蔵助は円山会議での約束にしたがい、10月7日に京を出て、11月5日に江戸に到着している。道中には箱根を通り、仇討ちで有名な曾我兄弟の墓を詣でて、討ち入りの成功を祈願した。このとき墓石を少し削って懐中に納めたという 。また10月26日には平間村の家に入り、討ち入りの計画を練っている。このころ、同志たちはすでに困窮を極めており、大石瀬左衛門は秋も深まったのに着替えすら買えなかったというし、磯貝十郎左衛門も家賃が2カ月も払えなかったという。大石内蔵助は彼らに金銭的な援助をしたが、すでに赤穂藩の残金も少なくなっており、もうあまり猶予はなかった。12月2日 頼母子講を装って 深川八幡前の大茶屋 に集まり、討ち入り当日の詳細を決めた 。いわゆる深川会議である。赤穂浪士達は討ち入りの日を12月14日に決めた。 というのも、吉良がこの日に茶会を開くために確実に在宅している事を突き止めたからである 。茶会の情報を手に入れたのは 内蔵助の一族である大石三平であった 。大石三平は茶人山田宗偏の弟子なのだが、三平と同門の材木屋の所に在宅していた羽倉斎が江戸で新道や歌道を教えており、その関係で羽倉は吉良邸にも出入りしていて、この情報を聞いたのである。また赤穂浪士の一人である大高源五もやはり山田宗偏の弟子で、彼も同じく14日の吉良邸での茶会の情報をつかんでいたという。しかし宮澤誠一は、これは歌人として人気の高かった大高に活躍の場を与えるための初期の実録書以来の俗説として退けている。ただし、大高が茶会の情報をつかんでいたという話は『江赤見聞記』に記されているため可能性は否定できない。11月になってからも江戸潜伏中にも同志の脱盟があり、小山田庄左衛門(100石。片岡源五右衛門から金と着物を盗んで逃亡)、田中貞四郎(小姓あがり、150石。)、中田理平次(100石)、中村清右衛門(小姓100石)、鈴田重八郎、瀬尾孫左衛門(大石内蔵助家来)、矢野伊助(足軽5石2人扶持)が姿を消した。そして討ち入り三日前の12月11日まで同志の中にいた毛利小平太(大納戸役20石3人扶持)も脱盟し、最後まで残った同志の数は47人となった。元禄15年12月14日、四十七士は堀部安兵衛の借宅と杉野十平次の借宅にて着替えを済ませ、寅の上刻(午前4時頃)に借宅を出た。そして吉良邸では大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ、表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入、裏門隊は大きな木槌で門を打ち破り吉良邸に侵入した。表門隊は侵入するとすぐに、口上書を入れた文箱をくくりつけた竹竿を玄関の前に立てた。裏門隊は吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させた。また吉良の家臣達が吉良邸そばの長屋に住んでいたのだが、その長屋の戸口を鎹(かすがい)で打ちつけて閉鎖し、家臣たちが出られないようにした。吉良邸には100人ほど家来がいたが、実際に戦ったのは40人もいなかったと思われる。隣の屋敷の屋根から様子をうかがっている者がいたので、片岡源五右衛門と小野寺十内が仇討ちを行っている旨を伝えたところ、了承したしるしに高提灯の数が増えた。四十七士は吉良の寝間に向かったものの、吉良は既に逃げ出していた。茅野和助が吉良の夜具に手を入れ、夜具がまだ温かい事を確認した。吉良はまだ寝間を出たばかりだったのである。四十七士は吉良を探した。そして台所の裏の物置のような部屋を探したところ、中から吉良の家来が二人切りかかってきたのでこれを返り討ちにし、中にいた白小袖の老人を間十次郎が槍で突き殺した。この老人が吉良であると思われたので、浅野内匠頭が背中につけた傷跡を確認し、吉良方の足軽にこの死骸が吉良である事を確認させた。無事吉良を打ち取ったのである。そこで合図の笛を吹き、四十七士を集めた。ここまでわずか二時間程度。吉良側の死者は15人負傷者は23人であった。一方の赤穂浪士側には死者はおらず、負傷者は二人で、原惣右衛門が表門から飛び降りたとき足を滑らせて捻挫し、近松勘六が庭で敵の山吉新八郎 と戦っているときに池に落ちて太ももを強く刺されて重傷をおっている。浪士たちの討ち入り事件は、討ち入り2日後の14日の記録にすでに「江戸中の手柄」と書いてあるほど、すぐさま噂として広まった。山本博文は、武林唯七が即死に追い込んだ吉良の首を間十次郎が取ったのだろうとしている。その根拠は『江赤見聞記』巻四で、同書には四十七士の武林唯七が物置の中の人物を十文字槍でついたところ小脇差を抜いて抵抗してきたので間十次郎が刀で首を打ち取ったとしており、さらに同書によれば引き上げの際間十次郎が吉良の首を取ったのを自慢した所、武林唯七が「私が突き殺した死人の首を取るのはたいした事ではない」と憤慨したという。一方、宮澤誠一は四十七士の不破数右衛門の書簡に「吉良は手向かいせず唯七と十次郎その他にたたき殺された」という趣旨のことが書かれているのを根拠に、本当は不破の言うように吉良はたたき殺されたのに、記録が後世に残るのを意識して残酷さを和らげるために間十次郎が一番槍をつけたのだと記したのではないかとしている。吉良を討った浪士達は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるべく、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かった。途中、吉田忠左衛門と富森助右衛門の二人が大目付の仙石伯耆守に討ち入りを報告すべく隊を離れた。また寺坂吉右衛門も理由は分からないがどこかに消えた。寺坂が隊を離れた理由は古来から謎とされている(寺坂吉右衛門問題)。泉岳寺についた一行は内匠頭の墓前に吉良の首を供え、一同焼香した。赤穂浪士の吉田と富森から討ち入りの報告を受けた大目付の仙石伯耆守は、月番老中の稲葉丹後守正往にその旨を報告し、二人で登城して幕府に討ち入りの件を伝えた。幕府は赤穂浪士を、細川越中守綱利、松平隠岐守定直、毛利甲斐守綱元、水野監物忠之の4大名家に御預けとした。赤穂浪士達は罪人というより英雄として4家で扱われたという。赤穂浪士討ち入りの報告を受けた幕府は浪士等の処分を議論し、元禄16年2月4日 (旧暦) (グレゴリオ暦1703年3月20日)、彼らを切腹にする事を決めた。赤穂浪士が「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたからである。ここで重要なのは幕府が「主人の仇を報じ候と"申し立て"」という言い回しをしている事である。あくまで赤穂浪士達自身が「主人の仇を報じる」と「申し立てて」いるだけであって、幕府としては討ち入りは「徒党」であり仇討ちとは認めないという立場なのである。通常、このような罪には斬首が言い渡されるが、赤穂浪士達の立場を考慮したのか、武士の対面を重んじた切腹という処断になっている。元禄16年2月4日 (旧暦) (グレゴリオ暦1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名屋敷で切腹した。切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳三枚(細川家)もしくは二枚(他の3家)が敷かれた。当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていた。間新六のみ肌脱ぎせずにすぐに脇差を腹に突き立てたため、実際に腹を切り裂いている。細川綱利は切腹跡についた血を清掃しようとする藩士に対して赤穂浪士は吾藩のよき守り神であるとして清掃する必要なしと指示している。赤穂浪士の遺骸は主君の浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬された。赤穂の浅野家菩提寺である花岳寺にも37回忌の元文4年(1739年)に赤穂浪士達の墓が建てられている。(墓には赤穂浪士の遺髪が埋められたと伝えられる)。赤穂浪士の切腹と同日、吉良家を継いだ吉良左兵衛義周を信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとされた。幕府が吉良左兵衛の処分を命じた理由は、義父・吉良上野介が刃傷事件の時「内匠に対し卑怯の至り」であり、赤穂浪士討ち入りのときも「未練」のふるまいであったので、「親の恥辱は子として遁れ難く」あるからだとしている。ここで注目すべきは吉良上野介の刃傷事件の時のふるまいが「内匠に対し卑怯」であるとしている事で、幕府は赤穂浪士の討ち入りを踏まえ、刃傷事件の時は特にお咎めのなかった上野介の処分を実質的に訂正したのである。左兵衛はその後20歳余りの若さで亡くなり、ここに吉良家は断絶する事になった。赤穂浪士の遺児らも、15歳以上の男子は伊豆大島に遠島、15歳未満の男子は縁のあるものにお預けとなり、15歳になるのを待って遠島という処分が幕府から下された。(女子は構いなし)。15歳以上の男子は4人(吉田伝内、中村忠三郎、間瀬惣八、村松政右衛門)おり、彼らは処分にしたがって遠島に処せられたが、赤穂浪士の名声は伊豆大島まで届いていた為、彼らの待遇は良かったと伝えられる。間瀬惣八のみ伊豆大島で病死したが、残りの3人は浅野内匠頭の正室・瑤泉院をはじめとした旧赤穂藩の関係者の働きかけにより、宝永3年に赦免された。他の遺児たちも綱吉が死去した宝永6年に大赦とされた。綱吉が死去した宝永6年8月には、内匠頭の実弟である浅野大学も赦免され、500石の旗本に列した。大石内蔵助の三男である大三郎も、広島の浅野宗家に内蔵助と同じ1500石で召抱えられた。主君の遺恨を晴らすべく命をかけて吉良邸に討ち入った「義士」達が切腹に処せられた事は人々に大きな衝撃をもって迎えられた。儒学者たちの間でも、赤穂事件の是非をめぐって論争が巻き起こり、その論争は幕末まで続いた。論争がこのように長く続いたのは、この問題が武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものだからである。論争の焦点は多岐にわたるが、その主なものは赤穂浪士の行動が「義」にあたるのかという事である。これは浪士達の吉良邸討ち入りが「仇討ち」とみなせるかどうかにかかっている。浪士達の行動が「仇討ち」だとすれば、それを果たした浪士達は忠臣であり義士であるという事になるし、そうでなければ彼らは忠臣でも義士でもない事になるのである。今日の目から見れば赤穂事件が「仇討ち」になるのは一見自明なように見えるが、この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族の為に復讐する事を指し、主君の仇を討ったのは本事件が初めてである為、事件当時は自明なことではなかった。今日「仇討ち」といえば親族の為にするものの他に主君の為にするものが想起されるのは、ひとえに赤穂事件が有名になったからに他ならない。赤穂浪士達が切腹した元禄16年には早くも林鳳岡が『復讐論』を著し、「義士」達が主君の讐を討つのは儒教的道義にかなうとして彼らの行動を賛美した。しかし鳳岡は同時に、彼らは法を犯した者達であるから「法律」の観点からは処罰は正当であるとして幕府の裁定を肯定した。ただし鳳岡は、儒教的道義にかなう行為がどうして罰せられなければならないのかという肝心な所には答えていない。また同じく元禄16年には朱子学者の室鳩巣が赤穂事件に関する最初の「史書」である『赤穂義人録』を著し、義士を賛美した。本書では泉岳寺引き上げの最中にどこかに消えた寺坂吉右衛門は大石内蔵助の命で浅野大学のもとへ向かったのだとし、寺坂を義士の一人に数え赤穂浪士は寺坂を含めた「四十七士」だとした。これにより「四十七士説」は生まれた。なお本書は「史書」として出されたものであるが、今日の目から見れば赤穂事件に関する虚伝俗説を信用して書かれたものである。一方、佐藤直方は『四十六人之筆記』(宝永2年以前)において、内匠頭の刃傷において吉良上野介は無抵抗に逃げただけだという事実に着目し、刃傷事件は喧嘩ではなく内匠頭の暴力に過ぎず、よってそもそも上野介は赤穂浪士にとって「君の讐」でないとした。また佐藤は、赤穂浪士達は吉良邸討ち入りの後に自主的に切腹すべきで、そうせずに幕府に報告にあがったのは、生きながらえて禄をはむ為ではないかと批判している。荻生徂徠も『四十七士の事を論ず』(宝永2年頃)において、内匠頭は幕府に処罰されたのであって吉良に殺されたわけではないから吉良上野介は赤穂浪士にとって「君の仇」ではなく、内匠頭の行為も先祖の事を忘れた不義の行為とした。したがって赤穂浪士の行動は、同情の憐みを禁じえないものの、「君の邪志」を引き継いだものだから「義」とは認められないとしている。その後も浅見絅斎や三宅尚斎らにより義士論叢は続けられた。享保17年に太宰春台が『赤穂四十六士論』で「義士」を徹底批判した事で、義士論争は新たな局面を迎える。春台の論が斬新なのは、幕府の処罰の可否を正面から論じた事にある。春台によれば、浅野は吉良を傷つけただけなのに浅野を切腹に処したのは幕府の処罰が過当である。よって赤穂浪士達は吉良を恨むのではなく幕府を怨むべきであり、彼らは幕府の使者と一戦を交えた後、赤穂城に火を放って自害するべきだったという。以後、春台の論をめぐり、幕末まで論争は続く。赤穂浪士の討ち入りが民衆から喝采を持って迎えられ、江戸時代から現代まで、「忠臣蔵」を描いた物語がありとあらゆるメディアで幾度となく作られてきた。討ち入り参加者の半数強にあたる24人が、内匠頭刃傷の際、江戸にいた浪士たちである。藩士の多くは国元にいた事を考えれば、この比率は際立って高い。国元在住だが江戸まで内匠頭についてきて刃傷事件に遭遇したものも12人いる。家臣団の頂点に位置する家老4人と番頭5人のうち、討ち入りに参加したのは内蔵助のみで、物頭は吉田忠左衛門と原惣右衛門のみであり、残りは用人、馬廻、小姓、およびその家族が大半であった。また親族での討ち入り参加が多く、単独で討ち入りに参加したものは21人、残り26人は親子あるいは何らかの親族関係のものとともに討ち入りに参加している。討ち入り参加者の多くは内匠頭個人から特別な恩寵を受けたものはおらず 、むしろ内匠頭との関係が悪かったものもいた。例外は片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門で、彼らは浅野内匠頭の側近であり、一昔前であれば内匠頭の死とともに殉死するような関係にある。一方内匠頭と関係が悪かった例としては千馬三郎兵衛がおり、千馬は主君に度々諫言して不興を買い、閉門にさせられ、刃傷事件のあった元禄14年の3月には永の暇乞いをしようとしていたほどであったにも関わらず、討ち入りに参加している。不破数右衛門も内匠頭から勘気を蒙り、刃傷事件の際には浪人中だったにもかかわらず、内蔵助に頼んで討ち入りに参加している。大石主税(おおいしちから)は大石内蔵助の嫡男で四十七士では最年少で、内匠頭の刃傷の際は元服前で幼名の松之丞を名乗っていた。討ち入りの際には裏門隊の大将を務めた 。享年16。吉田忠左衛門(よしだちゅうざえもん)は大石内蔵助に次いで事実上の副頭領。足軽頭で裏門隊の副将を務めた。享年64。寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん)は四十七士では最も身分が低い。他の46人が士分なのに対し、寺坂は士分ではなく足軽である。おそらくもともとは百姓で、吉田忠左衛門の家来になったが、忠左衛門が足軽頭になったことにより忠左衛門の足軽から藩直属の足軽に昇格した 。討ち入りには参加したが引き上げの際に姿を消した。それ故に赤穂浪士切腹の後も生き残り、享年83で亡くなった。姿を消した理由は古来から議論の的で、逃亡したという説から密命を帯びていたという説まで様々である(後述)。堀部安兵衛(ほりべやすべえ、やひょうえ)は江戸詰めの浪士の一人で、内匠頭の切腹の報を聞くと最初から吉良への仇討ちを主張したいわゆる江戸急進派の中心人物の一人である。25才の時に甥・叔父の義理を結んだ菅野六郎左衛門の危機に助太刀した高田馬場の決闘で名を馳せ、吉良邸への討ち入りは生涯2度目の戦いとなる。享年34。堀部弥兵衛(ほりべやへえ)は四十七士最高齢で享年77。高田馬場の決闘で名を馳せた安兵衛を強いて求めて養子にした。不破数右衛門(ふわかずえもん)は元禄10年頃浅野内匠頭の勘気を受けて浪人していたが、浅野内匠頭の刃傷後、大石内蔵助に許されて帰参し、討ち入りに参加。吉良邸討ち入りでは裏門を屋外で固める役であったが、じっとしてられず中に侵入し、二人を斬り倒し、吉良左兵衛に斬りかかった。左兵衛は逃げてしまったものの、別の一人と斬りあいをして倒す。斬り合いのしすぎで刀がささらのようになり刃が無くなるほどだったという。享年34。矢頭右衛門七(やとうえもしち)は大石主税に次ぐ若年である。刃傷後、父・矢頭長助とともに盟約に加わったが、大阪に移り住んだ頃から父が病に倒れ、帰らぬ人となったため、右衛門七のみが討ち入りに参加する。享年18。討ち入りへの参加は、病に倒れていたころからの父の遺言であったという。武林唯七は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際捕虜になった中国人の孫で、中国浙江省の武林の出身だったことから姓を武林と名乗った。唯七は上方では最も急進的な同志の一人であった。享年32。赤穂藩士に士分の子や隠居を含めた三百数十人のうち、1/3以上が神文を提出。そこから80名ほどが脱名し、討ち入りに参加したのは46名(寺坂は士分ではなく足軽身分)であった。神文提出の段階でまず下級武士がいなくなり、そこから46人に絞られる段階で比較的高禄のものが離脱した。最初に下級武士がいなくなったのは、町人になるなど生計を立てる道があったからであろうし、その後で高禄のものが離脱したのは浅野大学の処分が決まりお家再興の道が閉ざされたためだろう。離脱者は時に討ち入り参加者から義絶されたり不通にされたりするが、それは討ち入り参加者が離脱者の援助を受けられなくなるという事でもあった。たとえば四十七士の一人である小野寺十内は義兄(妻の兄)が脱盟したため義兄を義絶したが、その結果として小野寺の妻「おたん」は兄を頼る事ができなくなってしまっている。おたんは討ち入り後、京都で自害している。大野九郎兵衛(おおのくろべえ)は赤穂藩の次席家老で、平時には藩札のシステムを作るなどの貢献があった。しかし赤穂藩取り潰しが決まると、切腹に反対するなど弱腰の姿勢を見せ、原惣右衛門が賛同できないものはこの場を去るようにと言うと、大野は10人ほどの者とともに立ち去った。4月12日に赤穂城の明け渡しが決定すると、その日の晩に息子の郡右衛門とともに逃亡した。逃亡に際し郡右衛門の幼い娘を置き去りしていったという。逃亡の原因は、『江赤見聞記』の巻二によると、大野が藩庫金の分配に関して岡島八十右衛門と揉め、命の危険を感じた事が原因だというが、よくわからない。こうした経緯もあってか、忠臣蔵のドラマでは「不義士」の親玉として描かれることが多く、元禄16年に書かれた『易水連袂録』ではすでに「日本無双大臆病ノ腰抜」と描かれている。宮澤誠一は「義士」伝説が創出される際、大野がいわば悪役としてスケープゴートにされた形だと評している。岡林杢之助(おかばやしもくのすけ)は最初から盟約に加わらなかったが、四十七士が討ち入りを果たした事が伝わると、兄の孫左衛門や弟の左門から不義をなじられ、弟の介錯により12月28日に切腹した。赤穂藩の医師である寺井玄渓(てらいげんけい)は円山会議以前から浪士たちの活動を支えており、討ち入りに参加したいという意思を持っていたが、玄渓は武士でないという理由により、内蔵助に断られている。高田郡兵衛(たかだぐんべえ)は討ち入りに参加した堀部、奥田と同じ堀内道場の同門であったためか、江戸急進派の一人としてこの二人とともに行動し、吉良を討つよう大石に迫っていたにもかかわらず、脱盟した。父方の伯父が高田を養子にしたいと言ってきたのを断りきれず、仲介にたった高田の兄が仇討ちの事を伯父に話さざるを得なくなったからである。高田は堀部と相談し、伯父を納得させるために脱盟 。最初の脱盟者となった。元禄14年12月頃のことである 。高田は討ち入り後泉岳寺に向かう赤穂浪士達のもとに駆けつけたが、堀部以外の全員から無視された 。その後酒を持って赤穂浪士のいる泉岳寺にも行ったが、赤穂浪士からは「踏み殺してやりたい」と罵られた。萱野三平(かやのさんぺい)の父は三平に他家への仕官の口を見つけてきた。赤穂浪士の密命に参加したかった三平は仕官を固辞したものの父が仕官の内諾をもらってしまう。板挟みになった三平は元禄15年1月14日、切腹で自害してしまった。小山源五左衛門(こやまげんござえもん)、進藤源四郎(しんどうげんしろう)の二人は大石内蔵助の親戚で、大石と常に行動を共にしてきた中核的なメンバーだったにも関わらず、浅野大学の処分が決まり、浅野家再興の望みがなくなると脱盟してしまった。なお小山は山科会議の際すでに消極的な姿勢を見せていたが、同時にその裏では堀部等急進派に同調するような書状も送っていた。それゆえ堀部等急進派は小山の事を信じ、大石をはずして小山を急進派の首領に担ぎあげようと画策していたのだが、山科会議での態度を見て堀部等急進派は激怒した。同じく大石の親戚にあたる大石孫四郎(おおいしまごしろう)もその後の円山会議には出席したものの、そのまま脱盟した。実録物の『赤穂義士伝一夕話』では討ち入りと老母の世話とどちらをするか弟の大石瀬左衛門と籤を惹いたとあるが、史実ではそのようなことはなく、大石孫四郎は脱盟により四十七士の一人である弟の大石瀬左衛門から義絶されている。また小山源五左衛門の娘ユウは、四十七士の一人である潮田又之丞のもとに嫁いでいたのだが、源五左衛門の脱盟により実家に返され、源五左衛門ともども又之丞から義絶された。奥野将監(おくのしょうげん)も大石の親戚で、城明け渡しの際最初に血判状に署名し、大石とともに幕府の対応にあたるなど、大石を支えてきたが、円山会議の後、もう一度お家再興の嘆願をすべきだと主張して脱盟した。浅野内匠頭の刃傷事件のとき18才だった橋本平左衛門(はしもとへいざえもん)は赤穂浪士の密命に加わっていたが、大阪で蜆川の茶屋淡路屋の遊女「はつ」に入れあげ、2人で心中してしまった。2人の心中は元禄15年7月15日の事だとされるが、佐々小左衛門が早水藤左衛門にあてた手紙ではそれは11月の事だとある。小山田庄左衛門(おやまだしょうざえもん)は四十七士の一人である片岡源五右衛門から小袖と金三両を盗んで逃亡した。深川会議のあった元禄15年11月2日のことであった。酒が原因で金に困っていたという。庄左衛門の父である一閑は、このことを知ると、刃で胸元から背後の壁まで突き通して自害した。田中貞四郎(たなかさだしろう)も酒の虜になり、その二日後に逃亡した。田中は病毒のため、顔まで変わっていたという。渡辺半右衛門は四十七士の一人武林唯七の兄にあたる人物である。渡辺は当初盟約に参加していたが、武林から自分に代わって両親の面倒を見てほしいと説得され、離脱している。中村清右衛門は年老いた母を置いて盟約に加わったが、(老母の世話を頼んでいる人物と思われる)太郎左衛門が自殺を考えていると聞き、半ば脅迫のような形で討ち入りを断念させられた。内蔵助の家来である瀬尾孫左衛門(せおまござえもん)は、山科で江戸行きを止められて立腹し、江戸までついてきた。そして内蔵助の東下りに先行して瀬踏み役をしたり平間村の仮宿を斡旋したりする活躍があったが、矢野伊助(やのいすけ)とともに脱名。二人の脱盟は元禄15年12月6日の事とされるが、『寺坂私記』によれば元禄15年12月12日に内蔵助留守中に矢野伊助とともに平間村から姿を消したとあり、これが事実なら通常「最後の脱名者」とされる毛利小平太よりも後に脱名したことになる。毛利小平太(もうりこへいた)はさる大名の下男になりすまして吉良邸に潜入し、世間で言うほど警備は強固でないという報告をもたらしたこともあるほどの男であった。にもかかわらず討ち入り三日前の元禄15年12月11日に脱盟。最後の脱盟者となった。同志たちは毛利が本当に脱盟したのか分からず、討ち入り前日になっても大石は毛利を同志の一人として数えていたという。吉良は上杉家と親戚関係を結んでいる。上杉綱憲吉良の妻富子は上杉家の出身であり、長男の三之助は上杉に養子にいき、家督を継いで上杉綱憲となっている。上杉綱憲は将軍徳川綱吉の孫娘と結婚しており、吉良は将軍家とも親戚関係にある事になる。また吉良上野介は上杉家から養子の吉良左兵衛義周をもらっており、上野介が引退した際には左兵衛に家督を譲っている。赤穂浪士討ち入りの際、左兵衛は薙刀を持って相手を傷つけたが、自身も額と腰から背中にかけて傷を負い、気絶した。その後気付いて父・上野介を探しに寝室に向かったが、上野介が見つからず、落胆してまた気絶している。にもかかわらず左兵衛は「不届き」で「親の恥辱は子として遁れ難く」あるという理由で、信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとなった。そこで罪人だからと月代を剃る事すら許されない生活を送り、宝永3年に20歳ほどの若さで死んだ。小林平八郎(こばやしへいはちろう)は『大河内文書』によれば、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際、逃げようとしたところを赤穂浪士達に捕らえられ、「上野介(義央)はどこか?」と聞かれたのに対して、「下々の者なので知らない」と答えるも、「下々が絹の衣服を着ているはずがない」と言われ、首を落とされたとしている。一方、赤穂方の落合与左衛門(瑤泉院付き用人)の書といわれる『江赤見聞記』には「小林平八は、槍を引っさげて激しく戦い、上野介をよく守ったが、大勢の赤穂浪士と戦ってついに討ち取られた」となっている。山吉(小牧)盛侍(やまよし もりひと)、通称山吉新八郎(しんぱちろう)は吉良上野介の家臣 、近習。(吉良義周の中小姓)。赤穂浪士討ち入りの時負傷。その後吉良義周が幽閉されたとき左右田孫兵衛とともに付き従い、義周が亡くなるまで面倒をはじめとする見た。清水一学(しみずいちがく)は、忠臣蔵のドラマなどでは剣の達人として伝わる人物。実際には吉良家の中小姓(用人)である。『大河内文書』には吉良上野介と吉良義周にお供して、「少々戦いて討たれ候」とある。『江赤見聞記』によれば、当時
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。