名寄岩 静男(なよろいわ しずお、1914年9月27日 - 1971年1月26日)は、北海道名寄市出身(出生地は北海道小樽市)の元大相撲力士。本名は岩壁 静雄(いわかべ しずお)。1914年9月27日に家伝の灸と鍼を用いた治療業を営む家に生まれる。両親と同じ鍼灸師を目指すべく、1931年の春に上京して東京・両国の東京鍼灸医学校へ進学し、1932年に鍼灸師の免許を取得して帰郷しようとしていたところ、体格の良い岩壁を見つけた立浪から強引にスカウトされた。最初はせっかく鍼灸師の免許を取得したために断ったが、立浪が岩壁の父親へ向けて手紙を書いて送ったところ、許可されたことで立浪部屋へ入門した。1932年5月場所において初土俵を踏むと、部屋の一年後輩で、各段優勝を果たしてスピード出世で追いかけてくる羽黒山政司をライバル視していた。新入幕(1937年1月場所)までは全て名寄岩が先を越していたが、大関昇進争いでついに羽黒山に先を越された。逆に言えば、何人もの部屋や角界の先輩をごぼう抜きにしてきた羽黒山には、三役昇進まで先を譲らなかったことになる。立浪部屋に双葉山定次・羽黒山政司の横綱・大関が存在していたため、名寄岩は関脇で10勝を挙げながら据え置かれた不運もあったが、1942年5月場所で11勝を挙げ、場所後に照國萬藏・安藝ノ海節男が揃って横綱へ昇進したことで、大関が前田山英五郎ただ一人になることから、1943年1月場所で念願の大関昇進を果たした。新大関の場所こそ9勝6敗と勝ち越すが、その後は連続で負け越すなど不振で、大関在位僅か3場所で1944年5月場所では関脇に陥落した。その関脇でも一度だけ負け越したが(1945年6月場所で3勝4敗)、当時の日本は第二次世界大戦の真っ只中で混乱期に陥っていたことから番付面で幸いにも小結に陥落することが無かった。1946年11月場所で大関復帰を果たすが、糖尿病・胃潰瘍・腎臓疾患・神経病などの様々な病気を患い、「病気のデパート」との愛称まで付くほどで、9勝4敗と勝ち越したものの全盛期の活躍は見られなくなった。1947年6月場所ではついに初の幕内全休となり、同年11月場所では11戦全敗で再び関脇へ陥落した。二回目の大関陥落後も様々な病気・怪我が減る気配は一向に無く、幕内も前頭下位にまで落ちていたが、名寄岩は懸命に土俵を務めていた。1950年5月場所では9勝6敗の成績で敢闘賞を受賞し、「涙の敢闘賞」として映画にもなった。1952年9月場所では千代の山雅信から金星を奪うなど健在ぶりを発揮し、再び敢闘賞を受賞した。1954年5月場所千秋楽には、全力士の鑑として日本相撲協会から特別表彰を受けた。同年9月場所を最後に現役を引退したが、若い頃からのライバルだった羽黒山政司より1年遅い引退となった。最後の土俵となった1954年9月場所千秋楽には40歳と6日で、これはちょうど60年後の2014年9月場所7日目に旭天鵬に更新されるまで、戦後の最高齢幕内出場記録だった。現役引退後は年寄・春日山を襲名して春日山部屋を経営し、前頭・大昇充宏を育成したが、大昇は預かり弟子で直弟子からは白法山旺三が関取昇進を果たしたが、それを見届けるように1971年1月26日に死去、。名寄岩の死去から10年が経過した1981年、故郷の名寄市に名寄岩の銅像が建てられた。また、2006年には孫(長女の子)が「片桐」の四股名で松ヶ根部屋へ入門して祖父(名寄岩)に続く関取昇進を目指したが、幕下昇進を間近にしながら網膜剥離でドクターストップとなり、2010年11月場所を最後に現役を引退している。相手の左を引っ張り込んでから極め出すか、吊り出すか、掬い投げる一本調子の取り口で、相手の上手が取れなければ相手の肉を掴んでまでも吊り上げる強引なものだった。また、立ち合いで相手力士にじらされると顔を真っ赤にして怒り出すほどの直情な人柄から「怒り金時」と呼ばれた。大関から二度の陥落を経験しているが、金星・三賞(敢闘賞)を受賞した上に関脇まで返り咲き、40歳まで現役で土俵に上がるなど劇的な土俵人生を送った。この件から「涙の敢斗賞」として舞台や映画になり、戦後直後の日本中を沸かせた。天真爛漫・純情で一途な性格で、双葉山定次を終生敬愛してやまなかったという。
出典:wikipedia
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