神岡町(かみおかちょう)は、岐阜県吉城郡にあった町。1950年(昭和25年)6月10日に船津町と阿曽布村、袖川村が合併して誕生した。2004年(平成16年)2月1日に吉城郡の古川町、宮川村、河合村と合併して飛騨市となった。岐阜県の北東端に位置し、山岳に囲まれた河岸段丘に市街地がある。亜鉛を産出し、イタイイタイ病の原因となった神岡鉱山があり、この町は特に近世以降は鉱山の町として栄えた。市街地を神通川の支流高原川と、そのさらに支流の吉田川・山田川が流れ、また町の北部には同じく高原川の支流である跡津川が流れている。跡津川の支流の一つ打保谷川上流に「山之村地区」があるが、川沿いに道はなく、市街地から10km以上離れている上どこから行くにも峠越えになり冬季になると往来可能な道が一つだけになるため、年々過疎化が進んでいる。室町時代に神岡を含む高原郷を支配したのは、幕府政所執事伊勢氏に近かった江馬氏であった。江馬氏は町内にあたる高原諏訪城を居城として高原郷内にいくつかの支城を設けていたが、戦国時代にはいると同じ飛騨国内の三木氏との対立を深め、最後には三木氏に従うこととなった。しかし天正13年には豊臣秀吉の家臣である金森長近によって三木氏も降伏させられ、江馬氏も同時に滅びることとなった。金森氏がはじめて飛騨に入ったのは天正14年のことであった。金森氏は飛騨国を治めるにあたって、茂住宗貞を登用するなどして資源の開発に力を注いだので、当地の鉱山もこの時期発展を見ることとなった。文禄年間・慶長年間には茂住銀山(のちの茂住坑)が最盛期を迎え、当時は1000戸以上の家々があったといわれるが、その後茂住銀山は衰退し、戸数も激減を見ることとなった。当町の鉱山が再び賑わいを見せるようになるのは江戸時代のことで、これは江戸幕府が財政難のため、地下資源の開発を命じたことによる。茂住銀山だけでなく和佐保銀山(のちの栃洞坑)も人口が増加し、再びこの地の鉱山が活気付いたのである。明治初期、神岡の鉱山採掘は未だ零細な山師がそれぞれ数坑を持ち行うといった形態であったが、その後三井組が次々にそれらの山師から坑を買収して行き、ついに1886年(明治19年)には和佐保すべてを、ついで1889年(明治22年)には茂住のすべてを手に入れ、これをもって神岡鉱山全山が三井の所有となったのである。以来三井は神岡鉱山に多くの資本を投入して最先端の技術による大規模な採掘を行うところとなるが、のちにはカドミウムが高原川から下流の神通川に流入し、イタイイタイ病を発生させることとなった。1983年(昭和58年)、鉱山跡地の一つを利用して、カミオカンデというニュートリノ観測所がつくられた。1996年(平成8年)にはスーパーカミオカンデが稼動し、カミオカンデの跡地にはカムランドがつくられた。富山県婦負郡細入村(現・富山市)の猪谷駅から、高原川をさかのぼる形で神岡の中心部まで、19.9キロメートルの神岡鉄道神岡線がのびていた。列車は一日におよそ10往復運行されていて、うち3往復は神岡の市街地にあたる奥飛騨温泉口駅から神岡鉱山前駅までのみの運転となっていた。2006年(平成18年)12月1日に廃線。飛騨神岡駅は旧船津町の、奥飛騨温泉口駅は旧阿曽布村の中心に近い。また、神岡軌道(1967年廃止)や双六・金木戸森林鉄道(1963年廃止)も町内を走っていた。町の西部で、国道41号が、高原川と神岡鉄道に沿って通っている。町内にはその他国道471号が通っている。冬季には道路は通行止めになる箇所が出る。高速道路一般国道主要地方道一般県道林道
出典:wikipedia
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