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郷原宿

郷原宿(ごうばらじゅく)は北国西街道(善光寺街道、善光寺西街道)の宿場で、信濃国筑摩郡郷原町村と堅石町村にまたがっていた。(現長野県塩尻市)。なお、明治35年(1902年)の篠ノ井線開通(松本―塩尻間)にともない宿場の機能を失っている。慶長18年(1613年)松本藩に小笠原秀政が飯田より入封し、翌年宿場改めを行った。中山道洗場宿から松本の猿ヶ番場峠を越えて稲荷山宿までの善光寺街道を整備し、奈良井川東岸の上野地籍の人々を街道沿いに移住させて郷原宿を設定した。当初は総家数23軒の集落であった。これが慶安4年(1651年)には38軒、安政2年(1855年)には総家数72軒となっている。それでも中山道三宿の天保14年(1843年)の家数は塩尻宿166軒、洗馬宿163軒、本山宿117軒と比べるとはるかに少ない。これは中山道が五街道の一つであって公儀の通行が多く、主要街道としての宿場の構成を備えていたからであり、郷原宿は地方の脇街道の宿場であったためである。元禄3年(1687年)ころから伝馬(馬による荷物運び)、助郷(人馬の応援提供)が整備され、助郷宿としての役割を担った。本陣や脇本陣はなかったが、大名などは山城屋や問屋に休泊したとされる。二度の大火により、郷原宿は全焼する。一度目は文政4年(1821年)で、二度目は安政5年(1858年)、一度目の大火で郷福寺も全焼するがその後再建されている。二度目の大火の際、郷福寺のみが類焼を免れた。幕末の安政5年の大火の後に再建された町並みは、かつて柳宗悦が「宿場全体が誠に見事な一個の作品だといってよい」と絶賛した。古い建物は、緩い勾配の切妻屋根で、妻側を正面とする本棟造。「雀おどり」と呼ばれる棟飾りが威風堂々とした外観を与えている。また、家屋の前面には庭木が植えられていて、他の宿場町と異なる独特の景観を作っている。現代の建物にも、妻入りの構造は引き継がれている。北国西街道

出典:wikipedia

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