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安藤鶴夫

安藤鶴夫(あんどう つるお、1908年(明治41年)11月16日 - 1969年(昭和44年)9月9日)は、小説家(直木賞受賞)。落語、文楽、歌舞伎、新劇の評論家であり演芸プロデューサーでもあった。本名、花島鶴夫。東京市浅草区向柳原町(現在の東京都台東区浅草橋)に、義太夫の8代目竹本都太夫の長男として生まれる。1934年(昭和9年)の法政大学文学部仏文科卒業の時に髪を切り、以後、死ぬまでイガグリ頭で通す。子供のころから親しんだ都新聞社へ途中入社したのは1939年(昭和14年)。都新聞は花柳界の広告を載せている文芸演芸の紙面に特色のある新聞であった。当初は調査部に所属しながら演芸面に落語研究会、東宝名人会、文楽の東京興行を批評する記事を書き、翌年に文化部へ移った。1946年(昭和21年)に『苦楽』誌に聞書「落語鑑賞」(8代目桂文楽の噺、10話)を連載して評判となった。社外からの執筆要請が増えたが上層部から問題とされ「真綿で首の、岩藤流のいやがらせをされ」たことから、1947年(昭和22年)9月に退社。スクリーン・ステージ新聞(キネマ旬報社)に移った。1949年(昭和24年)には都時代に『東宝』誌に掲載された4代目柳家小さんの芸談「小さん・聞書」などを併せて『落語鑑賞』(苦楽社)が本となり、そこから寄席評論家としての評価を確立した。特に文楽の話芸を活字で再現して高く評価された。1950年(昭和25年)から三越名人会を、1953年(昭和28年)からは三越落語会を主宰。新作落語が人気を博していた戦後に古典落語を再評価して演芸評論の重鎮となった。それまで主に寄席で聞くものだった落語をホール落語という新しい形を定着させた功績は大きい。1959年(昭和34年)に急逝した湯浅喜久治の遺志を継ぎ、東横落語会を引き継いだ。幅広い交友関係をもち、各種芸能に造詣が深かった。落語・講談等の寄席評論家としては正岡容と双璧。古典落語至上主義、新作落語排斥の急先鋒であり、戦後の落語界に大きな影響を与えた。文化庁芸術祭賞実行委員。小説も手がけ、1963年(昭和38年)『巷談本牧亭』により、第50回直木賞受賞。劇団前進座によって劇化され、日本国内の他に日中国交回復前の中国・北京でも上演された。物事への感情の入れ方が激しくアンドウツルオならぬ「カンドウスルオ」の異名があり、自著『巷談本牧亭』でも言及している。テレビ番組夢であいましょうにゲスト出演した際には、梓みちよが歌ったこんにちは赤ちゃんを聞いて放送中に涙ぐみ絶句した。反面、他人の礼を失した態度には厳しく、来訪した編集者が原稿をあらためずに持ち帰ろうとしたところ取り上げてしまった。小料理屋で見知らぬ客が「アンツルがいる」と口にしたのを耳にして相手を怒鳴りつけた事もある。日本の伝統芸能に関心を持つ若者に良い芸を紹介しようという意識は強く、写真家の金子桂三は他人に書庫を見せない安藤に伝統芸能関連の書籍を貸してもらい、のちに文楽や能・狂言の撮影を手掛けるきっかけになった。永六輔は人間国宝である豊竹山城少掾の浄瑠璃を見せられて当時は浄瑠璃そのものの良さが理解できず、正直に理解できないと言ったところ怒った安藤に君は日本人ではないと言われ、後日安藤からわざわざ中国語に翻訳させた永を叱る手紙が届いた。以降「えい君」と呼んでもらえず冗談交じりに「ヨン君」と中国語風に呼ばれるようになり、それは安藤の逝去まで続いた。厳しい演芸評論の一面ユーモラスな面も持ち合わせていた。四谷にある鯛焼き屋を尻尾まで餡子が入っていると戦後新聞紙上で書いたところ大人気になり、その店は2012年(平成24年)現在も盛業中。最晩年、東京に残された客席が畳敷きの最後の寄席(落語定席)だった人形町末廣が閉場すると聞き、各方面へ保存を働きかけるも諸事情あり、自身が糖尿病で健康を害していたこともあって保存は果たせなかった。1969年(昭和44年)9月9日、死去。享年60。1980年代には、落語ファン以外からは忘れ去られた存在となっていたが、安藤の影響を大きく受けた世代の一人である小林信彦が、志ん朝について書いた文章等で自身に大きな影響を与えた存在としてとり上げたため、再び注目を浴びた。小林は『日本の喜劇人』の古川緑波についての記述において間接的に、安藤は評論家としてよりもエッセイストとして優れていたと書いている。高田文夫は、若い頃に安藤の多大な影響を受けたと語っている。また、近年のお笑いブームを幅広くフォローしている評論家西条昇も、安藤を高く評価し、同じ評論家としてリスペクトしている。安藤の活動・論調にとって、実質的な師匠とでも言うべき存在は、久保田万太郎である。古典落語という言葉は、久保田万太郎・安藤鶴夫師弟のいずれかが昭和20年代に「発明」したと言う説がある。「落語鑑賞」は、『苦楽』編集長の大佛次郎が落語を文学として読むに堪える文章として載せたいと久保田に連載を依頼したところ、久保田が安藤を推薦したのがきっかけである。師弟の信頼は篤かったが、反面、安藤は久保田以外の意見は聞かなかった。3代目三遊亭金馬(東宝専属)と不仲だった久保田や安藤の評価では金馬の芸は一貫して低評価であったが、同業者である8代目桂文楽は金馬を高く評価していた。文楽が安藤に低く評価する理由を質問したところ、安藤は「金馬は乞食芸だ」と答えた。争いを好まない文楽は引き下がったが、自身の弟子に「安藤鶴夫は何もわかっていない」と漏らしていた。5代目古今亭志ん生は長い間売り出せず、評論家にも相手にされなかったが売れたらすり寄ってきたと弟子に発言している。5代目志ん生については安藤は文章や放送台本で多数触れている。自身の好む芸人を礼賛し続ける反面、自身の好まない落語家には辛辣だった。そのあり方から本業の評論はおろか生き方に至るまで激しい毀誉褒貶に見舞われ、その頃すでに権威となっていた安藤に良くない印象を持つ者は芸人・関係者・ファンに至るまで数多く存在した。安藤から高い評価を得ながら批判の矛先がいつ自分に向けられるかと疑心暗鬼になっていた者も少なくない。永六輔が安藤の評伝が没後4年(執筆当時)を経て1冊も出版されず不思議に思い、安藤について書こうとしたところ、良く書くのかそれとも悪く書くのか、と各方面から真意を聞かれている。戦前は7代目三笑亭可楽、戦後は8代目桂文楽や3代目桂三木助を高く評価する一方、以下の落語家は辛辣に批評するか無視だった。

出典:wikipedia

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