丁 一権(チョン・イルグォン、1917年11月21日 - 1994年1月17日)は、大韓民国陸軍の軍人、政治家。創氏改名時の日本名は中島 一権(なかじま いっけん)。本貫は羅州丁氏。号は淸史()。1917年11月21日、両親が入植していたロシア沿海州ウスリースクで生まれる。父親は帝政ロシア極東軍で通訳を務めていたという。ロシア革命が起こると父親は解任され、父母の故郷である日本統治下の朝鮮半島、咸鏡北道の慶源郡に戻ってきた。1930年春、満州国間島省龍井の永信中学校に入学。家は貧しく、豆満江に渡り荒れ地を開墾し、中学の学費は牛乳配達などで丁一権自身が捻出した。在学中の1934年5月に中学校が合併され、合併先の光明中学校を卒業した。中学校で成績優秀であったことから推薦を受け、奉天の満州国軍官学校に入学。1937年9月、卒業(第5期)。任少尉。同期に金燦圭(のちの金白一、韓国陸軍中将)、申鉉俊(のちの韓国海兵隊中将、外交官)など。成績抜群につき日本の陸軍士官学校に留学し、騎兵55期卒相当。1944年、日本の陸軍大学校にあたる陸軍高等軍事学校に第2回学生として入校。太平洋戦争終戦時は満州国軍憲兵大尉。終戦後、在満朝鮮人の生命と財産を保護するための居留民団が組織され、そのうちの一つである新京保安司令部の司令官となった。満州を占領していたソビエト連邦のKGBに連行され、モスクワに留学して6ヵ月間再教育を受けることが決まるも、適性がないとされたため乗せられたシベリア行きの列車から脱走した。復員後は平壌に戻ったが、共産化したことから身の危険を感じ、白善燁の弟である白仁燁と共に1945年末に越南。1946年1月15日付けにて軍事英語学校卒。軍番5番。任大尉。ただちに南朝鮮国防警備隊にてソウルと京畿道を担当する第1連隊のB中隊長。1946年5月、第4連隊長。1947年1月、陸士校長。1947年9月、南朝鮮国防警備隊総参謀長。1948年8月、作戦参謀副長。1949年2月、陸軍准将。1949年3月1日、智異山地区戦闘司令部司令官。南労党パルチザン討伐に従事。朝鮮戦争勃発時はアメリカ各地を視察中であったが、命令により帰国している途上のハワイにて変事の報を聞く。ただちに帰国し、首都陥落の責任を問われて解任された蔡秉徳の後を継ぎ1950年6月30日に大韓民国陸軍参謀総長に就任。任少将。1950年7月より3軍総司令官。大韓民国陸海空軍を総指揮した。1951年6月、国民防衛軍事件と居昌事件の監督責任から参謀総長を辞任。1951年、中将昇進と同時にアメリカ陸軍指揮幕僚大学に留学。修了後、帰国した。1952年7月、第2師団長。1952年11月、アメリカ第9軍団副軍団長。1953年2月、第2軍団長。朝鮮戦争休戦後の1954年2月、任大将、陸軍参謀総長。1953年6月、合同参謀会議議長。1957年、予備役編入。1957年6月、駐トルコ大使。1959年、駐フランス大使。1960年、駐アメリカ大使。その後は政治家として、外務部長官(第11代・13代)や国務総理(第9代・第三共和国)を歴任。国務総理時代にはサッカリン密輸事件について国会で質問していた金斗漢(韓国独立党)による国会汚物投擲事件に見舞われている。1971年からは与党民主共和党の国会議員を連続3期(第8代・9代・10代)務め、1973年から1979年の第9代国会では議長を務めた。1991年3月、リンパ癌治療のためにアメリカのハワイ州にて療養。1992年に民主自由党常任顧問に任命。1992年の第14代韓国大統領選では金泳三を支持して遊説を行った。1993年に鄭仁淑の子供が丁一権に対する親子確認訴訟をソウル地方裁判所に提訴。しかし持病悪化により病気治療出国し、1994年1月にハワイ州ストラウブ病院に入院。1月17日、死亡した。遺体は飛行機で帰国し、1月22日午前、国会議事堂前で告別式が行われ、ソウル市内の国立墓地に埋葬された。なお、同じ中学校に通っていて、1994年1月18日に死亡した文益煥(ムン・イクファン)牧師と、その生き方の違いが大きく報道された。文益煥は民主活動家としてたびたび投獄され、獄中生活は7回11年に及んだ。満州国軍将校の経歴により、2008年に民族問題研究所で親日人名辞書に収録するために整理した親日人名辞書収録予定者の軍の部門に記載され、2009年に親日反民族行為真相糾明委員会の選定した親日反民族行為者リストに記載された。
出典:wikipedia
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