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第1次松方内閣

山縣有朋(第1次山縣内閣)の後継総理として伊藤博文や西郷従道、山田顕義などの名前も挙げられたが、5月2日に松方正義に組閣の大命が下った。松方は、組閣にあたって前任者たちの全面協力無くしては引き受けられないと述べて全閣僚の留任を唱えて、総理就任の条件とした。そこで前内閣の閣僚が当面留任することになった。このため、民党からは「黒幕内閣」「二流内閣」と揶揄された。だが直後から辞意を表明する閣僚が続出し、更に大津事件が発生して責任を負って外務大臣や司法大臣、内務大臣などが辞意を表明するなどして、最終的には成立1か月に漸く海軍・農商務・逓信の3大臣以外は全て閣僚を差し替える人事が決定された。その結果、元勲級の閣僚が1人もいなくなり、薩長出身者が全閣僚の半数を割るなど、いつ倒れてもおかしくない状況になった。かくして迎えた第2議会では、民党が前内閣が約束した「政費節減」の公約を果たさずに海軍予算の拡張を行おうとする政府を批判した。これに激怒した海軍大臣樺山資紀がいわゆる「蛮勇演説」を行って衆議院は空転、松方は12月25日に初めての衆議院解散を決断した。翌1892年2月15日に第2回衆議院議員総選挙が行われたが、この際品川弥二郎内務大臣と白根専一同次官が中心となって大規模な選挙干渉を行って、民党関係者を中心に死者25名負傷者388名を出した。これに陸奥宗光農商務大臣が抗議して辞任(陸奥は解散以前は現職衆議院議員。今回は自身は出なかったが、弟分である岡崎邦輔(従弟)・星亨の推薦人であった)、品川も辞任した(後に親政府議員を結集して国民協会を結成する)。選挙後に召集された第三議会では民党による政府糾弾が行われ、親政府の筈の貴族院でさえも松方内閣との距離を置き始めた。更に内務省では選挙干渉の責任追及を行おうとした副島種臣新内務大臣が白根とこれを支持する安場保和・船越衛ら地方官グループの策動で辞職に追い込まれた。6月に入ると、他の閣僚からも辞表提出者が相次ぎ、7月に白根・安場らの更迭が決定されると、同月27日には処分に消極的であった軍部大臣が揃って辞表を提出、これを見た松方は自らも辞表を提出したのである。

出典:wikipedia

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